404号室
行きたいお店が土日定休日の時はどうしたらいいのでしょうか。
「お~い。コウ、授業始まるよ?」
ぐん、と幸司郎の意識がその声に呼び戻される。
机に突っ伏した状態の彼の顔を、子鹿がのぞき込みながら言った。どうやら長い間考え事をしていたらしい。
「……悪い。俺、寝てたか?」
「いんや、目は開いてたけど、なんかじっと考え事してるみたいだった」
「ん~、そうか」
幸司郎はそう気のない返事を返す。彼の頭の中は昨日の事でいっぱいだった。
そして、これからのことで。
「そういやさ、子鹿。お前、あの後ろの席の女子知ってるか? ほら、あの前髪の長い」
幸司郎は気付かれないように子夜を指さした。
「ああ……確か鼠ヶ原さん、でしょ? 知ってるよ、有名だもん」
「有名なのか? 何が?」
「何がって……ん~っとねえ……まぁ端的にわかりやすく言うとだね、イジメられてるんだよ」
「……はーん」
幸司郎はよくわからない納得したような声を上げる。
「結構酷いらしいよ、イジメ。中学から続いてるらしいけど……」
「でもそんな様子、あんまり見ないけど?」
「え~そう? 僕は何度か前に見たことがあるよ。あ、ほら、この間も頭濡らしてたりしたでしょ? 今思うとあれもそうだったんじゃないかな」
「ああ、あれか」
あれが虐められてたのだとすれば納得がいく。誰かに頭から水を掛けられたのだろう。本当にそういうことってあるんだな、と幸司郎はむしろ少し感心した。これでこそ田舎の公立高校に来たかいがあるというものだ。
「するとあの女子トイレの前にいた奴らがそうか?」
「さぁ、そこまではわかんないけど。そうなんじゃない?」
「……そうか……」
「何か気になったの? 鼠ヶ原さん」
「いや、何でもない」
「なんだよぉ、気になるじゃないか。教えてよ、ね、友達でしょ?」
「え?」
「……え?」
その時、教室の扉が開けられ、次の授業の教師が入ってくる。それに伴って二人の会話は中断された。微妙な気まずさを残したまま二人は離れ、幸司郎は気にせず次の授業の準備を始めた。なんとか授業に集中しよう、と頭の中を切り替えていたつもりだったが、しかし彼の頭の中では、昨日子夜が話した言葉が、何度も反芻されていたのだった。
幸司郎が自宅のマンションに着くと、その入り口の前で鼠ヶ原子夜が姿勢良く座っているのが見えた。彼女は幸司郎の姿が見えると、すっと立ち上がった。
「勝手に中に入っていいって言ったろ? 合い鍵も渡したし」
そう威圧的に言うと、子夜は困惑したように視線を下へと向けた。
昨日は互いに興奮していたからどうとも思わなかったが、この少女、どうやら本格的にコミュ障らしい。声も小さく、少し威圧すると押し黙ってしまう。前髪も無造作に伸ばしているのではなく、自分を隠そうという心理的なものから来ているのだと理解した。
「……極力、勝手に入るのは、よそうかなって……」
やっと少女から出た言葉はそれだった。ともすれば聞き逃してしまいそうな程に小さい。
「だったらはじめっから一緒に帰りゃあいいだろうが。昨日もそう言ったろ? それを嫌がったのはそっちだろ。学校でも他人フリしろって言うしさ」
無愛想に幸司郎はそう言ってマンションの中へと入って行く。
それを子夜は一歩後ろからついていった。
「急に、親しくなったら、怪しまれるかな、って……それに、私とはあまり、親しくしない方が、いいから」
「俺もイジメの対象になるからか?」
ぴくり、と彼女の身体が反応した。幸司郎はそれを感じ取りながらも特に気にせずに、エレベーターのボタンを押した。エレベーターが降りてくる。
「……知って、たんだ」
「今日聞いた」
子夜はいつも通り陰鬱そうに視線を落としながら、
「私のこと、嫌になった?」
「どうして?」
「だって、イジメられっ子、だから……」
「俺があんたのことを嫌になったとすれば、それはあんた、昨日からだ」
「……それもそう、だね」
子夜は苦笑いした。
「でも、だから、私と親しくしない方が、いい。冗談じゃなく、幸司郎くんも、イジメの対象に、なるから」
「は、アホか」
幸司郎は至極めんどくさそう顔で、階数を表示する電光掲示板を見上げながら言った。
「俺にめんどくさいことさせんなよ。どうしてわざわざ無視しなくちゃならないんだ?」
「……別に。今までと、変わらない。今まで通り、他人のままで……」
「そりゃあ今まではおまえを知らなかったからな。知らないから、話しもしないし、挨拶すらしない。そりゃ当然だ。でも俺はもう鼠ヶ原子夜を知ってる。それをわざわざ知らないフリするとか面倒極まりないにも程がある。俺は用事があればお前に話しかけるし、無ければ話かけない。それだけだ」
そう言い切った幸司郎を、子夜は唖然と見上げていた。
これは彼の優しさなのだろうか。それとも本当にただあえて無視することを面倒に思っているだけなのだろうか。それが幸司郎の表情からは読めない。
「やさしい、んだね」
「どうしてそうなる。俺が気持ち悪いからそうするだけだ。あんたのためじゃない」
彼らしい言葉を返してきた。子夜は内心でくすりと笑いながら、
「……そっか。でも、後悔、しないでね……」
子夜はそう警告した。それは冗談でもなんでもなく、本気の警告。子夜は幸司郎を思ってそう言ったのだ。しかし――
「それももう遅い」
幸司郎は口元を歪めて自虐的に笑い、開いた扉から外へと出た。子夜もそれに続く。
幸司郎のマンションは噂に聞く高級高層マンションなどではない。どこにでもある、普通のマンション。もちろんそれは一般的な高校生一人に割り当てられる生活区分としては充分に異常なことではあるが、それでもこのマンションに特別高級感といったものは感じない。むしろどちらかと言えば、そう、質素感の方が強いくらいだ。
そしてどことなく、寂しい。
外観は平凡なマンションだが、普通のマンションのように住民の生活感が無い。子供が走り回っているわけでもないし、主婦がたむろって話し合ってるわけでもない。家々の前に自転車や傘が置いているわけでもなく、家の中から光が漏れてきもしない。
見える範囲には人っ子一人おらず、とても閑散としていた。生気を感じなかったのだ。とても静かで、とても寒くて、とても悲しい、そんな印象。
マンションの内側、太陽が真上にある真昼でも無い限り日の光が舞い込んできそうもない場所は、夕方の今でこそ辛うじて光が差し込んできている程度で、それでもとても暗い。そしてそれがとてももの悲しかった。
「……なんだかここ、すごく落ち着く。私、日差し、苦手だから」
「なんだそれ、ネズミみたいだな」
「……そう、だね」
幸司郎が彼の自宅、四○四号室の鍵を開け、扉を開けた。