プロローグ De Missione / 使節たちは何を見たのか
【登場人物紹介】
◾️伊東マンショ
天正遣欧使節の一人。
豊後の大友宗麟と関わりの深いキリシタンの家に生まれ、ヨーロッパへの使節派遣に参加する。ローマ教皇との謁見をはじめ、異国の文化や政治に触れていく。日本を代表する使節としての使命を担いながら、海の向こうで何を見たのか。
◾️ 千々石ミゲル
天正遣欧使節の一人。
有馬・大村氏と関わる家系に生まれ、若くしてヨーロッパへの旅に加わる。異文化との出会いを通して、信仰や社会について考えることになる。帰国後、ほかの三人とは異なる道を歩む人物でもある。
◾️原マルチノ
天正遣欧使節の一人。
ヨーロッパでの見聞を通して、宗教、学問、文化への理解を深めていく。帰国後は司祭となり、キリスト教をめぐる厳しい時代を生きる。異国で得た経験を、日本でどのように生かそうとしたのか。
◾️中浦ジュリアン
天正遣欧使節の一人。
長い航海とヨーロッパでの経験を経て、日本へ帰国する。のちに司祭となり、キリスト教への弾圧が強まる時代を生き抜く。四人の旅が終わったあとも、信仰をめぐる困難に向き合い続ける。
◾️アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会の巡察師。
日本でのキリスト教布教を進めるなかで、四人の使節をヨーロッパへ派遣する計画を立てた人物。使節派遣には、教皇やヨーロッパの人々に日本のキリスト教共同体を紹介し、布教への理解と支援を得る狙いがあった。
◾️大友宗麟
豊後を治めた戦国大名で、キリスト教を受け入れた大名の一人。天正遣欧使節の派遣に関わった九州の大名たちの中心的存在。戦国時代の政治と宗教、海外との交流が交差する時代を象徴する人物。
◾️大村純忠
肥前の大名。キリスト教を受け入れ、領内の長崎を海外交易と布教の重要な拠点として発展させた。天正遣欧使節の派遣を支えた人物の一人。
◾️有馬晴信
肥前の大名。キリスト教を受け入れた九州の大名で、天正遣欧使節の派遣に関わった。海外との交流を通して、信仰と政治の双方に関わっていく。
◾️豊臣秀吉
織田信長の後を継いで天下統一を進めた武将。使節たちがヨーロッパに滞在していた一五八七年、バテレン追放令を発する。使節たちの帰国後、日本のキリスト教をめぐる状況は、出発時とは大きく変化していた。
◾️名もなき日本人たち
海外交易のなかで売買され、自由を奪われた日本人たち。本作では、歴史に名を残した使節だけでなく、記録に残りにくかった人々にも目を向ける。彼らがどこから来て、どのように異国へ渡り、何を失ったのか。史料で確認できる事実を基に、その歴史を物語の重要な軸として描く。
◾️使節たちの母親・家族
四人の出発を見送り、長い旅のあいだ帰りを待つ人々。個々の家族の具体的な言動については、史料で確認できる範囲と創作部分を区別して描く。
遠い異国の政治や宗教を理解することよりも、息子が無事に帰ってくることを願う家族の思いを通して、歴史を生きた人間の物語として伝える。
プロローグ De Missione / 使節たちは何を見たのか
*De Missione Legatorum Iaponensium ad Romanam curiam.*
ラテン語で書かれた、その長い書名には、日本からローマ教皇庁へ赴いた使節たちの使命と、彼らがヨーロッパへの旅で見聞したことが記されている。
刊行されたのは、一五九〇年。マカオだった。
日本を出発した四人の若者が、ヨーロッパで何を見て、何を学び、何を持ち帰ったのか。
その旅は、後世の日本で「天正遣欧少年使節」と呼ばれるようになった。
だが、彼らが担ったのは、単なる海外見学ではない。
伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。
四人は、キリスト教を受け入れた九州の大名たちの意向を受け、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが企画した使節派遣によって、遠いヨーロッパへ向かった。
彼らが目指したのは、ローマ教皇との謁見。そして、日本とヨーロッパのあいだに新たな関係を築くことだった。
しかし、歴史を読むとき、私たちは一つのことを忘れがちである。
彼らは、どこへ行ったのか。
何年に出発し、誰に会い、何を学んだのか。
そうした問いには、史料が答えてくれる。
では、彼らは何を思ったのか。
それは、必ずしも、記録に残された言葉だけではわからない。
一五八二年、彼らが日本を出発したとき、故郷では戦乱が続いていた。
海を越えた先には、日本では見たことのない都市があり、壮麗な教会があり、王侯貴族が暮らしていた。
彼らは、世界が自分たちの知る範囲よりも、はるかに広いことを知る。
だが、海の向こうにあったのは、驚きと発見だけではなかった。
そこには、人間が売買される現実があった。
そして、そのなかには、日本から来た人々もいた。
日本では、遠い異国の出来事として語られがちな奴隷貿易。しかし、一六世紀の世界を行き交う船と交易のなかで、日本人もまた、人身売買の犠牲者となっていたのである。
自分たちは、日本から派遣された使節として迎えられる。
一方で、同じ日本から来た人々が、自由を奪われ、他人の所有物として扱われる。
その違いを、彼らはどのように受け止めたのだろうか。
現存する記録から、四人それぞれの心の内をすべて知ることはできない。後世に伝わった言葉と、彼ら自身が実際に考えたこととのあいだには、埋められない隔たりもある。
だからこそ、史料に記された事実を確かめながら、その向こうにいた人間の姿を考えてみたい。
歴史は、名を残した者たちだけでできているのではない。
記録に名を残せなかった者たちもいた。
故郷を離れ、望まぬまま海を渡り、異国で売買された日本人たち。
彼らは、どこから来たのか。
誰に連れていかれ、何を奪われたのか。
そして、その現実を知ったとき、使節たちは何を思ったのか。
その答えを探すため、私たちは一五八二年の長崎へ戻る。
出発の日。
遠いヨーロッパを目指す四人の若者がいた。
彼らを送り出す家族がいた。
そして、息子の帰りを待つことになる母親たちがいた。
母親にとって、ローマ教皇も、神聖ローマ帝国も、ヨーロッパの王侯たちも、まだ見ぬ遠い世界の話にすぎない。
彼女たちにとって大切なのは、もっと身近なことだった。
この子は、無事に帰ってこられるのだろうか。
それとも、二度と会えなくなるのだろうか。
歴史の大きな使命の陰で、母親たちは、ただ息子の命を案じていた。
その思いは、いつの時代も変わらない。
そして、海の向こうには、もう一つの問いが待っていた。
**日本から遠く離れた場所で、日本人が売買されていたと知ったとき、彼らは何を思ったのか。**
その旅は、まだ始まったばかりだった。
海の向こうの日本人
ラテン語の書物に戻る。
1590年に刊行された対話録。そのページをめくる読者は、使節たちの見聞をたどることができる。しかし、書物に残された言葉だけですべてを理解したと思ってよいのだろうか。
日本人もまた、奴隷貿易の犠牲者だった。
それは、遠い異国の珍しい出来事ではない。日本の歴史と世界の歴史が交差した場所にある、忘れてはならない事実である。
四人の使節は、歴史の中で「少年」と呼ばれるようになった。
だが、彼らが見た世界は、少年という一語で片づけられるほど小さくはなかった。
海の向こうにいた日本人を、私たちはどれほど知っているのだろうか。




