■第十五話 帝国のない世界
帝国が滅びてから――十年が過ぎた。
かつて巨大な帝都が存在した場所には、もう宮殿はない。
黒い城壁も。
巨大な魔導兵器も。
皇帝の旗も。
すべて消えていた。
そこに残されたのは、一つの小さな街だった。
帝都モスカル。
かつて世界最大の都市だったその場所には、今では七つの国から人々が訪れていた。
商人。
旅人。
学生。
農民。
兵士。
そして――老人たち。
彼らが向かう場所は、一つだった。
丘の上にある、小さな墓。
そこには名前だけが刻まれている。
プーチノフ
その下には、短い言葉が刻まれていた。
「最後の皇帝」
墓の前には、七本の旗が立っている。
北方共和国。
東方連邦。
南方王国。
西方諸侯連合。
中央帝国。
新生モスカル共和国。
北東辺境国。
かつて一つだった帝国から生まれた七つの国。
今では、それぞれが全く違う道を歩んでいた。
北方共和国では、広大な農地が開発されていた。
かつて帝国の食料庫だった土地は、今や七か国へ食料を輸出するほど豊かになっている。
東方連邦では、魔導技術が発展していた。
かつて戦争のために使われた魔力は、今では鉄道や発電、医療のために使われている。
南方王国では、騎兵国家だった伝統を残しながら、巨大な交易港が作られた。
西方諸侯連合では、海運業が発展した。
中央帝国では、工業都市が次々と生まれた。
新生モスカル共和国では、かつての帝都の図書館を復元する事業が進められていた。
そして北東辺境国では――
かつて誰も住もうとしなかった極寒の土地に、新しい町が作られていた。
七つの国。
七つの未来。
もう、誰も一つの帝国に戻ろうとはしなかった。
もちろん、問題はあった。
国境争いもあった。
貿易摩擦もあった。
政治家同士が怒鳴り合うこともあった。
時には軍隊が国境へ集まることもあった。
それでも――
昔とは違った。
誰かが言った。
「戦争をする前に、話し合おう」
その言葉が使われるようになった。
それだけでも、大きな変化だった。
かつては帝国の命令一つで、何十万もの兵士が動いた。
今は違う。
七つの国が、それぞれの意思で未来を選んでいる。
そのことを、人々は少しずつ理解し始めていた。
そして――
プーチノフの墓。
一人の少年が、祖父と一緒に墓の前に立っていた。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「この人、本当に皇帝だったの?」
「そうだ」
「じゃあ、すごく偉い人?」
老人はしばらく墓を見つめた。
「……そうだな」
「じゃあ、どうして国を滅ぼしたの?」
老人は少し笑った。
「最後には、それが一番いいと思ったからだろう」
少年は首を傾げた。
「変なの」
「そうだな」
老人は頷いた。
「人間というのは、変な生き物なんだ」
風が吹いた。
七本の旗が揺れる。
少年は墓石を見上げた。
「この人は、悪い人だった?」
老人はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくり口を開く。
「たぶん――」
「悪いこともした」
「たくさんの人を苦しめた」
「たくさんの人を死なせた」
「だから、英雄ではない」
少年は黙って聞いていた。
「でもな」
老人は墓石に目を向ける。
「最後に、自分が作ろうとしたものを壊した」
「自分が皇帝でいられる道を捨てた」
「そして、自分が嫌っていた七つの国を守って死んだ」
少年は考え込む。
「……じゃあ、英雄じゃないけど、悪人でもない?」
老人は笑った。
「人間は、そんなに簡単に二つに分けられんよ」
少年は墓石の前に花を置いた。
「また来よう」
「そうだな」
二人は丘を下りていった。
誰もいなくなった墓の前。
夕暮れの空に、七つの旗が揺れている。
その向こうには、七つの国がある。
北には北方共和国。
東には東方連邦。
南には南方王国。
西には西方諸侯連合。
中央には中央帝国。
旧帝都には新生モスカル共和国。
そして北東には北東辺境国。
七つの国。
七つの未来。
かつては、それらすべてを一つにしようとした男がいた。
だが最後に彼が選んだのは――
一つにすることではなかった。
違う国のまま、生きていくことだった。
夜が来る。
墓石に刻まれた名前が、月明かりに照らされる。
プーチノフ
最後の皇帝。
最後まで帝国に取り憑かれた男。
そして最後に――
帝国を終わらせた男。
その墓の前を、七つの国の人々が通り過ぎていく。
誰も跪かない。
誰も皇帝とは呼ばない。
ただ、時々。
墓の前に花を置いていく。
それだけだった。
それでいい。
帝国はもう、必要ない。
皇帝も、必要ない。
人々は自分たちの国を、自分たちで作っていく。
争いながら。
失敗しながら。
時には間違いながら。
それでも――
自分たちの未来を、自分たちで選んでいく。
千百六十年続いた帝国の物語は、ここで終わる。
だが――
人々の物語は、終わらない。
七つの国の夜空に、同じ月が浮かんでいる。
かつて一つだった帝国の大地を、静かに照らしていた。
そして丘の上。
プーチノフの墓だけが、月明かりの中に残っていた。
――完――




