盤上の世界
僕が目を覚ました時、周りに広がっていたのはジメジメとした湿度の高い森の中。
霧で辺り一面が白く靄がかかっている世界だった。
これが死後の世界と言うやつか。
想像しているよりも天界は深層心理を突くような恐ろしい場所のようだった。
「何というか不気味な雰囲気出てんなぁ〜」
森の中に突如現れるデスクとチェアー。月をモチーフとした木製の調度品は現世ではどれも見たことのないものだ。
「いや、ミニュイくんは現状死んでないよ。一人殉職したからさ、君にはバリバリと働いてもらうからね」
「え、とそれは簡単なお仕事でしょうか」
うーん、お仕事って嫌だなあ。
「やりがいがあって何ともアットホームな職場さ。君には死が分つ時まで是非、天性のそのスキルを活かして欲しいかな。給料も出るよ」
……どういう仕組みなんだ天界。それはどう考えても深淵よりも深く、真っ黒な会社だろう。出会った当初の爽やか青年スマイルを削ぎ落とした神様は、大方仕事モードに入った社会人の如く。
「改めて、俺はシン・ルメナ・ルーナエ。シンと呼んでくれて構わない」
「ミニュイ・レゼルです。よろしくお願いします」
足元には直接は触れられないが魔術で水のホログラムが流れ、現世では見たことのない幻想生物がそこら辺を闊歩する。
僕が静かにここで過ごせる日はやってこない事を物語っていた。天界もそんなに変わり無いんだな。
「まずは着替えてきてくれるかな、ここは制服ありの職場だからね」
そう言われてロッカールームのような場所に詰め込まれロッカーを開けるとなんとまぁ。
用意されていたのはフリルやレース、リボンのあしらわれた衣装だった。ブラウスの上には骨と翼を模したハーネスが付いている。何とも個性的な。
「え、本当に何させられるの僕!?」
ただの上司からの命令なら断れたのに。相手が力技では到底叶わない相手だと分かっているからこそ断れない。それこそ何をされるかわかったもんじゃない。
あれ、袖を通した途端、手が小さくなったような。そう思って鏡で見てみても、やっぱり七歳前後の幼少期の姿になっている。
「っは!本当にそうだね、でも君自信が望む姿に調整したはずなんだけれど。なんて言ったって俺が用意した制服だからね」
シン自身が特殊趣味かと思って本気で逃げないといけないところだった。いや、そう言ってしまうと僕がそういう趣味ってことに……いや、断じて違うからな!?
でもすぐに僕は納得した。
ああ、人の目が気にならなかった頃の姿になったというわけか。
「これ、魔術と言うよりは祝福のような力ですか?」
「そうとも言える」
「貴方の権能は魔力消費なしでずっと展開できるものなのですね」
「権能というよりは、俺の趣味みたいなもんだよ」
「え、小さい子が好きってことですか」
「……」
「何その沈黙、めっちゃ怖いよ!」
「この間みたいに現世を見にいく時とか、フィールドワークで生き物を見に行った時にあちらから魔力探知で避けられるのはなかなかくるものがあるよ」
ため息をついて残念そうな顔を貼り付けている。人間のフリをするシンに心など本当にあるとは思えないが。
初めて駅であった時も人間の擬態をしていたのだ。趣味と言うよりは努力の賜物というか。何とも洗練された技だ。それはもう、熟練の魔術師のような魔力だった。急に真剣な面持ちになると彼は話し始める。
「俺たちの仕事は、世界を正常に保つことだ」
正常?ではさっきの教会で起きたことは異常ではないのだろうか。
「あれは、れっきとした異常だね。常識的に考えても人間は溶けないでしょ。まあこの事象は以前からここに記述があったものだから参考程度に」
そう言ってシンが持ってきたのは一冊の本。
「初めからこの世界で起きることはだいたい決まっている。事象が少しでも変わってしまうのであればリセットする。君たちがよくしているゲームと一緒だよ」
「シオンが使った魔術は予言されていたものってこと?」
「人間が使うとは書いてあったけれども誰がとまでは。遅かれ早かれ誰かが黒魔術を使うことにはなっていたんだよ。神の都合のいいように世界は出来ている。まぁ君の仕事ぶり次第で運命を変えるのは、やぶさかではないよ」
「あれが黒魔術……」
「初めて見たの?」
「この際だから言うけれどまぁ、これを見たのは初めてでは無いかな。子どもの頃に教会の祭壇で遊んでいたら間違えて発動してしまったと言ったところかな」
「魔力量が多い人ほど有るんだよねぇ、そういう事案。多方、箱の中に猫でも入れてみたという所だろ?モルモットとして」
「そうだ。老いた猫を箱に入れると、子猫になっていたよ」
そう、昔ミニュイは施設の奥で奇妙な箱を見つけた。
古い倉庫で使われていない実験器具が山積みになっている。
封印というより、ただ「触るな」と書かれた札が貼られている。
ミニュイは文字を流し見し、箱の構造にだけ目を奪われていた。
「……でっかくて丈夫だなぁ、無駄に」
それ以上の意味は、なかった。
機械じゃないものには、基本的に興味がない。
詩音は、
それを見た瞬間、息を止めた。
──反転の盃。
呪い、因果、運命。それらを“返す”聖遺物。
国の存続に影響するほどの力を持ち、だからこそ厳重に隔離されていたもの。
大きな箱の中に入る、という使い方。過去に一度だけ、胸に大穴を空けられた王子が収められた。
結果――
王子は幼い姿で生きて戻った。
失われたものは戻らない。
ただ、時間と呪いだけが反転する。
その日、詩音とミニュイは施設でひそかに飼っていた猫、バーチャンを連れていた。
年老いて片目が濁り、歩くのもやっとな猫のボス。
「……ためす?」
ミニュイの声は軽かった。倫理も、歴史も関係なく
ただの実験対象としての好奇心。
詩音も止めなかった。ただ、その結果を知りたかった。
バーチャンを箱に入れ、盃を起動させた。
静かで、何も起きていないような気もしたけれど箱が開いた時、そこにいたのは手のひらに収まるほどの
子猫だった。
鳴き声は高く、毛も柔らかい。そしてまだ目は、まだ濁っていなかった。
ミニュイは、少しだけ目を丸くした。
「……すごい」
ただ、それだけの言葉で片付けた。
詩音は何も言えなかった。
この時、詩音は初めて聖遺物という存在を“恐ろしい”と理解した。
命を救うのではなく、死を否定するのでもない。時間と意味を、勝手に書き換えるそんな呪い。
ミニュイは、命の重さを知らなかった。




