4つ
彼の言葉を聞いた直後に目を開けると眩しい光の中に居た。
突如、暗闇から明かりのある場所に飛ばされ、その明暗に慣れるまで自分がどこに居るのかわからなかった。
光の中に次第に辺りの輪郭が浮かび出す。
目の前には誰かの背中らしきもの。視線を落とすと幾重にも映る手の平。その腕を乗せている茶色の長方形。
耳が周りの音を拾い始め、途切れ途切れの人の話し声を認識した。
「……が、今日はじゅ……、 ……にする。以上」
離れた場所に立っていた男性がその場を去って行く姿が見える。
徐々に視界がはっきりとし始めた時、私はあの人の無慈悲なの仕打ちに愕然とした。
見慣れた教室。
見慣れた後ろ姿……。
よりによってどうして此処なのだろう……。
目の前の背中が振り返り、視線を床に落として言った。
「凌、ちょっと来て」
普段よりも少し低い声で、それは怒りを押し殺しているようにも感じた。
席を立ち、私の意思もみんなの視線もお構いなしで通路を通って出口へ向かう。
横を見ると陽介君の席は空だった。何かしらの助けを求められるのではないかと思ったけれど、そんな都合のいい期待は無情にも砕け散る。
――戻りたくないと言ったのに。
――今は海李君の顔を見たくないのに。
心の中で不満を呟き、重い腰を上げて嫌がる足を無理矢理に引きずりながら後を追う。
廊下へ出ると海李君は壁に寄りかかり腕を組んで待っていた。
ドアから出て来た姿を横目で確認すると、ゆっくりと私の目の前まで歩いて来て視線を合わせずに無言で手首を掴む。
その鋭い眼差しの理由はわからないけれど、何か怒っているのだろうということだけは察しがついた。
付いて行きたくない……、その気持ちに体が反応して握られた手首に力が入る。
普段、嫌がることをしない海李君が、半ば強引に私の手を引いて歩き出した。自分の体を彼に委ねることに抵抗するように何度か腕を強く引く。まるで綱引きのように、その度に引き戻される。
何も言わずに前を行く彼を少し怖いと感じた。
階段を下りた先の踊り場で立ち止まり、しばらく動かずに時だけが流れる。
下を向いたままの背中。
痛いくらいに握られた手首。
気まずさの漂う沈黙が窮屈過ぎて、この拘束を振りほどいて逃げ出そうか迷った。
「2か月近くも行き先も言わないで何処に居たの?」
静寂を破り、私に背を向けたままでぼそりと海李君が言った。
「担任は、凌がお父さんの所へ行ってるって言ってたけど違うよね?」
「えっと……」
ゆっくりと振り返った彼は泣き出しそうな顔をしていた。
「もう戻って来ないかと思った。凄い怖かった。1日だって無駄にしたくないのに……。 ここに居られるのは残り僅かなのに、どうして……」
海李君は腕から手を離し、そのまま両腕を背中に回して私を抱き寄せた。
「……お願いだから黙って居なくならないで」
乱れた呼吸音。首筋に落ちる雫。
彼の声が泣いていた。
私よりも大きな彼の体が、今はとても小さく見えた。
それは母親にすがりつく子供のようで……。
押し戻したらそのまま倒れてしまいそうなくらい弱々しくて、こんなにも脆弱な姿を初めてみた。
――その異変の理由は私。
私の居ない時間が彼を脆いものにしていたのなら、甘えで犯した過ちを償おう。
彼の言葉が友達に向けた想いだと承知して素直に受け止めよう。
あと1か月しか居られないのだから、海李君の記憶に残る私が綺麗なものであるように――。
「心配かけてごめんなさい」
私は消え入りそうな声で謝った。
「最後の日まで、もうどこにも行かないって約束してくれる?」
「はい」
抱きしめる腕に力が加わった。
――それは切なくて儚い誓い。
休み時間の度に真結さんが私の存在を確認しに教室を訪れていた。
「また消えたりしないか心配で」
久しぶりの再会で、彼女も私の顔を見るなり抱き着いてきて泣いていた。
「何も言わないで居なくなるってどういうこと!?」
憤慨や、再会の喜びや、居なくなっていた時間の悲しみ、全てを混在させた感情を私にぶつけてきた。
それは私の愚行を反省させるには十分過ぎる想いだった。
「ごめんなさい」
――2度目の謝罪だった。
用事があるからと海李君が先に帰ったので、私は一人で教室を後にした。
学校の敷地に立ち並ぶ木々を見上げると、ほとんどの木が葉を落として裸になってしまっていた。ここから姿を消していた2か月という歳月を実感する景色だった。
校門から出た所で誰かの走って来る足音が聞こえたかと思ったら、不意に後ろから腕を掴まれた。
驚いて振り返った瞬間に目の前が暗くなる。
「どこに行ってたんだよ!」
それは聞き慣れた声。
「マジで……。 心配させんなよ……」
上半身に伝わる微振動。耳に届く暴れた心臓の音。
陽介君が自分の体から私を離して両肩を掴んだ。
「勝手に居なくなるなよ」
肩で息をする私服姿の彼が、長い前髪の下から一筋の涙を流していた。
「ごめんなさい」
――3度も人を泣かせてしまった。
「今日、必ず家に来ること」別れ際に海李君から指令を受けて、私はその言葉に従った。
彼の家のインターフォンを鳴らす。
いつもならすぐさま百合さんの声が聞こえてくるのに、今日は珍しく応答が無い。
もう1度押してみようかと手を伸ばし掛けたところで体の自由が奪われた。
見下ろすと、白いコートを纏った腕が私の体をきつく抱き締めている。
「……百合さん?」
背中に当たっている頭が小さく頷いたのがわかった。
「帰って来てくれて良かった」
背中の存在がかすれた声で囁く。
私は自分の体に回された手を握りしめ、溢れ出る涙を拭うことなく彼女に言った。
「急に姿を消してごめんなさい」
「……戻って来てくれた、それでいいの」
握っていた百合さんの手が抜かれて逆に私の手を包み返す。
「海李から連絡もらったから、急遽、夕飯のメニューを手巻き寿司に変更したわ。凌君、好きでしょ?」
「はい」
「急いで支度しなくちゃ。手伝ってくれる?」
「はい」
百合さんは拘束を解くと、代わりに腕を絡めて私を強く引きながら玄関へ向かう。
私に気付かれないように反対の手で目元を拭っていた。
――今日、私は4つの幸せを貰った。




