第10話 聖人とは誰が決めるのか―バチカンと聖ヘレナ
大海原を進む船の上で、四人の少年たちは、これから向かうヨーロッパのことを話していた。
伊東マンショが、海図に目を落とした。
「ヨーロッパには、キリスト教に関係する土地や建物がたくさんあるそうですね」
原マルチノが答えた。
「ええ。教会も、修道院も、巡礼者が訪れる聖地もあります。ローマには、教皇のおられる場所もありますからね」
「教皇様にお会いできるのでしょうか」
千々石ミゲルが尋ねると、中浦ジュリアンはうなずいた。
「そのために、私たちは海を渡っているのですから」
マンショは、海図のある一点を指さした。
「ところで、この島の名前は何なのでしょう?」
そこには、セントヘレナ島の名が記されていた。
「聖ヘレナ……。聖人の名前でしょうか」
マルチノが首をかしげる。
「聖人というのは、誰が決めるのでしょうね?」
その問いに、四人はしばらく考え込んだ。
信仰に篤い人であれば、誰でも聖人と呼ばれるのだろうか。
多くの人を助けた人ならば、聖人になれるのだろうか。
それとも、教会が何らかの手続きを経て認めるのだろうか。
「ローマに行けば、わかるかもしれませんね」
ジュリアンが言った。
「そうですね。教皇様のおられる場所ですから」
マンショも同意した。
しかし、聖人を認める仕組みは、単純なものではなかった。
現代のカトリック教会では、聖人の列聖に関する調査を担当する機関が、バチカンに置かれている。
その名は、聖人の列聖省。
人々から聖人として敬われてきた人物について、生涯の記録や証言、信仰のあり方などを調べ、列福や列聖に関する手続きを進める機関である。
聖人として認められるまでには、いくつもの段階がある。
まず、その人物の生涯や信仰について、正式な調査が始まる。
調査が進み、その人が英雄的な徳を示したと教会が認めると、「尊者」と呼ばれる段階に至る。
さらに列福されると「福者」となり、列聖されると「聖人」として認められる。
ただし、殉教者の場合などには、通常の奇跡に関する要件とは異なる扱いがある。
そして、最終的に列聖を宣言するのは教皇である。
もちろん、これは現代の制度だ。
四人が旅をしている十六世紀にも、聖人への崇敬や列聖の仕組みは存在していた。しかし、現在の列聖省という組織が、そのまま当時から存在していたわけではない。
時代によって、制度も手続きも変化してきたのである。
それでも、聖人という存在が、人々の信仰や歴史と深く結びついていることに変わりはなかった。
では、セントヘレナ島の名前になった聖ヘレナとは、どのような人物だったのだろう。
彼女は、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世の母として知られる女性である。
コンスタンティヌス一世は、キリスト教の歴史において重要な皇帝だった。
彼の時代には、キリスト教を取り巻く状況が大きく変化した。ヘレナ自身もキリスト教を信仰し、晩年には聖地を訪れ、教会の建設や整備を支援したと伝えられている。
さらに、彼女には、イエスが磔にされた十字架を発見したという有名な伝承がある。
ただし、この発見が歴史的事実として確定しているわけではない。ヘレナの死後に発展した伝承と、史料から確認できる事柄は、分けて考える必要がある。
それでも、聖ヘレナの名は、キリスト教世界で長く語り継がれてきた。
そして、伝統的な説明によれば、セントヘレナ島も、彼女の名前にちなんで名づけられたという。
大西洋に浮かぶ小さな島の名前に、ローマ帝国の歴史と、キリスト教の信仰がつながっていたのである。
「聖人と呼ばれる人にも、それぞれの生涯があるのですね」
マンショが言った。
「ええ。そして、その生涯が、後の時代の人々にどのように伝えられたのかも大切です」
マルチノは、海図を見つめた。
「名前だけを見ていると、ただの島です。でも、その名前の由来を知れば、遠い昔の人々の信仰まで見えてくるのですね」
ミゲルが笑った。
「そう考えると、ヨーロッパには、調べてみたいことがいくらでもありそうです」
「それは、今に始まったことではありませんよ」
ジュリアンが言った。
「私たちは、知らないことを知るために、ここまで来たのですから」
四人は、再び海図に目を向けた。
その先には、まだ見たことのない土地がある。
そして、その土地の名前の向こうには、彼らがまだ知らない歴史が眠っていた。
セントヘレナ島。
その名を手がかりに、四人の少年たちの旅は、また一つ、新しい疑問へと向かっていく。
【聖人になるには、奇跡が必要?】
カトリック教会では、聖人として認められるまでに、調査や審査を経る必要があります。
その過程で重要になるのが、「奇跡」とされる出来事です。
一般的な手続きでは、列福の際に一つ、さらに列聖の際にもう一つ、奇跡が認定されることが求められる場合があります。
つまり、よく「奇跡が一回なら福者、二回なら聖人」と説明されることがあります。
ただし、これはあくまで簡略化した説明です。殉教者の場合などには異なる要件があり、すべての人に一律に当てはまるわけではありません。
また、奇跡とされる出来事についても、教会は調査を行います。
聖人の認定は、単に奇跡が起きたと主張するだけで決まるものではないのです。
信仰、生涯、証言、歴史的な記録――。
さまざまな要素を検討したうえで、最終的に列聖を宣言するのは教皇です。
聖ヘレナについても、彼女の生涯と、後世に伝えられた十字架発見の物語は、区別して考える必要があります。
歴史を知るということは、伝承を楽しむと同時に、何が史料で確認でき、何が後世に語り継がれた物語なのかを考えることでもあるのです。




