出会い
高校1年の6月中旬。
少しずつ暗くなり始めた空を見上げながら、いつものように公園のブランコに座っている。滑り台で遊んでいた子供達は、だいぶ前に帰っていた。
学校からの帰宅後、私は、着替えてから毎日公園を訪れている。そして、一人寂しくブランコに乗って時間を潰していた。
何故なら、家には誰もいないから。
夕暮れ時に、ここを占拠し始めて何週間くらい経つだろう。
日課になっている一人ブランコが別に楽しい訳ではないし、変わることのない景色にも飽き始めている。
それでも、毎日ここで時間を潰す。長い夜を一人で過ごすのが怖いから。
一人ぼっちには慣れていても、今までの一人きりとはまるで違う。待っていても、帰ってくる人がいない。押し潰されそうになる辛さから逃げるために、毎日、私は部屋を抜け出す選択をしているのだ。
こうして一人でいると、時々、声を掛けてくる人も現れる。それは、主婦らしき女性だったり、若い男性だったり。
いく人かの女性は、私の身を案じてくれていた。寄り添う言葉をかけてくれたり、危険だと注意をしてくれる人もいた。男性の場合は、話しかけてくる意味が違うこともあったのだが。
けれど、そんな人達に、私は一貫して黙秘を貫いた。聞こえないふりをした。
正直、放っておいて欲しかった。関わらないで欲しい、お願いだから話しかけないで、と誰かが近付いてくるたびに心の中で叫び声を上げていた。誰かと関りを持つことにうんざりしていた。
そんなふうにしか考えられない、腐っている自分が、情けなくて惨めに思えて仕方なかった。
そして今日も誰かの気配がした。砂利交じりの土を踏む音が、背後から聞こえてくる。
「あの」
低めの男の人の声がした。いつものように聞こえないふりをして、足元に視線を落とす。
しばらく黙っていると、大抵の人は諦めて去っていく。だから、今日も同じ選択をした。それが最善だと、私の経験が言っているのだ。
遠くから響く車のクラクションや、速足で道路を歩く靴の音、笑い声の混じった会話。いつも耳にする日常の音色。それらに意識を向けていると、地面の色が濃くなり始め、夜が間近まで近づいているのを告げる。いつもと変わらない時間の流れ。
けれど、今日は、そこに異質な音が紛れている。
先程の声の主はまだ同じ場所にいるようで、静かな呼吸音だけが空気を揺らしていた。時計がないから正確な時間はわからないけど、結構な時が経ったような気がする。
今日の、この人は、私が黙っていても去って行く気配がない。
彼は一体何をしているのだろう? ただ立ちつくして私を眺めている様子を想像して、少し薄気味悪くなってきた。――見えないというのは怖い。振り向いて動向を確認したい衝動に駆られたけれど、体勢を変えた瞬間に攻撃をされるかもしれない。そう考えると、それはそれで怖い。
だというのに、一瞬『ここで命を落とすことになってもいいか』という考えが頭をよぎった。そのほうが、どれだけ楽になれるだろうか、と……。
そんな考えが浮かんだことに驚きつつも、心の深い部分に、消えたいという願望の欠片が存在しているのだと、自分自身でも把握していなかった感情が存在していたことに愕然とした。
けれど。
どれだけ苦しくても。
私は生きなければならない。
例え一瞬でも、そう考えた浅はかさを反省した。
思い悩むことに疲れ始め、背後に知らない人がいるのも落ち着かない。もう帰ろう。そう足に重心を乗せた時、左隣のブランコが『キー、キー』と鳴き始めた。状況を考えたら、きっと鳴かせているのは背後に居た彼なのだろう。彼以外に、人が近寄ってきた気配はなかった。
さっさと帰ってもよかったけれど、何故か帰るタイミングを逃した気分になった。別に気を遣う相手ではないのだから、立ち上がって去ればいい。なのに、見えない鎖で体を縛られているかのように、私の体は動かなかった。
俯いた姿勢のまま時間だけが過ぎていく中で、視界の隅に鮮やかな赤い靴が行ったり来たりし始める。彼が、小さな動きでブランコを漕いでいるようだった。
綺麗な色。
その赤が揺れているのが妙に心地良かった。
誰かわからない相手と、お互いに会話をすることなく同じ時間を共有する。
不思議だけど、何故かそれが嫌じゃない。むしろ、しばらくこのまま時が止まったらいいのにとさえ思った。
初めて感じるこの気持ちは何だろう。自分でも解読不能な感情を抱えたまま、周期的に視界に映りこむ赤と、地面に転がっている無数の小石を見つめていた。
辺りが暗くなり始めると、公園の隅に設置された外灯が点灯する。それがいつもの帰宅の合図だ。
今日も、外灯が自分の仕事をし始めたので、それを合図に立ち上がろうとすると、私より先に隣の彼が動いた。ザッザッと地面を踏みしめて、もと来た道を戻って行く気配。
結局、一言も話しかけてくる事なく彼は去って行った。私は、その姿を目で追うことはしなかった。
そして。
予想外に、次の日も赤い靴の彼が来た。
前日と同様、話しかけてくることはない。ただ、隣のブランコに無言で座っているだけ。
まるで約束のない待ち合わせのように、次の日も、また次の日も彼は現れた。
気付いたら、もう5日も隣り合っているのに、それでも私達は言葉のない時間を共に過ごす。その間、彼の姿を見る事がなかったので、おじさんなのか若いのか、それすらわからない。でも、その事実を確認することに意味を感じなかった。私には、隣のブランコを占拠している人、それだけで十分だった。
連日、共に同じ時間を共有していても、そこに変化が生まれることはない。私は、どの日も地面とにらめっこしているか、色が変わっていく景色を眺めているか、だった。変哲のない毎日に、目には見えない空気の様に彼の存在がただ加わった。それだけ。
彼は、私のルーティーンを知っているようで、目安にしている外灯が灯ると、私より先に公園を後にする。何が目的なのか、この時間が彼に意味のあるものなのか、それは私の知るところではない。
土曜日。
学校が休みの日も、登校時と同じくらいの時間に公園に出勤している。
家を出る時に、曇り空が少し気になって傘を持っていこうか悩んだ。テレビもスマホも無いから天気の情報を得る術がなく、雨が降るのかどうかもわからない。降り始めたら帰ればいいか、と安易に考えながら、いつもの道をトボトボと歩く。
土曜日だから、さすがに彼は来ないだろうと考えると、ちょっとだけ寂しい気がした。ただ隣に座るだけの、何の関りもない相手なのに……。
到着すると、定位置のブランコは空いていたのだが、入り口付近のベンチに数人の小学生の先客がいた。スマホを手に、よくわからない用語でお互いを挑発している。会話から察するに、対戦ゲームをしているようだった。そんな彼らを横目に、私は、相棒の元へと向かう。
見上げた空が先程よりもどんよりとしていて、すぐにでも泣き出しそうな雲行き。まるで、私の憂鬱な持ちを反映させているような空模様だ。
雨が降るまでいよう。家に帰ったところでやることがないし。あの空っぽの部屋には、まだ戻りたくない。
沈鬱な気分を紛らわすように、今日は、地面を蹴ってブランコに振り子運動をさせてみた。敷地に植えられている樹木が近くなったり遠くなったり、毎日見る景色と様子が変わって、少しだけ新鮮に映る。しかし、それもすぐに飽きてしまった。
ブランコを静止させ、空を仰ぐ。水滴が顔に当たった。思っていた以上に雨足が早かった。
雨だ。
気付いた瞬間、小学生達の大騒ぎが始まった。
「やばっ、雨だ」
「セーブしろ」
「あと、ちょいだったのに」
様々な声が入り乱れる中、一様にスマホを操作して、お互いに「じゃあな」と声を掛け合って解散した。それが本当にあっという間で『蜘蛛の子を散らす』ということわざのお手本みたいで、妙なところで感心してしまった。
彼らが去った後、騒がしかった空間が一気に静寂に包まれ、痛いほど一人ぼっちを実感する。ぐるりと辺りを見回すと、薄暗くなってきた公園の空気に拒絶されているような感覚に陥り、心がざわついて不安が襲ってきた。
雨粒の落ちてくる数も増え始めたことだし「もう帰ろうかな」という、独り言と共に、帰宅の選択をして立ち上がった。
その時、ふいに右手の手首を掴まれる感覚がした。
全身からどっと噴き出す汗。全身が硬直し、心臓がどくどくと早鐘を打った。震えそうになる体をなんとか宥め、恐る恐る振り返る。
「えっ!?」
私の手を掴んでいたのは、青色のジャージを着た見知らぬ男性だった。
外灯が彼の背後に建っるせいで顔はしっかり見えないけれど、若い人だというのは、なんとなくわかる。その人は、150cmの私が見上げるくらいに大きくて、あまりの身長差に威圧感と恐怖を感じるほどだった。
人は予期せぬ場面に立つと、頭の中が真っ白になると聞いたことがある。今の私が正にそれだ。――とにかく、どうにかしなればならない。焦りばかりが募る一方で、私の口をついて出たのは「あっ、あの、えっと」そんな、何の役にも立たない言葉だった。
「なにもしないから大丈夫。一緒に来て」
うろたえてはいても、どこか冷静な自分が、その言葉は信用に値するのかと訴えている。とても優しい口調。かといって、それだけで見知らぬ人に付いて行くほど、愚かではない。初対面の人物の何を信用すればいいのか。彼の言動に募る違和感から、掴まれたままの右手を振りほどこうとした。
その時、ふと足元に目が向いた。
『赤い靴……』
ここ数日、私の隣のブランコを占していた赤だ。その色を見た途端、私の心の中からは、彼に対する不信感が一瞬で消え去ってしまった。
振りほどこうとしていた手を下ろし、右腕を彼に委ねることにする。自分でも理由は分からなかったが、何故かそうしたかったし――この人は大丈夫、そんな不思議な確信が私の心を包んでいたからだ。
その反面、戸惑いもまた確かな存在感をもって、体中を駆け巡った。
この感情は、一体何なのだろう?相反する二つの存在が、明確な輪郭を伴って、私の中に息づいている。この感情に名前はつくのだろうか。何度も何度も自問する。しかし、結局は、答えが出ないことなどないのだろう。なにせ、私にとって、知らない人を受け入れるというのは、紛れもなく初めてのことなのだから。
躊躇いに後ろ髪を引かれつつも、その難問を私の中から解放することにした。
握られたままの手首を見た。なんだか手錠を掛けられた犯罪者のようで、とても奇妙な光景に映る。その手錠を掛けられたまま、私は、公園を出て、通ったことのない路地を連行された。歩き出しても拘束が解かれる気配はない。
あちこちで街頭が灯っていく。雨で濡れた道路に光が反射する様は、まるで宝石が散りばめられているかのようだ。ともすれば現実を忘れそうになる光景を前にして、すれ違う人達のつま先だけが今を映している。
彼は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。彼の足の長さなら、きっと、もっと速く歩くだろうに、ワルツを踊るような優雅さで、彼は私の隣をキープしている。
ほどなくして、彼の足音が静かに止んだ。
「ちょっと待ってて」
私の手首の拘束を解いた彼は、右手で持っていたバックの中をゴソゴソと漁り、ウインドブレーカーのような服を取り出した。履いている靴と同じ赤色だった。
「傘持ってないから、これ被ってて。今日は、着ていないから綺麗」
そう言って私の頭に掛けてくれた。その話し方と声が、もしかしたら私と近い年齢かもしれないと思い、彼の顔を見ようと頭を上げた。けれど、服が目の辺りまで覆っていたから、私の視界に入ってくるのは赤一色だけ。わざわざ、見えるように服をずらして確認することはない。そこまで重要なことでないし、それを行動に移すのが面倒だった。
すっぽりと覆ってしまう大きな服から、柔軟剤の甘い香りが漂う。そうして、彼はまた私の右手首を掴んで歩き出した。
「ありがとうございます」
一瞬、断わることも頭に浮かんだけれど、その言葉は飲み込んだ。
私達の間には、相も変わらず静寂が横たわっている。聞こえてくるのは、道路を走る車の音と、雨が地面を叩く音。それから、二人分の足音。人の気配が消えた道を歩く、私達の足音だけ。時折、気付かずに水たまりに足を踏み入れて、ピチャッと可愛い音がしたけど、他に鼓膜を揺らすものはなかった。
やがて私達は、2階建ての大きな1軒の家に辿り着いた。公園を出てから、どれくらい歩いたのかは分からないし、自分が、今、どこに居るのかさえ皆目見当が付かない。思えば、何処に連れていかれるのか問いもせずに、ただ引かれるま後を付いてきただけだということに、その時になって気が付いた。
彼が門を開けて入った。その行動を見れば、当然、ここは彼の家なのだろうけど、家に連れてこられた理由はわからない。何の意図があって連れて来られたのか、何をするつもりなのか。疑問だけが頭に浮かび、急速に不安な気持ちが胸の中を駆け巡っていく。
今にして思えば、一時の気の迷いで、拒否するという正常な判断ができなかったことに、思わず唇を噛む。
少しの焦りを感じて、この手を振り払って来た道を戻ろうかとも考えたが、私の腕に微妙な力が加わったことを察知してか、彼の拘束も少し強くなった。そして、優しい声が、焦燥に囚われ始めた私の頭に、新雪のような純粋さをもって降ってきた。
「ここ、俺の家。親には一緒に帰るって電話してあるから大丈夫。入って」
玄関のドアを開けて、中に入るように促される。
「あっ、あの」
連絡済みとは、どういうことだろう。
何だか訳が分からなさ過ぎて、足に力を入れ玄関に入るのを拒んだ。このまま逃げてしまおうかと右手を引くと、抵抗するように、私の腕が少しだけ強引に引っ張り返される。彼はなんでもないという風に「ただいま」と家の中に声をかけた。
すぐさま「おかえり」と女性の声と共に右側の扉が開き、中からお母さんと思われる人が現れた。お母さんと呼ぶには失礼なくらい、若々しくてモデルのように綺麗な人だった。
「いらっしゃい」
私を優しい笑顔で迎えてくれた。にも拘わらず、その笑顔の裏に何かあるのでは? と、まだ起こってもいない悪い事を想像して体が勝手に緊張をする。
向けられた優しさを信じた代償は、今でも心に傷となって残っている。簡単に人を受け入れられる程、私の心は純粋ではない。
「心配しなくても大丈夫だから」そう言って彼が玄関のドアを閉める。退路は断たれた。
彼は、やっと私の拘束を解くと
「早く上げてあげて。俺、服、着替えてくるから」
そう母親に告げて、雨に打たれたままの姿で奥へ消えて行った。歩いた廊下に、小さな水滴が点々と落ちている。
彼女は笑いながら「濡れた床、自分で拭きなさいよ」と、彼が消えた空間に大きめな声で言って、長い髪を揺らしながら私に向き直った。
「大丈夫? 濡れなかった?」
「あの、服をお借りしたので濡れてないです」
「そう、よかったわ」
にっこりと笑って頭に掛かっていた服を取り除いてくと、私の前にスリッパを置いた。
「遠慮しないで上がって」
「あっ、あの、でも」
何故か『上がる』という流れになっているようだけど、これは一体どういうことなのだろうか。
何の関係性もないお宅に招かれるというのは不可解でしかないし、素性の知れない相手を安易に上げることに抵抗はないのだろうか……。
「あの子が無理矢理に連れてきちゃったんだろうけど、用事でもあった? それとも親御さんに連絡しないとまずい?」
「いえ、用事はないです」
「じゃあ、大丈夫そう? 夕飯を作ってあるの。一緒に食べましょ? うちは私達2人きりだから、気を遣わなくていいわ。入って」
笑顔で上がるように促されたけれど、私は動かず、足元に置かれているピンクの物体を見つめて考えた。
話の内容からすると、私の分の夕飯も用意されているということだと思う。
その意味がわからない。今日、ここに私が来ると予知でもしていた?それとも、初めから連れてくる予定だった?この状況の何もかもが、私の理解の範疇を超えている。頭の中を整理しようにも、不揃いのピースばかりでは整えようもなかった。
このまま何も言わずに出ていこうか。別に約束などしていないのだし、相手の言葉に従う道理もない。だけど、この理解不能な状況の理由だけは確認しておくべきかと思う自分もいる。
私は、私を不思議そうに見つめたままの彼女に尋ねた。
「あの、何故、私はこちらに連れて来られたのでしょうか?」
「えっ? 夕飯を一緒に食べるためだけれど」
さも当たり前といった顔で返された。
初めて会う人間に夕飯に振る舞う? この家では、捨て猫みたいな人間に、夕飯をご馳走する習慣でもあるのだろうか。
「えっと……、どうして、私が夕飯をご馳走になるのでしょうか?」
「あー、息子が公園の前を通りかかった時、あなたが雨の中にいるから連れて帰る、夕飯を用意しておいてって電話をよこしたの。時間がなかったから、簡単な物しか作れなかったけど」
自分の分の食事が、いかに用意されていたかを知り、謎の一つが解明された。けれど、私が聞きたいのは、そこではなかった。――何故、私を連れて来て夕飯を共にするのか。その疑問を解消して欲しかったのだ。
そもそも、電話をしただけで夕飯の用意がされているなんて、彼は、私の事を母親に何と告げたのだろう。この流れで考えたら、導き出される答えは1つしかない。
「あの、もしかして誤解されているかもしれませんが、私は息子さんの彼女ではありません」
「大丈夫、わかってるわよ」
彼女は、にっこりと笑って小首を傾げる。
その真意は、息子にはすでに彼女がいるから、私がそうではないことを知っている、と言う意味なのだろうか。
それとも、彼は、度々私のような捨て猫を拾ってくるから、この家では恒例の行事だとでも言いたいのだろうか。
この家に着いてから、私の頭の中は疑問しか浮かんでいない。状況が理解できない。怖い……。
もしかして、夕飯に毒や睡眠薬が盛られていて、意識を失った私を売り飛ばすとか、もしくは監禁されるとか……。
普通に考えれば、その確率は限りなく0に近いものだとわかるし、そんな非現実的なことが起こると想像すること自体がおかしいのもわかるのだけれど、冷静さを欠いていたせいで妄想が悪い方向に肥大化して、有り得ない事が有り得ることに見えてしまう。
無防備に付いてきたことを全力で後悔した。確証のない安易な直感に従ってしまった、数十分前の自分を呪いたい気分だった。
「どうしたの? 気分悪い?」
不意に、顔を覗きこまれて聞かれる。その瞬間、全身の筋肉が硬直していくのが分かった。
私の心も限界だった。
「あの、失礼します」
「どうしたの!?」
驚いた顔で立ちつくす彼女に背を向けて、私は玄関のドアに手をかけた。
開かれたその先には、足を踏み出すのを躊躇ってしまうほど、豪快に降りしきる雨のカーテンが引かれて、シンバルを細かく連打するかのような、大きな音色も混じっている。
しかし、この空間から一刻も早く抜け出したい私は、濡れることよりも、脱出を選択した。
深呼吸をして、息を整える。吐き出す息と共に、一歩、外へと大きく踏み出す。屋根の下から雨の中に突入しようとした瞬間「待って!」という大きな声と共に、左腕に負荷が掛かって、私の体は玄関の中へと引き戻された。
腕を一瞥し、緩慢な動作で振り返ると、スリッパで玄関のたたきに立って、私の腕を掴む彼女と目が合った。
心配そうな顔で大きく深呼吸をしている。ピンクのリップが塗られた、綺麗な形の唇が動いた。
「そうよね、いきなり知らない家に連れて来られて夕飯を食べましょうなんて、驚くのも当然よね。ごめんなさい。あなたに会えたのが嬉しくて、舞い上がってしまったの」
私は無言で、次に続く言葉を待つ。
「危害を与えるとか、騙そうとか、あなたを傷つける気持ちなんて一切ないの。実はね、4月の中頃からあなたが夕方になると公園にいるのを知っていて、一度、お話ししたいと思っていたの。だから、もし良ければ夕飯を一緒に食べませんか?」
優しく微笑む彼女から視線を外して下を向くと、濡れたままの赤い靴が鎮座していた。これまでの数日、無言で寄り添っていただけの靴。思い返せば、その赤が、私の時間を邪魔したことなど1度も無かった。
4月の中頃と言っていたけど、私がブランコを占拠し始めた頃だ。もし悪意があって近付くことが目的なら、それよりももっと前に、私は何かしらの害意を向けられているはず。
2人を信じた訳ではない。けれど、今日のこの1回だけなら……。
「……はい」
私は、自分でも驚くほど素直に彼女の言葉を受け入れた。
返事を聞いて、彼女は嬉しそうな顔で拝むように両手を合わせ「じゃあ、上がって」と、先に上がり框に立った。私は、用意されていたスリッパに足を入れて、彼女の後ろを付いていく。
通されたリビングは、ブラウンで統一された、温かみのある空間だった。入って正面にあるテーブルには、既に3人分の食器が用意されている。電話でのやりとりがあったのは本当だったらしい。
「ここに座って。今、用意するから待っててね」
「……はい」
4人がけテーブルの、キッチンが見える側の椅子を引いて、そこに座るように促された。私は、指定の場所まで歩き、お洒落な木の椅子に恐る恐る腰をかける。
リビングの中をキョロキョロと見回すのも気が引けて、とりあえず膝に置いた手に視線を向けてみる。身の置き所がなくて落ち着かない。
その間も、彼女はキッチンとテーブルを踊るように行ったり来たりして、手際よく夕飯の準備を進めている。幸せの象徴のような料理の香りがリビングに漂った。
「息子が来るまで、もうちょっと待っててね」
食事を盛りつけ終わって、彼女が斜め向かいの席に座った。
「うちね、旦那は海外出張で3年は帰って来ないし、上の息子は県外の大学に行ってるから、いつも2人で寂しい食卓なの」
テーブルに肘を着き、組んだ手の上に顎を乗せて、私に微笑みかける。
その時、青いジャージから黒のスウェット着替えた彼が、リビングのドアから入って来た。
「お待たせ」
首に掛けたタオルで頭を拭きながら、大きな体を滑り込ませるように私の向かいの席に座る。
一度、顔を見ようと試みたけれど失敗に終わり、それ以外、ここに来るまで終始俯いていた私は、その時、初めてしっかりと彼を見た。公園でも、歩いていた時も、家に着いてからも、彼の顔を直視したことはなかった。そして、今、目の前にいる彼は、服をかけてくれた時に感じた通り、やはり私と近い年齢に見える。通った鼻筋や、くっきりした二重、ちょっとぽっちゃりとした唇。とても整った顔立ちは、お母さんに似ていてると思った。
「今日は、無理矢理連れてきてごめん。雨の中を一人にしておけなくて」
申し訳なさそうに頭を下げた。まだ乾ききっていない長めの前髪が顔に垂れる。それを右手で掻き上げながら、頭を起こして私を見た。
「あの……、ありがとうございます」
何に対してのお礼なのか自分でもわからなかったけど、ふいに口から洩れた。
彼の視線と交差するのが気まずくて、慌てて下を向く。
「あっ、俺、有富海李です。高1です」
こういう場合、勿論、自己紹介をするべきなのだろう。
けれど、私は口を開くのを躊躇った。名前を告げて大丈夫だろうかと思ったからだ。しかし、自分の思いとは裏腹に、この状況で名乗らない訳にはいかないことも分かっていた。偽名を使おうか悩んで、すぐにやめる。
「……松多部、さくらです。同い年です」
視線を少しだけ上げて、不本意ながら名前を口にした。あれだけ一緒に居たのに、お互いの名前を初めて知った瞬間だった。
「私は百合です」
体を彼に近づけて前のめりになりながら、横からお母さんが割って入る。
「おふくろはいいだろ」
「嫌よ。私も自己紹介したいもの。しかも『さくら』と『ゆり』なんて、名前からして仲良し決定じゃない」
「どんな原理だよ」
「あら。そんなの、どうだっていいのよ。私の事は百合さんて呼んでね」
「図々しいだろ」
少女が大人になったような無邪気さが可愛らしい。羨ましくなるくらい、とても仲良しな親子が目の前に座っている。
2人の平和な口論を見ていて、ふと、お母さんのことを思い出した。
私が、こんな風にお母さんと楽しく会話したのは、いつが最後だった?
思い出そうとしても、何故か疲れきってやつれた顔しか浮かばない。笑った顔でも幸せそうな顔でもなく、ため息が聞こえてきそうな顔しか記憶になかった。優しい顔のお母さんを思い出せず、胸の奥に苦いなにかが生まれるのを感じた。
そんな事を考えていたら、抑えていたものが一気に崩壊して、感情をコントロールできなくなってしまった。鼻がツンとして涙がとめどなく溢れ出す。指で拭っても拭っても流れ落ちる。次第に嗚咽混じりになって、涙を止めたい自分と、泣きたい自分と、矛盾する気持ちをどうしたらいいのかわからない自分に混乱してしまった。
知らない人達の前で泣くなんて、どうかしてる。
「使って」
彼の声がして、目の前にティッシュの箱が差し出された。
「ありがとうございます」一応、口に出してみたけど、しっかりとした言葉にはならない。もう、自分を制御できなくて、場所も考えずに涙を生み出し続ける。
5分くらい泣いていたのかもしれない。落ち着いた後に顔を上げると、向かい合う2人と目が合った。食事に手を付けず、私を待っていてくれたようだ。
「すみません、醜態をさらしてしまって」
「いいのよ。誰にでも泣きたい時はあるわ。さあさあ、食べましょ」
何事も無かったかのように、二人は笑顔で食事を始めた。
知らぬ間に温め直してくれたらしい料理から、湯気が上がっていた。
「良かったら、また一緒に食事しましょ? 何か食べたいものある?」
食事を終えて、玄関先まで見送ってくれた彼のお母さんに尋ねられた。
「いえ、そんな何度も甘えるわけにはいかないので。今日は、ありがとうございました」
「そっかぁ、じゃあ、とりあえず今日は引くわ。またね。海李、しっかり送って行きなさいよ」
「ああ」
帰り道がわからない私を公園まで送ってくれると言い、靴を履いて準備していた彼が先に玄関を出る。「失礼します」と言って、私は後に続く。
『またね』と言われたけれど、きっと、もう会うこともないのだろう。
いつの間にか雨は上がっていた。辺りも、もう真っ暗になっていて、この辺りの土地に詳しくない私は、一人で帰っていたら右も左もわからなくて途方に暮れていたかもしれない。
彼は、行きと同様に歩幅を合わせて歩いてくれる。行きと帰りで違うのは、拘束があるか無いかだけで、私達は相変わらず言葉を交わすことなく歩き続ける。もしかしたら、その静寂こそが、彼なりの優しさだったのかもしれない。
行きよりも早く感じた帰り道。あっという間に公園に着いた気がする。数か所に建っているいる外灯が、誰もいない敷地を寂しげに照らしていた。
「家まで送らなくて大丈夫?」
「ここから2~3分の所なので大丈夫です」
「あの、今日は、迷惑とか考えないで自分勝手な事して、なんかごめん」
「いえ。むしろ、私こそご迷惑をおかけしてしまいました。ごめんなさい。それと、お母様にお食事が美味しかったとお伝えください。ご馳走様でした」
「えっと」
彼は何かを言いかけたが、結局、そのまま口を閉ざした。横を通る車の走行音だけが辺りに響く。立て続けに何台か走り去ったけど、二人の間には、それ以外の音は発生しなかった。しばらく何か考えている様子ではあったが、次に出てくる言葉はない。待っていたほうがいいのか、どうしたらいいのか。
その沈黙を彼自身が破った。
「あの。うん。じゃあ」
そう言って、視線も合わせずに速足で去ってしまった。私と歩いていた時とは比べ物にならないくらいの速さで、彼の姿があっという間に小さくなっていく。その後ろ姿を見送りながら、送ってくれたお礼を伝え忘れたと気付いた。
「仕方ない」
私は、彼の姿が見えなくなるまで見送って、一人ぼっちの寂しい部屋へ足を向けた。




