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反転した体がコンクリートを捉える。
踏ん張り、体勢を立て直して、着地。
同時に右手がズボンのポケットからカッターナイフを引き抜いて、親指が一気に刃を弾いて伸ばす。
「あああああああああああああああっ!!」
咆哮は勝手に体からあふれ出ていた。突然の絶叫に反射的に振り返った結は、疾太が刃を振りかぶって向かってくることに気付いた瞬間、青く染まった瞳を驚愕に見開く。
そんな結に向かって、疾太は腕を振り抜いた。
狙うは白く無垢な首筋だ。
手ごたえはあった。だが明らかに手に伝わった感触は軽く、後に伝わった硬質な衝撃がその感触を上書きしていく。
「……みぃくん」
疾太のカッターナイフは、とっさに防御に差し出された大鎌によって弾かれていた。大鎌を振るう右手を手首まで覆っているカーディガンがわずかに裂けている。疾太が捉えたのは結の肌ではなく、ただの布地であったらしい。
「うわぁぁぁぁあああああああああっ!!」
殺せ殺せ殺す殺す
思考はもはや回っていない。疾太を支配しているのはその言葉だけだ。
衝動に任せたまま、疾太は伸びきった腕を次の動きのために引き戻す。
突きから、薙がせて、また首元へ。
その動きも、やはり結の大鎌によって弾かれる。
──そうだ、結が動くからいけない。
ふと気付いた疾太は、腕の動きをフェイントにして足元を狙った。
疾太が爪先を引っかけて掬い上げれば、結の細い足は簡単にもつれる。重心が崩れて立て直せないところを力任せに押し倒してしまえば、簡単にマウントを取れてしまった。
背中から仰向けに倒れ込んだ結の体に乗り上げるように、己の体を使って結を拘束する。この体勢になれば、結でも自由に大鎌を動かせない。男女差もある。簡単には抵抗できない。
「結っ!!」
ヒステリックな深紅の叫びが疾太の鼓膜を引っ掻く。
だがその程度で疾太の刃は止められない。
──殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!
「みぃくん」
勝利への確信に歪な笑みを浮かべながら、疾太は刃を振りかぶる。
シャツが緩く開かれた首筋を保護するものは、もはや何もない。
「殺したいなら、殺せばいいよ」
だというのに。今までで一番近い場所に、一番無防備に標的の急所が晒されているというのに。
疾太の動きは、その静かな言葉に、ピタリと止まってしまった。
「それが、生屍の権利だもの」
あの瞬間、確かに驚きに染まっていたはずの瞳は、青い燐光を宿したまま穏やかに凪いでいた。
まるで、この瞬間を予測していたかのように。
「みぃくんを巻き込んだ責任は、私にある。だからみぃくんには、私を殺す権利がある。みぃくんにだけは、私は殺されても文句は言えない」
頭の中は今でも、どこからともなく響く『殺せ』という声に占拠されている。結の言葉を理解できる思考の余地など、どこにも残っていない。
そうであるはずなのに、結の言葉は確かに疾太に響いた。
まるでひたりと、乾いた大地に雫がこぼれ落ちたかのように。
「さぁ、みぃくん。狙う場所はここだよ」
人間としては低めで、けれども生屍には決してない人肌のぬくもりが、カッターナイフを握る疾太の手を包む。
そのまま結は疾太の手を己の首元へ誘導した。抜き身の刃が、疾太が散々狙ってきた首筋に……頸動脈の横に、導かれる。
「できれば、あんまり苦しみたくはないかな」
いつの間にか、疾太の手はブルブルと震えていた。
──あんなに、結さんを、殺したかったのに。
殺せば、終われるのだと。人間になれば、あの境界を越えていけるのだと。
この一週間、ずっと思っていたのに。全力を込めて引けば、一瞬でその悲願を達成できるのだと、頭も体も理解できているのに。
「殺るなら、スパッとお願いね。躊躇われるのが、一番苦しいらしいから」
「……っ…ぁ………あ…………っ!!」
自ら望んでこの状況を作り出したというのに、疾太は全身を恐怖と拒絶で震わせていた。
矛盾している。情けないほどに。
あれほど焦がれていたのに。今でも終わりを、こんなに望んでいるのに。頭の中に響く声は、ずっと『殺せ』と命令しているのに。
──この刃を引けば、終わる。……終われる、のに……!
ずっと、迷い続けてきた。
この街に巻き込まれてから、ずっと。道は一本しかないのに、その道を進むことを迷って、同じ場所で足踏みを続けている。
今も同じだ。疾太は、迷っている。もう引き返せないところまで、自らの足で来てしまっているというのに。
胸が苦しい。自分はもう、呼吸を必要としていないはずなのに。苦しくて苦しくて、時を追うごとに荒くなっていく呼吸のせいで肩が激しく上下している。
──いや、そもそも……
【そもそも自分は、呼吸を必要としていた時代が、あっただろうか】
「……っ!?」
不意でありながら強烈に、思考の全てを白く焼くかのように湧いた疑問に、疾太は思わず全ての動きを止めた。
──どういうことだ? そんなの、あったに……
決まっている、はずなのだ。だって疾太は人間だったのだから。結に殺されて生屍になった。それまで当たり前のように、自分は呼吸を必要としてきたはずなのだ。
「……っ」
──当たり前だ。当たり前の、はずで……
だというのに。
この違和感は、一体何だ。
「っ、……っ!!」
ジワリと、未知の恐怖が疾太の体を縛り上げる。
その瞬間。
まるでその恐怖がジワリと疾太の体の外へ滲み出たかのように、疾太の視界が一瞬で陰った。スッと色が失われていく視界の中で、結の瞳だけがより鮮やかに煌々と青い光を灯している。
その瞳が一瞬広がり、キュッと縮まった。
「っ!?」
何が起きたのか、疾太の脳は処理することができなかった。
グルリと視界が反転する。背中に衝撃が走り、結が足で疾太を転がして体の上下を入れ替えたのだと察した時には、青く光る瞳が疾太の上にあった。
叩きつけられた衝撃に息が詰まる。
それでも疾太が結から目を離せなかったのは、青が一瞬で赤に染め変えられたからだった。
「……えっ?」
疾太を庇うように伸ばされた結の四肢が痙攣する。体の軸に対して斜めに噴き出る深紅は強い金気を帯びていた。その向こうに見える緑をかき消す勢いで赤をぶちまけながらも、結が再召喚した漆黒は緑を切り裂いてノイズへ還す。
「結っ!!」
再び、姫の絶叫が疾太の耳を叩く。
だが叩かれてはいても、疾太はその意味を理解できていなかった。
「あ……ぁ……っ!!」
結の体がドサリと疾太の上に落ちる。反射的に結を抱き留めると、ぬるりと腕が滑った。強張った体を無理やり動かして結へ視線を落とせば、結の背中は右肩から左脇腹に向かってザックリと裂けている。
ザクロのように、肉が割れていた。
そこからドクドクと、勢いよく鮮血があふれ出ている。
「うっ、ぁ……っ!!」
結は、疾太を、庇ってくれたのだ。
自分が殺されようとしている状況で、自分を殺そうとしている相手を、庇ったのだ。
「あああああああああああああっ!!」
それを理解した瞬間。
疾太は何かを思うよりも早く、意味のない絶叫を上げていた。




