アパート
苦悶の表情を浮かべ、叔父さんは目を見開いて私を凝視したまま動かなくなってしまった。私も、その突然の再会に驚いて動けなくなってしまった。結果、私達はしばらく見つめ合っていた。
何故、こんな所に?
以前の活気ある表情とは別人のようにやつれていて、一瞬、叔父さんにそっくりな人なのかと思った。けれど、どれだけ様子が変わっていても、愛情を注いでくれたこの人を私が間違える訳など無い。目の前の男性は紛れもなく叔父さん本人だ。
ここに居る理由を何も考えずに尋ねてしまいそうになって慌てて口を閉じる。
それにしても、とても具合が悪そうな様子が気になった。以前『健康優良者』と自身で口にしていたくらいだから、体調面で心配なところなど無かったはず。
土気色の顔や苦しむ姿を見る限り調子はあまり芳しくないと見える。
大丈夫だろうか……。 どこが悪いのだろうか……。
不用意なことを口にしてしまいそうで発する言葉を慎重に選ぶ。
重なり合った視線を私が先に背けて、胸を抑えている手を見ながら聞いた。
「救急車を呼んだ方がいいですか?」
あくまでも平静を装って話しかける。叔父さんは自分の胸元に目を向けた。
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
発する声はかすれていて覇気もなかった。
「それじゃあ、ご家族に連絡しますか?」
「連絡しなくていい。申し訳ないが迷惑ついでに一つ頼まれてくれないだろうか」
「何でしょう?」
「私をアパートまで連れていって欲しいんだが」
「アパート、ですか?」
その言葉が引っ掛かった。持ち家のある叔父さんがアパートなどに引っ越してくるはずなどない。
では何故?
その理由を問うことはできない。先程から疑問ばかりだった。
「ここから数分なんだが頼めるだろうか?」
「僕でよければ。ですが病院に行かなくて大丈夫ですか?」
「薬を飲んで暫く休めば大丈夫だ」
「わかりました」
他人となっている今は本人が望む以上のことはできない。かと言ってこのまま放置していくつもりもない。
肩を貸すためにベンチの横に座る。「掴まってください」と声を掛けると、叔父さんは私の肩に腕を回した。その腕を左手で掴み、右手を彼の脇に入れる。「行きますよ」の私の声で一緒に立ち上がった。
しかし足に力が入らないらしく、膝を伸ばしきることすらできない。私は叔父さんの体を必死に支えながら前進する。
叔父さんのこんな姿を初めて見た。
私がいない数か月で、どうしてこれほどまでに別人のようになってしまったのか。いつも自信に満ち溢れて堂々としていたのに、今はその対照的な様子に胸が張り裂けそうになる。涙が溢れ出そうになり、叔父さんから顔が見えないように斜め下に視線を向けた。
おぼつかない足取りで入り口まで来ると囁くような声で言った。
「公園を出たら左に曲がってくれるかい?」
「はい」
道沿いにしばらく歩くと、次の交差点を右に曲がるように指示を出す。
よほど辛いのか、時折、苦しそうに胸を抑えていた。
「本当に大丈夫ですか?」
「ああ心配ない。この道を真っ直ぐ」
「はい」
言われた通りの道を行く。けれど、このまま歩いて行った先にアパートと呼ぶ建物は私が住んでいた所以外は存在しない。
まさかとは思った。
しかし、そのまさかだった。
「ここの2階だ」
叔父さんが足を止めたのは、かつて私が生活していたアパートの前だった。
お母さんと住んでいた所と同じ構造で、通路に部屋が面しているのではなく、部屋と部屋の間に階段がある。この建物の階段は2本。
叔父さんは私の部屋に面した階段に向かうように言った。
ここまで来たらどの部屋を目指しているのかは聞かなくてもわかる。私がいなくなっても借りたままだったということだ。
叔父さんは、大きく息を吐いて意を決したように1段1段を辛そうに上がり始める。歩いていた時以上の負担が私の肩に掛かって来た。それだけ段差が辛いということなのだろう。叔父さんが少しでも楽になればと、脇に回す手に力を込めて体を持ち上げながら介助する。
これまでよりも荒い息が聞こえ始めて思わず声を掛けた。
「もう少しです。頑張って」
それに答える余裕などないらしく、小さく首を1回縦に振って返事をする。
2階に到達すると私が住んでいた部屋の前に立った。ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。私が使用していた時のままのキーホルダーが、鍵の持ち手の部分から垂れ下がってブラブラと揺れていた。叔父さんが「さくらだから桜」と言って引っ越した日に付けてくれた物だ。
玄関のドアを開けると、懐かしい空間が目に飛び込んでくる。
鍵と同様に、そこから見える物にも何も変化は無かった。猫の形の玄関マットも、下駄箱の上の小さな熊のぬいぐるみも、壁に掛けてある靴ベラも、ピンクのスリッパも、全てが私が住んでいた時と同じ場所で存在していた。
叔父さんは靴を脱いで靴下のまま上がった。私も同じ様にスリッパを使わずに中へ入る。
廊下を抜けた先にリビングがあり、ダイニングテーブルの椅子を引いてひとまずそこへ座らせた。叔父さんは、卓上に置かれている薬袋に手を伸ばし、薬のシートを取り出してフィルムを破り中から出てきた小さな錠剤を口に入れる。
「お水、要りますか?」
隣に立ったままで私が尋ねると、背もたれに体を預け目を閉じて小さく横に手を振った。
見守ることしかできないので向かいの席に座ってしばらく様子を見ていると、徐々に呼吸が穏やかになり表情も柔らかくなり始めた。
「大丈夫ですか?」
私が問いかけると、叔父さんは薄っすらと目を開けて小さく頷いた。
「迷惑を掛けて悪かったね」
「気にしないでください。どこが悪いのかお聞きしても?」
「ちょっと心臓がね」
「大丈夫ですか? あまり無理をなさらないでくださいね」
私の言葉に「ふっ」と小さく鼻息を漏らすと、叔父さんは再び目を閉じて小さく横に首を振った。そして大きく息を吐き出すと、目を開けて私と視線を合わせて言った。
「君は私の姪と似ている。話し方もそうだけど雰囲気がね。公園で呼びかけられた時は姪かと思って驚いた。しばらく君から目が離せなかったよ」
悲しそうに微笑む。
その言葉を聞いて鼓動が大きく跳ね上がった。どれだけ容姿が変わろうと中身まで変身することはできない。今の話を聞く限り、叔父さんなら真実を告げても無条件に信じてくれる気がした。
けれど本当のことは話せない。それがとても歯がゆくて仕方なかった。
叔父さんは視線を下げてテーブルの縁を愛おしそうに優しく撫でていた。
「姪に不幸があってね。ここはあの子が使っていた部屋なんだ。もう戻ってくることはないとわかっていても、どうしてもこのまま残しておきたくてね。」
私は部屋の中を見回した。部屋の中の全ての物が私が居た時のままだった。しかし、物は動いていないのに部屋の片隅にもテーブルの上にも埃が見えない。
「部屋が綺麗ですが掃除をされているのですか?」
「そう。毎週、時間が空いた時に来ては掃除をして帰る」
以前、アパートの前で部屋の明かりが灯っていたのを見て、私の痕跡が消されていく気がして寂しくなった。けれど、叔父さんはこの部屋に私の生きた証を残してくれていた。
本来であれば、それを喜ぶべきではないとわかっている。でも、せめて1年を終えて戻るまで、叔父さんが私を想う気持ちに甘えていたい。私を感じていて欲しい、わがままにもそう願ってしまった。
「君、名前を教えてくれないか?」
そう言って、乱れた髪を整えるように何度か右手でかきあげた後、両手を腿の上で組んだ。
「下野伊 凌です」
「下野伊君か。悪かったね、見ず知らずの人間に付き合わせて。助かったよ」
「いえ、大したことはしていませんし」
「ところで明日は暇かい?」
「えっ!? はい、用事はありませんが」
「お礼と言っては何だが、明日、昼食を一緒にどうかな?」
「昼食ですか? えっと……」
あんなに苦しそうだったのに、次の日に食事に出かけて大丈夫なのか心配になった。言葉を濁した私を叔父さんは違う意味で捉えてしまったらしい。
「……そうだな。普通であれば知らない人間と食事をするなど抵抗があって当然か。では何か別の方法でお礼をさせてくれないか?」
「違うんです……。そういう意味ではなくて。それに、あの、お礼なんて結構ですので」
「助けてもらっておきながら何もしない訳にはいかない。食事が嫌なら何か欲しい物はあるかい?」
「何もありません」
「言い切られると困ってしまうのだが。本当に何もない?」
「……物を頂く訳にいかないので、それでは食事に」
「じゃあ、明日の昼飯を一緒に食べよう。嬉しいよ。実は下野伊君ともう少し話がしてみたかったんだ」
そう言って優しく微笑んだ。
私は、ソワソワしながら公園の入り口で叔父さんの迎えを待っていた。
昨日、待ち合わせの約束を交わした後、私は叔父さんを残して部屋を出た。もう少し一緒に居ると言ったけれど、迎えを呼ぶから大丈夫だと帰らされた。本当は一人にしたくなかった。せめて迎えの人が来るまで様子を見ていたかった。
帰りの道を歩きながら、誰もいない時に何かあったらどうしようと不安で不安で仕方なかった。叔父さんが心配で何度も立ち止まってアパートに戻ろうと振り返る。しかし、それが許される立場にない。帰るように言われれば従うしかないし、戻ったりするなど必要以上に心配する姿も不自然だ。今の私にできることはない。もどかしい気持ちを抱えながら家路についた。
夕方、海李君の家で夕飯をご馳走になっている最中も叔父さんのことで頭がいっぱいだった。何の話をしていたのかすら記憶にないほどだった。
布団に入っても寝付けなかった。
お母さんのように突然この世を去ってしまったらどうしよう。
待ち合わせの時間に来なかったらどうしよう。
そう考えると怖くて仕方なかった。早く朝が来ないかと、壁に掛かっている時計から目が離せなかった。
約束の時間よりも早く着いてしまい、今、公園の入り口を右へ左へと落ち着きなく動き回っている。泳ぎを止めたら死んでしまう魚のように、足を止めたら叔父さんに会えないような気がしていた。
勿論、そんなことがある筈はない。けれど姿を確認するまで動いていないと怖くて仕方なかった。
目の前に1台の車が止まった。助手席の窓が開き、中から叔父さんがにこやかに手を振っていた。
「おまたせ」
「体は大丈夫ですか!?」
挨拶も忘れ、私は車に走り寄ると窓の縁に手を掛けて頭だけを車に突っ込んだ。叔父さんは私の勢いに押されたようで驚いた顔をして頭を少し後ろに下げた。
「あっ、ああ……。 なんだか随分と心配をかけたようだね。お陰様で今日は快調だよ」
「よかったです」
叔父さんの言葉で体の力が一気に抜けて、窓の縁に手を掛けたまましゃがみこむ。安心したせいか頭の中が真っ白になり、今、自分がどこで何をしているのか忘れて放心状態になった。
「おーい、下野伊君。とりあえず乗って」
車の中から叔父さんに呼びかけられた。その声で我に返った私は、慌ててドアを開けて車に乗り込んだ。
「すみません」
「何が?」
「取り乱してしまって」
「いやいや、心配してくれて嬉しいよ。ありがとう。じゃあ行こうか」
そう言って車を発進させた。
書き溜めていたものが全て消えました……




