■第一話 北方帝国は、滅びないはずだった
その日。
大陸最大のルーシア北方帝国が滅び始めた。
誰も、それに気づいていなかった。
帝都モスカルの時計塔が、午前六時を告げる。
朝日が巨大な城壁を照らし、帝国旗が風にはためいている。
黒地に銀の双頭竜。
数百年間。
その旗が降ろされたことは、一度もなかった。
帝国の人々は信じていた。
この国は滅びない。
北方帝国は、永遠に続く。
なぜなら、誰よりも強いからだ。
「北方帝国に敵う国など存在しない!」
広場では、兵士たちが胸を張って行進していた。
騎兵十万。
歩兵三十万。
魔導兵器を搭載した巨大戦車。
空を舞う竜騎兵。
さらに北方の地下には、大陸最大の魔晶石鉱山。
帝国が本気になれば、周辺諸国など数年で消し飛ばせる。
少なくとも、
帝都の人間はそう思っていた。
「我々は負けない!」
「北方帝国は千年続く!」
「敵国など、冬が来れば勝手に凍る!」
兵士たちの歓声が帝都に響く。
その光景を、黒い宮殿の最上階から見下ろしている男がいた。
皇帝プーチノフ。
ルーシア北方帝国を三十年にわたって支配してきた男である。
彼の前には、大陸全土を描いた巨大な地図が広げられていた。
赤い帝国領。
その西側に、青い小さな国がある。
ウクラナ西方共和国。
皇帝は、その国を指でなぞった。
「あと少しだな」
側近が頭を下げる。
「はい。陛下。西方軍はすでに敵軍を国境付近まで追い詰めております」
「そうか」
皇帝は満足そうに笑った。
「では、勝利は確実だ」
「その通りでございます」
「これでウクラナ西方共和国も終わる」
皇帝は椅子から立ち上がった。
「我が帝国は、さらに大きくなる」
側近たちは一斉に頭を下げた。
「偉大なる皇帝陛下に栄光あれ」
「北方帝国に永遠の繁栄を!」
皇帝は笑った。
その笑顔には、
疑いというものが一切なかった。
しかし、その日の朝。
帝都から二千キロ離れた北東部。
辺境都市ラグナでは、
まったく違う声が響いていた。
「食料はまだ届かないのか!」
「届いていません!」
「三週間だぞ!」
「帝都からの輸送命令が来ていません!」
「ふざけるな!」
倉庫の中には、
小麦袋がほとんど残っていなかった。
住民たちは配給所の前に並んでいる。
老人。
子供。
兵士の家族。
誰もが疲れ切っていた。
「パンを……」
小さな少女が配給兵に手を伸ばす。
「昨日から何も食べてないの」
兵士は少女を見る。
そして、
空になった棚を見る。
「……すまない」
「ないの?」
「もうないんだ」
少女の母親が娘を抱き寄せる。
「行こう」
「でも……」
「行くの」
母親は娘を連れて、その場を離れた。
その後ろ姿を見ながら、
兵士が小さく呟いた。
「戦争に勝ってるんじゃなかったのかよ……」
誰も答えなかった。
帝国では、
勝っているはずの戦争が六年目に入っていた。
一年。
二年。
三年。
四年。
五年。
そして六年。
敵国は滅びない。
帝国軍も撤退しない。
戦線はほとんど動かない。
それでも帝都では、
毎日のように勝利が発表された。
『帝国軍、大勝利!』
『敵軍に甚大な損害!』
『ウクラナ西方共和国、崩壊寸前!』
新聞には、
輝かしい見出しが並んでいた。
だが、
現場の兵士たちは知っていた。
勝ってなどいない。
戦争は、
ただ続いているだけだった。
そして戦争が長引くほど、
帝国の中身が少しずつ削られていった。
食料。
燃料。
魔晶石。
金。
兵士。
そして、国民の信用。
帝国政府は税金を上げた。
「戦争に勝つためだ」
さらに税金を上げた。
「祖国を守るためだ」
そして、
さらに紙幣を発行した。
「一時的な措置だ」
最初は誰もが、そう思っていた。
六年目の冬。
帝都モスカル。
財務長官オルベルトは、
震える手で一枚の報告書を握っていた。
「……陛下」
「どうした?」
皇帝は不機嫌そうに顔を上げた。
「国庫について、緊急のご報告がございます」
「また金の話か?」
「はい」
「増税すればいい」
「それが……」
財務長官は唾を飲み込んだ。
「もう、増税しても金が集まりません」
皇帝の眉が動いた。
「なぜだ?」
「民間に金が残っていないのです」
「ならば紙幣を発行しろ」
「……それも、できません」
「何?」
財務長官は、
ゆっくりと首を横に振った。
「帝国通貨を、誰も受け取らなくなっています」
室内が静まり返った。
「馬鹿な」
皇帝が笑った。
「帝国通貨だぞ?」
「はい」
「帝国が保証している」
「はい」
「ならば価値があるだろう」
財務長官は、
皇帝の目を見ることができなかった。
「……その『帝国』そのものを、外国が信用しなくなったのです」
皇帝の笑顔が消えた。
その瞬間だった。
――カン。
帝都の鐘が鳴った。
――カン。
二度目。
――カン。
三度目。
皇帝が窓を見る。
「何の鐘だ?」
側近が駆け込んできた。
顔面は真っ青だった。
「陛下!」
「何だ!」
「帝国中央銀行が……」
「どうした?」
「営業を停止しました」
「……何?」
「帝都だけではありません」
側近が震えながら続ける。
「帝国全土の銀行が、一斉に閉鎖されています」
皇帝は立ち上がった。
「そんな命令は出していない!」
「銀行側の判断です」
「銀行を逮捕しろ!」
「もう……」
側近は言葉を詰まらせた。
「もう、逮捕する人間も足りません」
皇帝の顔から血の気が引いた。
その日の昼。
帝都中央銀行の前には、
数万人の市民が集まっていた。
「金を返せ!」
「預金を出せ!」
「俺たちの金だ!」
銀行の門が閉ざされている。
その前で、
一人の老人が怒鳴った。
「昨日まで預金があると言っていたじゃないか!」
銀行員が答える。
「申し訳ありません!」
「何が申し訳ないだ!」
「帝国政府から資金が――」
「政府は金を持っているんだろう!」
銀行員は黙った。
その沈黙が、
すべての答えだった。
民衆の間から、
小さな声が漏れる。
「……帝国には、金がない?」
その一言が、
人から人へ伝わっていった。
「帝国には金がないらしい」
「銀行が空なんだ」
「政府も空だ」
「じゃあ、軍は?」
「軍に給料は出るのか?」
「……出ないんじゃないか?」
噂は、
帝都中を駆け抜けた。
そして夕方。
帝国通貨の価値が急落した。
パン一個。
昨日まで銀貨十枚。
今日は二十枚。
数時間後には五十枚。
商人たちは値札を書き換え続けた。
「金貨ならある!」
客が叫ぶ。
商人は首を横に振る。
「いらない」
「何だと?」
「明日には価値が下がる」
「じゃあ何なら売ってくれる!」
「小麦ならいい」
「小麦なんて持ってない!」
「なら帰れ」
帝都で、
物々交換が始まった。
帝国が誇った通貨は、
一枚の紙へと変わった。
そして夜。
皇帝のもとへ、
さらに悪い報告が届いた。
「陛下!」
「今度は何だ!」
「北東軍が中央政府の命令を拒否しました!」
「……反乱か?」
「まだ分かりません!」
「ならば司令官を逮捕しろ!」
「それが……」
使者が震えた。
「北東軍は、すでに独自の食料配給を始めています」
「何?」
「さらに地方政府が、帝都への税金の送金を停止しました」
皇帝は机を叩いた。
「反乱だ!」
誰も答えない。
「反乱なのだろう!」
「……はい」
側近がようやく答えた。
皇帝は叫ぶ。
「ならば軍を送れ!」
沈黙。
「聞こえなかったのか!」
「軍を送れと言っている!」
側近は顔を上げた。
そして、
皇帝にとって最も聞きたくない言葉を口にした。
「……陛下」
「何だ」
「軍が、もうありません」
「……」
「正確には、軍は存在します」
「ならば送れ!」
「しかし――」
側近は震えながら続けた。
「帝国軍は、帝国の命令では動かなくなっています」
皇帝の手が止まった。
「……どういう意味だ?」
「北方軍は北方を守ると言っています」
「東方軍は東方を守ると」
「南方軍も同じです」
「西方軍も……」
側近は言葉を切った。
「そして帝都軍は、帝都から動こうとしません」
皇帝は、
ゆっくり椅子に座った。
その顔から、
怒りが消えていた。
代わりに、
初めて恐怖が浮かんだ。
ルーシア北方帝国。
国土最大。
人口最大。
軍事力最大。
魔晶石埋蔵量最大。
世界最強。
そう呼ばれた帝国。
しかし、
その巨大な国を一つにつなぎ止めていたものは、
思ったほど多くなかった。
軍。
税金。
通貨。
そして、「帝国は明日も存在する」
という、国民の信頼。
その一つが壊れた。
次の一つが壊れた。
そして今。
最後の一本まで、折れようとしていた。
午前二時
北方州-独立宣言。
午前三時
東部州-税金の送金停止。
午前四時
南部州-地方軍創設。
午前五時。
西部州-国境封鎖。
午前六時-
帝都通信網、完全停止。
そして、
午前七時-皇帝宮殿。
衛兵たちが、武器を床に置いた。
「なぜ武器を置く!」
皇帝が怒鳴る。
衛兵隊長は答えなかった。
「命令だぞ!」
それでも、
兵士たちは動かなかった。
一人の若い兵士が、
小さく呟いた。
「……給料をください」
皇帝の顔が凍った。
「何?」
「三か月、給料が出ていません」
「……」
「家族に食料を買えません」
皇帝は、
何も言えなかった。
やがて、
兵士たちは一人ずつ武器を置いていった。
カラン。
カラン。
カラン。
その音が、
宮殿の廊下に響く。
まるで、
帝国そのものが崩れ落ちていく音のようだった。
朝。
帝都モスカルの広場には、
十万人を超える民衆が集まっていた。
「皇帝を退位させろ!」
「もう戦争はやめろ!」
「税金を返せ!」
「地方は独立する!」
怒号が帝都を揺らす。
皇帝プーチノフは、
宮殿の最上階から、
その光景を見ていた。
昨日まで、誰もが自分に頭を下げていた。
昨日まで、帝国は自分の命令で動いていた。
昨日まで、自分は、世界で最も強い男だった。
だが今、目の前にいる十万人の人間は、
誰一人として皇帝を恐れていなかった。
プーチノフは、窓に手を置いた。
「……帝国は」
声が震えた。
「いつから滅び始めていた?」
誰も答えない。
皇帝は、
もう一度呟いた。
「私は……何を間違えた?」
その瞬間。
宮殿の地下。
誰も知らない場所で、
別の戦いが始まっていた。
五人の男が、一本の巨大なテーブルを囲んでいた。
北方軍司令官グラウス。
東方軍司令官ゼルマン。
南方軍司令官バルド。
西方軍司令官ローデン。
帝都軍司令官ハルヴァン。
机の中央には、一枚の地図。
そこには、すでに帝国を分割する線が引かれていた。
ハルヴァンが言った。
「……皇帝は、まだ自分が皇帝だと思っている」
グラウスが笑う。
「ならば、教えてやればいい」
「何を?」
グラウスは、
帝都を指差した。
「この国に、もう皇帝はいない」
ゼルマンが立ち上がる。
「問題は、その後だ」
バルドが尋ねる。
「何がだ?」
ゼルマンは、
地図に七本の線を引いた。
「帝国が消えた後――」
そして、
静かに言った。
「誰が、何を手に入れる?」
五人の男が、
互いの顔を見た。
誰も答えなかった。
だが、全員が同じことを考えていた。
帝国を救うのではない。
帝国の残骸を、どう分けるか。
その頃。
地上では、まだ帝国旗が風にはためいていた。
民衆は知らない。
皇帝も知らない。
誰も知らない。
ルーシア北方帝国は、もう滅び始めている。
そして、帝国を滅ぼすのは、敵国ではなかった。
帝国自身だった。




