第12話 波乱の大学見学
スローペースの更新で申し訳ありません。
区切り良いところまで書けたので投稿します。
薫は大学の正門へと急いで小走りに走っていた。
メールで知らせてくれた通り、信彦は大学の正門で薫が来るのを待っていた。赤レンガで造られている正門の壁に、背を凭れ掛けさせて両腕を組んでいた。
信彦が通う高校は幼稚園から大学まで教育環境を整えている事で有名な私立高校だ。その高校の制服は、世界的に著名な服飾デザイナーがデザインしたという落ち着いた深緑のブレザーだった。
女性たちが歩く速度を緩め、不躾にならない程度に信彦をちらちらと盗み見ながら正門を通過して行った。
「あの男の子、綺麗な顔していてセレブって感じしない? 手足も長いし、あんな彼氏欲しいな」
「やめときなよ。ああいうお坊ちゃまには、婚約者がもれなく付いているに決まっているじゃない」
正門から50メートルほど離れて、信彦には聞こえないと思ったのか、まだ幼さの残る女子大学生が信彦を品定めしながら薫の横を通り過ぎた。
薫には少年のような無邪気さを見せる半面、高校では年齢の割には妙に大人びた雰囲気を纏わせる信彦は、同じ高校の女子からは人気が高かった。
何せ、財閥の御曹司で文武両道。海外生活が長かったせいで、バイリンガル。かつ、レディファーストの精神を叩き込まれている見目麗しい少年となれば、お近づきになりたいと思うのも自然な事だった。
もっとも、薫は教授の紹介で家庭教師のアルバイトをしているだけなので、信彦の詳しいフロフィールには興味がなかったし、信彦も薫に知らせていなかった。
信彦が先生と生徒という垣根以外に、変な遠慮を二人の間に作らせたくなかったからである。
「ごめん、信彦くん。待った?」
薫が息を弾ませながら駆けて来るのを信彦は目の端に捕えた。弾かれるように壁から身を起こして、弾ける笑顔を輝かせながら信彦は薫へと歩み寄った。
「薫先生!」
この子が犬だとしたら、間違いなく柴犬だと、薫は思った。久しぶりに会ったご主人様に嬉しくて尻尾を全力で振り回している光景が目に浮かんでしまった。
「今日は、お世話になります」
信彦が薫に向ってお辞儀をした。日本式の礼儀作法がちゃんと身についている様を見て、薫は感慨深く出会った頃を振り返った。
家庭教師として初めて紹介された時、信彦から頬にキスされそうになり、持っていた参考書で思いっきり頭を叩いた事もあったっけ……。
即刻、首になるのかと薫は覚悟を決めていたが、意外にもそうならなかったのは何故なのか、未だに分かっていない。
「来年の受験に備えて、いろいろな大学を見て回るのは良い事だけど、信彦くんの成績なら都内の国公立大学も十分合格圏内だと思うよ」
社交辞令でも何でもなく、薫は心の中からそう思っていた。
読解能力というネックが取り払われた後、信彦の学力の伸びは著しいものがあった。こっそり一学期末テストの模擬試験と称して全国学力統一テストをさせてみたら、全国3000位内の成績を叩き出してしまった。
こんなに成績が良くなっているのに、私が家庭教師につく必要はあるんだろうか、と薫は最近疑問に思えてきている。
必要とされる限り、精一杯勤めようとする薫の姿勢は素晴らしいものがあるが、裏の事情――信彦が薫に会いたい為に家庭教師を続けてもらっている――を深読み出来ないほどには、社会経験が断然足りなかった。
「僕は、薫先生が通う大学だから、是非、見学に来たかったんです」
「そうなんだ。何と言っても京葉大学の陸上部は強いからね。練習する環境も整っているから、陸上に打ち込みたいのならお勧めかな」
信彦が「薫先生が」と強調しているにも関わらず、薫はその意味にも気づかず、全く別の意味にとって、信彦にとっては期待していない返事を返してくる。
鈍い。鈍すぎる。
信彦は穏やかな微笑みを浮かべながら、腹の中では落胆していた。そして、ふと一つの疑問が頭に浮かぶ。
霧島はどうやってこの鈍感娘を口説いたんだ?
「うちの陸上部に興味があるんだったら、先に練習場の方を見てみる?」
薫の明るい声で信彦は思索の渦から現実へと意識を戻した。思い焦がれていた人と半日一緒の時間を過ごせるのだ。その時間を少しでも長くするために、信彦は口を開いた。
「練習場はあとで良いです。今、行っても練習している人は少ないでしょう? 先に校舎の方を案内してもらっても良いですか?」
「いいよ。どの学部からにしようか?総合大学だから理系、文系の様々な学部があるけど……」
「薫先生に順番はお任せします。学部は理系文系に関わらず、万遍なく回りたい」
「オーケー。任された」
信彦は校舎の方へと向かう薫の横に並んで歩き始めた。薫はちらりと横目で信彦を見遣った。
家庭教師を始めた頃、信彦くんは私の目線よりも身長は低かった。でも、今は私と信彦くんの目線は同じぐらいになっている。
男の子って成長するのが早いな。すぐに身長も追い抜かれそうだ。
「何? 僕の顔に何か付いている?」
薫の視線に気づいた信彦は、薫にそう問いかけた。
「いや、背が伸びるのが早いなと思って」
薫が視線を逸らしながら答えると、信彦は冗談めかして言った。
「成長期だから、どんどん体は大きくなります。もう少ししたら身長も完全に薫先生を抜きますね。先生の身長を追い抜いたら、大人の男として見てくれるんですか?」
高校生の信彦が冗談半分でも大学生の薫をからかっていると感じた薫は、ちょっとだけ不愉快になって、ぷいと横を向いた。
「高校生は大人じゃありません」
「それは、残念」
すくすく笑う信彦の声が響いた。信彦は心の中で密かにため息をついた。
いつまで経っても、薫は僕の事を子供扱いしてくれる。ただでさえ年下で、先生と生徒というハンデもある。
一体、いつになったら、一人前の男として見てくれるんだ……。
信彦は気持ちが落ち込んで、思わず足を止めた。薫が目ざとく気づいて、信彦の方を振り返った。
「どうかしたの? 早く回らないと日が暮れてしまうよ」
「そうですね。行きましょう」
どうしたのかな? 信彦くん。さっき、少し様子が変だった気がするけど……。
釈然としない気持ちを抱えたまま、薫は信彦と共に工学部の校舎へと入って行った。
どこまでも、恋する心の機微に鈍い薫であった。
* * * * * * * * * *
文系・理系合わせて12の学部がある校舎と、図書館等関連施設を隈なく見学に回るのは一仕事だった。
薫はできるだけ効率よく案内してみせたつもりだったが、見学の終盤になる頃には西の空が茜色に染まっていた。
「ここが陸上部と体育学部が使う運動場。周りの建物は、更衣室やシャワー室、ウェイトトレーニングルームや室内プール、体育館、柔道場とかね」
体育学部と箱根駅伝出場常連校である京葉大学のものは、運動場の数だけでも3つもある。しかも、その内の一つは地面に合成ゴムが敷き詰められているタータントラックになっていた。
「設備が充実していますね。全天候性トラックは体育部がある大学には設置されている所が多いけれど、夜間でも練習ができる様に照明灯がある所は珍しい」
信彦は周囲を見回してから、合成ゴムの感触を確かめる様にトラックの上を歩き始めた。
100メートル走のスタートライン上で、信彦は悪戯を思いついたかのような意地の悪い笑みを浮かべ、薫に振り返った。
「ねぇ、薫先生。勝負しない?」
「勝負?長距離走なら負けないわよ!」
「まさか! 距離走で勝負を挑むほど、僕は無謀じゃありません。勝負するのは、100メートル走です。負けた方が、一つ相手の望みを叶えるというのは、どうですか?」
「よし、その勝負のった!」
信彦は薫を上手く賭けに乗せれた事に、しめしめとほくそ笑んでいた。
長距離走で競うと、大学生の中でもトップアスリートである薫に対しては信彦に分がない。しかし、短距離走で使う筋肉と長距離走で使う筋肉は違う種類のものだ。長距離走に特化している体を作っている薫は、瞬発力が必要とされる筋肉は極限まで減らされているはずだという推測を信彦はしていた。
だから、短距離走で勝負すれば、十分信彦にも勝機があると踏んでいた。
一方、薫は単純なもので、年下の陸上もロクにしていない男の子に、自分が負けるわけがないと思い込んでいた。
賭けに勝ったら、信彦くんが持っているポータブルゲーム機をゲームソフト付きで二週間貸してもらおうと、薫は取らぬ狸の皮算用をしていた。
己の勝利を信じてスタートラインの方に喜々として駆けていく薫の背中に、刺々しい声が投げかけられた。
「婚約者がいるのに、若い男を引っ掛けてデートですか? 立山先輩」
信彦は策略の邪魔をされ、薫に悪意を向ける人物の登場にしかめ面を隠さなかった。
この勝負に勝って、一日デートの約束を取り付けようと思っていたのに、よくもその機会を潰してくれたな。
自然と声の主を見る信彦の目に剣呑さが宿る。
「柿崎さん、これはデートなんかじゃない。大学を見学に来た家庭教師のアルバイト先の子を案内していただけよ」
柿崎は走り込みから戻ってきたばかりなのか、額にも首筋にも汗を浮かべていた。Tシャツと短パン姿で、こちらへゆっくりと歩いてきていた。
今年の春に陸上部に入ってきた新人の一人が柿崎だった。京葉大学の陸上部が強いからこの大学に進学してきたのではなく、インターハイの全国大会で後続を完全に振り切って走る薫に憧れて入学したという変わり者だ。
同じ一万メートル走の選手ということもあり、薫と親しかった後輩でもある。だが、薫が陸上競技場から明人によって連れ去られた事件以降、柿崎の態度がよそよそしくなっていた。
「弁解は、もう結構です。立山先輩は凡人がどんなに努力したって得る事ができない才能があるのに、なんであんな芸能人と付き合って自分を駄目にするような事をするんですか? 全国大会で棄権して……。一般人がその予選に出場するために、血の滲むような努力をしているのか分かっているんですか!?」
薫は俯き、黙って柿崎の非難を一身に受けていた。
不可抗力とはいえ、結果として棄権扱いになったのは事実だ。その上、マスコミが大学と陸上部の仲間の所にも押しかけたらしく、柿崎もコメントを取ろうとする記者達に辟易とした事だろう。多大な迷惑を掛けてしまったという自覚がある薫は、じっと柿崎の言葉の刃に耐えていた。
「薫先生を責めるな!」
信彦が薫と柿崎の間に立ち塞がった。
「先生を無理矢理に連れ去ったのは霧島だ。棄権についての文句なら、薫先生じゃなく、あの腐れ俳優に言えよ!」
「何よ! 部外者は口を出さないで!」
「僕は薫先生の教え子だ」
信彦に堂々と開き直られて、柿崎は言葉に詰まった。一歩も引かない信彦の態度に柿崎は悔しそうに目を逸らして、ふんと鼻をならすと来た道を戻って行った。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせて……」
申し訳なさそうに薫が信彦の背後でぽつりと呟いた。
信彦が振り返ると、薫はゴム製の地面の上に座り込んで、声もなく静かに涙を零していた。
目線の高さを合わせる様に屈みこんで、信彦は薫に深緑のチェックが入っているハンカチをそっと差し出した。
「ありがとう」
薫はか細い声で礼を言ってハンカチを受け取り目元をぬぐった。
「霧島と婚約して先生は幸せ? 大学で針のむしろに晒されているのに、何もしてくれない婚約者で先生は幸せになれるの?」
信彦の問いに、薫の肩が一瞬だけびくっと揺れた。薫の返事は無かった。
薫よりもほんの三年遅れて生まれてきた事が、こんな悔しい感じた事は今までになかった。
年下でもいい。せめて大学生として同じ大学に通えたならば、理不尽な誹謗中傷から薫を守ってやれるのに……。
無力な自分に歯がゆさだけが募る信彦だった。
2013.10.27 初出




