表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第三話 幻夢香

そろそろ執務室に着く、というときに一人の男に声をかけられた。

「どうしたんだ雲嵐、ずいぶんとしけた顔をして」

なんとも軽い調子で話してきたのは雲嵐の幼馴染で現在は南華将軍を務めている王蒼玄だった。眉目秀麗、優しげで甘い顔立ちで女性からの人気が非常に高く、本人もそれを自覚し存分にその魅力を使って人生を謳歌している男である。

端的に言えば色好みで現に彼からは甘い女物の香の香りが漂っていた。

「またどこぞの馴染みの女のところに泊まってたのか。香の匂いですぐ分かる」

「そうか?」

まぁいいや、という風に蒼玄が肩をすくめると

雲嵐は苦笑いした。彼は昔から細かいことに拘らないおおらかな男だった。

「今夜は空いてるか?」

「ちょっと馴染みの妓女にでも会いに行こうかと思っていたが、何か用があるのか?」

「用事があるならまた今度でもいい」

そう言って執務室に入ろうとする雲嵐の肩を掴み、顔を覗き込むようにして蒼玄が見てきた。

何故かにやにやと笑っており完全に面白がるような表情をしている。

「なんだ?」

「いや、お前にもとうとう春が来たのかと」

「残念だがそういう話ではない」

「なんだよもう少し人生を楽しんだほうがいいんじゃないか?」

「余計なお世話だ」

「じゃあ一体なんの用なんだ?」

自分の後ろに控えている燕如をちらりと窺って、彼女には届かない程度に声をひそめて蒼玄に話す。

「詳しいことは言えないがこの国の今後に関することだ」

その瞬間蒼玄の顔から笑みが消え、真顔になった。

「どういう意味だ雲嵐」

蒼玄の探るような目つきからすっと顔を逸らし、少し俯いた。

「別に反乱を起こすとかそんな内容ではないぞ」

途端に蒼玄から発せられていた緊張感が緩み、彼の顔にいつもの人懐っこい笑みが戻った。

「なんだ驚いて損をしたな。それなら今夜中に早く済ましてしまおう。酉の刻に花街の金蝶亭で集まろう」

ばしばしと雲嵐の肩を叩きながら彼はちゃっかりお気に入りの妓楼を指定してくる。

「分かった」

花街があまり好きではない雲嵐は渋々了承したが、自分の意見が通った蒼玄は鼻歌を歌いながら軽やかな足取りで去っていき、その後ろを彼の副官が慌ててついてゆく。

(今夜は全額奢ることになりそうだな)

それでも自分の抱えているものを共有できる相手がいるのなら安いものだろう。

後ろで待たせてしまっていた燕如に声を掛けると雲嵐は執務室の中に入っていった。

机と椅子と棚があるだけの殺風景な部屋だ。

いつものように椅子に座り、机の上に積み上げられている北華軍のそれぞれの部隊からの報告書に目を通し始める。流れるような美しい字から芋虫がのたうちまわったような字まであるため、読むのにはそれなりの時間と労力を要する。じっくり読み込み要点をまとめる。

次の戦のために前の戦の改善点を探し出し、訓練の内容や部隊の編成を変えることもある。

(あとは一番面倒くさい文官達への説明だな)

一番厄介なのは財務を司る戸部の長である尚書を務めている李亮の相手をすることである。彼を一言で表すならば、強欲、陰湿、悪辣あたりだろうか。この国の財政を握る男の気分を損なうことがあればどんな者でも政の世界で生きていくことができない。

最近は娘の文麗を後宮に入れた影響か、より一層彼に権力が集中している。他の者たちはひっそりと息を潜めるようにして仕事をしているという噂までも耳にした。

唯一彼の影響を受けないのは神殿くらいだろうか。

(まああの神官長を懐柔することができる者などこの世に一体何人いるのやら)

あの感情が一切見えない人を寄せつけないような彼の表情を思い出す。

(彼のことについても調べていかないといけないな)

過去に戻ってからの生活はやらなければいけないことが多すぎる。心の中で溜息を吐きながら報告書をまとめる作業を続けている時だった。

ふと"幻夢香“と書かれた部分が目にとまり、雲嵐は燕如を呼んだ。

「燕如、幻夢香とはなんだ?」

「もともと市井の呪術師達が用いてた香のことだと思います。一般の者たちに馴染みはなく呪術師の間だけで共有されていた物が花街に横流しされ始めている、という話を耳に挟んだことはありますが……。どうかされましたか?」

「いや……少し気になっただけだ……。ただ神殿に確認しなければいけないかもしれないな」

薬草や香に関わる資料はほとんどが神殿で管理されていたはずだ。幻夢香について何か分かるかもしれない。

あの神官長に会うのは気が進まないが、先ほどからどうにも嫌な予感がして落ち着かない。

(今から行ってしまうか)

燕如に馬を用意するよう言いつけるとすぐに雲嵐は神殿へと向かう支度をした。

神殿に着くと雲嵐は若い神官に火急の用があるといって強引に神官長の部屋に通して貰った。

部屋で待っていると奥の間の扉が開いて神官長が出てきたが、髪と衣がやや乱れ寝起きなのかと思ってしまうような見た目だった。

「なんの御用でしょうか」

「幻夢香についての資料はないか?」

「ああ、蔵書館にあるはずです」

そう言うと彼は文机の近くにあった灯りを手に取り、部屋を出ると一旦広間を通り祭壇の所までやってきた。

「…………?」

彼が何故そうするのか分からず困惑しながら眺めていると、神官長は祭壇をずるずると動かした。よくよく見ると祭壇の後ろには目立たないように扉が作られており、どうやらそこから蔵書館に行けるようになっているらしい。

「ここに扉が隠されていたとは……」

「燃やされたりすると困るので」

無愛想にそう言って彼は扉を開けた。暗く長い廊下が続いており、微かな墨と紙や木簡の匂いが鼻に流れ込んでくる。

二人が廊下を進み蔵書館に入ろうとした時、しゃがれた声が耳に入ってきた。

「神官長様、何の御用でしょうか」

まさか人がいるとは思ってなかった雲嵐は一瞬身構えたが、現れたのが腰の曲がった老人だと分かると身体の力を抜いた。長い白髪の老人は皺に埋もれた目で雲嵐と神官長をじっと見つめながらやや聞き取りにくい声で神官長に話しかけた。

「お客様とは珍しいですね」

「彼はどうやら資料が必要なみたいで」

昼間とはうって変わった柔らかな声で神官長は話している。

「なんの資料をお探しなのでしょうか」

「幻夢香に関わるものを」

老人は灯りを手に取り棚の間をゆっくりと歩きながら、資料を探すために目を凝らしていた。

「おぉ、ここにありました」

そう言って彼が取り出したものは比較的新しい書物だった。彼は腰からぶら下げていたはたきで軽く書物の埃を払うと、丁寧な手つきでそれを神官長へと渡した。

「どうぞ」

「ありがとう」

要は済んだとばかりに神官長はさっさと出て行こうとする。彼をあとを追いながら雲嵐は老人に礼を言い出で言った。

神官長の部屋に戻ると彼は文机の近くに灯りを引き寄せてぱらぱらと書物をめくっていた。

灯りの火が彼の仄白い顔を照らし、長い睫毛が影を落とす。

「ここです」

彼のほっそりとした指が指すところを見ると確かに幻夢香と書かれていた。

「使用すると幻覚、幻聴、吐き気、催淫作用といったものが出ます。多量に使用すると死に至りますね」

それだけ言うとぽんっと彼は雲嵐に書物を渡した。

「数日貸して頂くことはできないか?」

「ご自由にどうぞ。ですが蔵書館の場所については他の人には話さないようにして下さい」

「わかった、ありがとう」

「それと……」

彼が思い出したように付け加える。

「花街にしろ軍の中にしろ幻夢香の使用が確認された場合はすぐに使用した者は医者に診てもらい、香は処分してください」

広がるのはあっという間です。

そう言うと彼は白い衣の裾を翻して奥の間へと戻っていった。

あとには彼の纏う微かに爽やかな香の香りと雲嵐だけが残されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ