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その日、疾太は食事を取らなかった。水の一滴さえ、口に含まなかった。
だがそれでも、腹が減ることはなかった。喉が渇くこともない。
生きていない。
その言葉が、胸に突き刺さったような気がした。
「……生きている、状態」
呟いた時には、どれだけの時間が経っていたのだろうか。
疾太が我に返ったのは、月光が降り注ぐ中にリンッと清涼な音が響いたからだった。
「みぃくん的には、鈴は生きていない分類なのかな?」
疾太の隣に立った鈴は、少し寂しそうな微笑みを浮かべていた。問うように視線を向けると、鈴は片手を伸ばして疾太の頬に触れてくる。
「鈴ね、祥来と契約した生屍なんだよ? ……気付いてた?」
その言葉に疾太は目を見開く。
頬に添えられた手からは、一切熱が伝わってこなかった。思えばこの店で初めて目を覚まして鈴に引き起こされた時も、その手はひんやりとしていた気がする。
「鈴はね、祥来に買われた生屍なの」
戦盤には、生屍の売買を生業とする人間がいるのだと、鈴は口にした。商人は多くの生屍を飼っていて、各区の有力者に売って歩くのだと。
鈴も、……かつての結も、そうやって売買されていた生屍なのだと、鈴は静かに告げる。
「そ、んな」
『私は生屍だ』と鈴に言われても、疾太はその言葉を信じることができなかった。
だって鈴は、あんなにも明るくて、いつでも元気一杯で。
『死』なんていう暗いものを背負っているようには、今この瞬間だって、見えないから。
「鈴は、物心ついた時には生屍だった。生屍じゃない自分は知らない」
だというのに鈴は、そんなことを口にする。
ここで嘘を語る理由が鈴にはない。だが疾太は、それを事実だと信じることができなかった。
「祥来に買われて『鈴』っていう名前をもらうまでずっと、製品ナンバーで呼ばれてたなぁ」
そんな疾太に気付いているのか否か、鈴は疾太の頬から手を離すと無邪気に笑った。年相応の、幸せで人並みな人生しか知らない少女のような顔で。
「『鈴』っていう名前に馴染むまで、すごく苦労したんだよ。自分で自分のことを『鈴』って呼んで、必死に名前を覚えたりしたの」
「鈴さんは、人間になりたいとは、思わないんですか?」
そんな鈴を前にして、問わずにはいられなかった。
自分と同じく、生屍である彼女に、訊ねてみたくて仕方がなかった。自分と同じでありながらも、あまりにも違い過ぎる彼女に。
「ううん。だって鈴、祥来のために存在してるんだもの。祥来の命をもらってまで、人間にはなりたくないな」
そんな疾太に対して、鈴は実にあっさりと答えた。悩む素振りを見せる隙さえないほど、あっさりと。
──どうして。
疾太はあれだけ生にこだわっていたのに、同じ存在である鈴から返された言葉は、迷うことのない否だった。
それを信じることができなかった疾太は、いつの間にか下げていた視線を跳ね上げる。
そこで疾太はようやく、鈴が浮かべる笑みの種類を変えていたことに気付いた。
「鈴は、ずっと生屍として生きてきたから。他の生き方なんて、想像できないよ」
鈴の顔に浮かんでいたのは、酷く静かな微笑みだった。常の底抜けの明るい笑みを太陽に喩えるならば、今の凛は月のような陰りと穏やかさが同居する微笑みを唇に刷いている。
それは間違いなく『女』の顔だった。見た目以上の年月を生きてきた、成熟しきった年頃の女性の表情だった。
「でもね、時々祥来に、申し訳なくなる」
鈴は表情と同じくらい静かな声で呟くと、先程まで疾太の頬に添えていた手で自身の下腹部を撫でた。
「私は祥来にどれだけ想われていても、祥来に次を残してあげられない。生屍は、生命体としてはもう、終わってしまっている存在だから。次を産み出すことはできない」
その下に収まっている臓器に思い至った疾太は、息をつめて鈴を見つめる。
逆にそれだけのことしか、できなかった。
その視線に鈴はまた、静かに笑う。
「祥来がどれだけ鈴を想ってくれていても。祥来はいずれ、生きているお嫁さんをもらわなくちゃいけない。祥来は意識していないみたいだけど、祥来は確かにこの第五自由区の筆頭なんだから」
閉ざされた世界の中でも、人は恋をして、番って、次を残す。有力者で派閥を率いる身であれば、外の世界と同じく『跡継ぎ』を期待される。
『-B/M』を最有力チームとする第五区は、他区のように血統によって支配されている地区ではない。
それでもこの地に生きる人達は、期待してしまっている。
生活基盤が整っていて、安定した収入を得られていて。結婚適齢期で男前。理知的で、温和で、統治手腕にも長けた高位ランカー。
そんな彼の隣を占めるのが、永遠に少女の形から成長しない生屍では、駄目なのだ。
「第五区の住人はみんな、……祥来に次を残すことを、望んでいる。祥来には、祥来と一緒に歳を取って、死んでいけるお嫁さんが、必要なの」
鈴の微笑みが泣きそうに見えたのは、初めてだったかもしれない。
祥来の前ではいつも、鈴は何も知らない少女のように明るく笑っているから。
「鈴は、祥来に買われた生屍。祥来は生屍を求めて、鈴を買った。鈴が生屍であることで祥来の役に立てるなら、鈴は人間になることは望まない」
祥来の望みが、鈴の望み。鈴は祥来が使役する道具としての役割を全うしなければならない。
「鈴は祥来のお願いを『カミサマ』に届けるために戦う。生屍として、戦う」
鈴が紡ぐ言葉によどみはなく、強い意志と力がそこには込められていた。
だがその強さが、一瞬だけ揺らぐ。
「でももしも、『カミサマ』が気まぐれを起こして、祥来のお願いの後に鈴の願いも叶えてくれるって言ってくれたら」
永遠の少女は、もう一度唇に笑みを載せた。
今宵の月を思わせるような、静かな笑みを。
静かでありながら、泣き出しそうな笑みを。
「鈴は、祥来の命を使わずに人間になりたいって、お願いするかな?」
鈴はその言葉を残して部屋から出ていった。
『-B/M』のマスコットがこぼした言葉は、疾太の中にわずかな揺らぎを残しながらも、部屋の中に溶けて消えていった。




