変化
あの日から、少しずつ、本当に少しずつ、私は2人に心を開くようになった。
私にとって自分を見せるのはとても勇気のいることで、人との距離感がわからないが故に、時として嵐のような葛藤と戦うこともある。
でも、2人は無理に自分達の気持ちを押し付けようとせず、私の時間の流れに寄り添ってくれていた。『敵じゃない』と言ってくれたあの言葉に、これまで拒絶しかなかった生き方を変えてもらった。
まだ本心を見せられない時もあるけれど、2人の存在が大切になりつつあると何となく感じている。
「お待たせ。行こう」
海李君の声に振り向き、ベンチから立ち上がって頷いた。
あの一件以来、私は有富家で夕飯をご馳走になっている。
「海李が帰って来る時に一緒に来たらいいわ」という百合さんの案で、彼の帰宅途中にあるあの公園で、待ち合わせをして家に行くことになった。
海李君の通う高校は私の学校と反対側にあって、ちょっと遠いけど、私と同様に徒歩で通える距離だと言っていた。姿が見えたらすぐに合流できるように、ブランコを卒業して、今は公園の入り口にあるベンチが待機場所になっている。
顔を合わせるようになって1か月程が経ち、向かうまでの道のりで少しずつ打ち解けて話せるようになった。
待ち合わせをし始めた頃は、何か話さなければいけないのだろうかと不安になったけれど、そんな私に対して海李君は「無理に話さなくていいから」と言ってくれた。
会話をする時は、歩調と同じようにテンポを合わせてくれる。最近では、そんな彼の隣を居心地がいいと思い始めていた。
7月に入り、蒸し暑さが増してきた。今年は、例年に比べると雨の日が少ない。既に蝉の合唱も始まっている。彼らに罪はないけれど、鳴き声が暑さに拍車をかけて倦怠感を増幅させるから、あの機械音のような鳴き声が得意ではない。
「今日、いつもより蒸し暑くない? 俺、夏が苦手」
「私も。暑いの苦手」
「この暑さで体が溶け始めるんじゃないかって思う」
海李君を見ると、頬に汗が滴っていた。
「あっ、ほっぺが溶け始めてる」
「えっ!?」
私なりの冗談を言ってみた。
一瞬、驚いた顔をして、手を顔に当てながら「ぶふっ」と何とも奇妙な音で吹き出す。
「じゃあ、俺が溶けて液状化する前に早く行こう」
そう言った割には、歩行スピードに変化はなかった。
夕方になっても暑さが和らぐことはなく、むしろアスファルトからの放射熱がジリジリと襲い掛かる。体にまとわりつく湿度も、体力と気力を奪う。
けれど、私達は急ぐこともなく、いつもの歩調で、いつもと同じくらいの時間に家に着いた。
中は別世界のように涼しくて、暑い中を頑張って歩いてきたご褒美のようだった。
百合さんが「おかえり」と、長い髪を後ろで束ねながら、家の奥から出て来た。
「ただいま。俺、着替えてくるね」
「はいはーい」
入れ替わるように、着替えの為に階段を上がって行く。
百合さんは、その様子をチラリと目で追い、ピンクのスリッパに足を入れたばかりの私の肘に触れて「行きましょ」と、誘導するようにリビングのドアを開けた。
「外は暑かったでしょ? 今日、お店でトラブルがあって帰りが遅かったの。だから、簡単に手巻き寿司にしちゃった」
百合さんは、陶器店を経営している。いつもは3時に退勤して、その後を従業員の人に任せてくるらしいけど、今日のようなトラブルや商談などは自身が対応するから、そういう日は帰りが少し遅くなると言っていた。
「お腹空いたわね」
リビングに入ると、既に食事の用意は済んでいた。
「座って待ってて」と百合さんがキッチンに向かったので、私は自分の席に着く。
4人がけのテーブルの右側の手前。初めてこの家に来た日に座った場所が、今、私の席になっている。向かいに海李君で、彼の左隣が百合さん。
お茶を淹れて戻ってきた百合さんが、私の斜め前の席に座った。
タイミング良くリビングのドアが開き、部屋着に着替えた海李君が「お待たせ」と戻って来た。
「なんか、凄い嬉しそうな顔してるね」
席に着くなり、私の顔を覗き込んで言った。
実際、目の前に用意された色とりどりの食材が、私を楽しい気分にさせていた。それが表情にでてしまっていたのかと思ったら、少し恥ずかしくなってしまった。
「手巻き寿司、初めてで」
「じゃあ、手巻き寿司の初体験記念日ね」
両手を合わせて口元に持っていき、百合さんが嬉しそうに笑った。
そうなると、世間の『普通』と距離がある私には、これから記念日が沢山増えていきそうだ。
「海苔にご飯を乗せて、あとは自分の好きな具材を乗せて巻くだけ。ご飯を沢山にすると巻き切れないからね。こんなふうに作るの」
お手本を見せてくれたので、私も真似をして作ってみた。料理をしたことがなくても、これなら問題なく作ることができる。
それを見て、百合さんが言った。
「上手上手。もう手巻き寿司マイスターね」
「マイスターって…… 大袈裟すぎるだろ」
「こんなに上手に出来てるんだから、私がマイスターの称号をあげちゃいます。それはそうと、海李のは美味しそうに見えないわ」
百合さんの指摘通り、入れ過ぎた具材のせいで巻き切れず、海苔の上に全てを乗せただけの手巻き寿司もどきになっていた。……何とも芸術的だった。
「ちょっとずつだと面倒だから、これでいいんだよ。腹に入れば一緒」
豪快に頬張って、美味しそうに食べていた。
こんなに和やかに食事を楽しめるのが、夢のようだった。
「あの、これ」
お皿洗いの手伝いを終えたタイミングで、私は、ポケットから封筒を取り出して百合さんに差し出す。
「何?」
「食費です」
どれくらい渡したらいいかわからなかったので1万円を入れた。中を確認して、困惑した表情になる。
「これは頂けない。お金が欲しくて招いている訳じゃないの」
「だけど……」
「これを受け取ったら、もう、さくらちゃんを誘えなくなるわ」
困り顔で封筒を私の手に戻して両手で包み、背の高い百合さんは、私と目線を合わせる為に中腰になった。
「でも、それだとさくらちゃんが納得できないのもわかる。だから、その代わりと言っては何だけど、こうしない? さくらちゃんが働き出して、いっぱいお金を稼ぐようになったら、私を水族館に招待して」
「水族館、ですか?」
「そう。子供達が小学生の頃に連れて行ったら、つまらないって1時間で出てきてしまってね。私は、色々と見たかったんだけど…… それ以来、行ったことがなくて、もう1回行きたいってずっと考えてたの。だから、いつか水族館に連れて行ってくれる?」
私の目を見ながらにっこりと笑う。
その提案に戸惑いつつも、気を遣わせない彼女のさりげない優しさに心が温かくなった。
それに、私は、2人と出会わなければ、ずっと一人が当たり前だっただろう。
白紙だった未来に色を付けてくれ、この先の私にまで『約束』という名の居場所を与えようとしてくれている。
これからも、ずっと一緒だと言ってくれている気がして、百合さんの提案を断る選択は浮かばなかった。
「はい、わかりました。是非」
「楽しみにしてる。絶対に連れて行ってね」
そう言って右手の小指を差し出した。その指に、自分の小指を絡める。
「約束」
絡めたままの指を小さく上下に振った。
これまで考えたこともなかった未来に『楽しみ』が書き加えられた。嬉しさと気恥ずかしさの感情が混在して、気持ちを隠すように、私は俯いて約束の証を見つめていた。
その時、食卓を拭きながら私達の様子を見ていた海李君が、不服そうな顔をして布巾を手に近寄って来た。
「俺も行きたい」
カウンターテーブルに両手を着いて身を乗り出し、頬を膨らめて私達を交互に見ている。
百合さんが、彼の要望には応じないとでもいうように、腰に手を当てて顔を背けながら言った。
「ダメよ。これは女子会なの。そもそも、あの時に、一番つまらないと言ってたのは海李よ」
「子供の頃の話でしょ? 今は、わかんないじゃん」
「男の子が母親と行くって恥ずかしくない?」
「2人きりじゃ恥ずかしいけど、さくらちゃんがいるなら3人じゃん」
「嫌よ。さくらちゃんと2人きりで行くの」
百合さんは、腕を組んで横を向き、話を聞き入れない体勢を作る。それに対抗するように、もっと身を乗り出して百合さんの首を縦に振らせようと、海李君は必死に訴え続けていた。
どちらも引こうとせず、ヒートアップしてきた口論に思わず笑みが出る。その会話の中心に自分がいるのが不思議で、くすぐったい気分だった。
「じゃあ」
なかなか終わりそうにないので、打開策を提案してみた。
「1日は百合さんと行って、それとは別の日に3人で行くのはどうでしょうか?」
私の声に2人の視線が向けられた。
明るい表情の百合さんと、不満そうな海李君。
2人が見せる顔は対照的だった。
「それ、いいわね。そうしましょ」
「おふくろだけ2回ってこと? だったら俺も2回行く」
提案も虚しく、結局、振り出しに戻ってしまった。
でも、こういう些細な日常の中に、心が温かくなる幸せがあるのだと知った。
2人と出会って、初めて経験することや、これまで感じたことのない感情で毎日が彩られている。今の私の変化を例えるならば、人間の皮を被った機械から生身の人間に進化し始めた、そんな表現が妥当かもしれない。
私は、この人達に人間の感情を教わっているのかもしれない。
夜、叔父さんから電話がかかってきた。
「ここのところ仕事が忙しくて電話できなかったけど、元気かい? 変わりない?」
「はい、元気です」
「あれ? なんか…… 元気?」
「はい、元気です」
「いや、そうじゃなくて、何かいい事でもあった?」
「いい事というか…… 友達ができました」
「ほう。なるほど。以前より声に張りがあるのは、そういうことなのか。何だか別人と話している気分だよ」
「あはは」
「いや、なんか調子が狂うな。さくらの笑い声を聞く日が来るなんて思いもしなかった。今、仕事が忙しい時期でね。自分で言うのも何だが、ちょっと頑張り過ぎていたから、さくらの笑い声がご褒美みたいで嬉しいよ」
「お身体は大丈夫ですか?」
「うん。まだ、しばらく忙しいんだけどね。その声を聞いたら頑張れそうだよ」
電話越しに、叔父さんの笑顔が伝わってくるようだった。
今日は、2人と楽しく過ごした夕飯の余韻が残っていて、とても気持ちが高揚していた。そのおかげか、叔父さんとも普段より弾んだ会話ができた。
……あれ?
……違う。
その考え方に違和感を感じた。
そして気付いた。
帰って来た時に、楽しい気分で過ごしているのは今日だけじゃない、と。
この部屋で一人きりでも、最近は『寂しい』と考えることがなくなった。
虚無感を抱かなくなり、一人の時間が怖くなくなっていた。
それは、いつからだろう……
いつを境に、という明確なラインはないけれど、いつの間にか、私の中に2人が当たり前に存在している。
一人きりの空間にいても、今は独りぼっちじゃないと思える。
引き裂かれてボロボロになってなっていた心の糸を、2人が、一本一本丁寧に繋ぎ合わせて修復してくれていたんだ。
そんな思考が浮かんで、私は『胸がいっぱいになる』という感覚を初めて感じた。
涙が頬を伝っていた。
辛い事や悲しい事だけじゃなく、幸せを感じた時にも人は涙を流すのだと知った。




