あったかご飯
どこにあるのさあったかご飯
ツイッター▶︎飯倉九郎@E_cla_ss
幸司郎が彼の自宅、四○四号室の鍵を開け、扉を開けた。
するといつも通りリビングへの扉の前でツバサが姿勢良く立って幸司郎を出迎えてくれた。
彼女は幸司郎を見ると深々と頭を下げ、
「お帰りなさいませ、ご主人様」
幸司郎はいつものことで特に気にしなかったが、しかしたかだか普通サイズのマンション内で行われるその異常光景に、子夜は訝しげな視線を向ける。
「凄いん、だね。お金持ちって」
「否定はしないよ……それにしてもツバサさん。悪いですね、わざわざ赤ちゃんの面倒見てもらっちゃって」
赤ん坊を家で預かるにしても、学校にいる間その子を家で放置するわけにはいかない。子夜が休んで面倒を見ると言ったが、それは彼女への疑問の目が向くきっかけになってしまうため、幸司郎が却下した。
その結果、幸司郎はツバサに赤ん坊の面倒を頼んだのだ。しかし下手に嘘話を作ってその赤ん坊の素性を隠しても、いずれはボロが出るだろう。というよりこの状況がすでに不振なのだ。故に幸司郎はツバサを味方に引き入れた。全てを話し、共犯者の一人となってもらった。ツバサはそれを快く受け入れた。とてもすんなりと、なんの迷いも無く。
幸司郎は彼女に誰にもそれを言わないことを約束させた。たとえそれが、雇い主の幸司郎の父、鬣輝であろうとも。ツバサはそれを言われるまでもない、と言わんばかりに、「もちろんでございます」と言って頭を下げたのだった。
「でも意外と世話かかんなかったでしょ、あの子、本当に静かですから」
「はい。とても大人しく、逆にどうしたいのかがわからず大変でした。体調もあまり良くなさそうだったので、まだ少し様子を見る必要があるでしょう」
「そっか。やっぱり泣かないんだな……で、ツバサさん、あの子は今どこに――」
そう言いながらリビングに入った幸司郎が目にしたのは、今朝彼が家を出るまでなかったはずの何か。それは広いリビングの一角を全て奪ってしまうほどの、なんとも豪奢で派手な、大きい大きいチャイルドベッドであった。どこで売っているのか聞きたいくらい、派手で煌びやかで、おそらく並の動物なら本能で危機感を感じて近寄らないであろう装飾。
「……これは……ツバサさん、やりすぎじゃないですか?」
「そんな、お褒めの言葉を授かり、光栄でございます」
「いや、褒めてませんよ」
「幸司郎様より授かりし子、それは神の子よりも尊い存在でございます故。相応の待遇をさせていただいたまでです」
「その言い方はなんか誤解を生みそうなんでよしてください」
幸司郎がツバサとそんなやり取りをしていると、子夜は小走りで二人の横を抜けてその豪奢なチャイルドベッドに近づいていき、そこで眠る赤ん坊を見下ろした。鞄も投げ捨て、上着も脱がないままに。
よほど会いたかったのだろう。幸司郎はその後ろ姿を見て、自分は少し声を落とした小さな声でツバサとの会話に戻った。
「それでツバサさん、調べてくれましたか?」
もちろんでございます、とツバサはテーブルの上に置いておいたクリアファイルを手に取り、幸司郎に手渡した。幸司郎はそれを受け取り、ブレザーを脱いでソファへと座る。
「犬樫一志。三十一歳。無職。以前仕事の関係で脚を不自由にし、生活保護を受給中、か……案の定だな」
幸司郎がそのクリアファイルの中に挿んであった数枚の紙を読み上げながらそう言った。
それはツバサに頼んでおいた、赤ん坊の父親の身辺調査の結果だった。
「両親とはすでに死別しており、兄妹も無し。妻子もおらず、現在アパートで一人暮らし……って、あれ? おかしいな。ツバサさん、これ本当ですか?」
「間違いありません。私の命を掛けても、幸司郎様に間違った情報はお渡しいたしません。その男は現在、書類上は一人暮らしということになっております」
「そう、なのか……」
一人暮らし……であれば、今、目の前で子夜が抱いている赤ん坊は? この男の家には目の前の赤ん坊の存在がない事になっている? 赤子を産んだ妻すらも。
そこで何かに気付いたように幸司郎は慌ててパソコンの元へと走り、ネットを開いて検索欄に文字を打ち込み始めた。
「……やっぱり、おかしいな……赤ちゃんが一人誘拐されたってのに、まだニュースになってない」
「……昨日の事、だから、もう少しかかるんじゃ?」
「つっても一日以上経ってるんだ、テレビはともかく、ネットでニュースにもならないなんて、遅すぎるだろ」
幸司郎は考えた。彼の中で可能性としてはいくつか挙げられた。
一つは、まだニュースになっていないだけ。
もう一つは、父親が娘がいなくなったことに、まだ気付いていない。または、気付いているが、捜索願を出していない。
普通に考えるならそのどちらかだろう。しかし一つ目はやはり遅すぎるからあり得ない。二つ目の理由だが、しかし一日以上も子供の無事を確認しないなんてあるだろうか。例え虐待をしていたとしても、殺せば必然、問題になるわけで、であれば死なない程度に世話はするはずである。いや、子夜はそう言っていた。だからおそらくそれもあり得ない。
あるとすれば三つ目の理由、気付いているが、未だ捜索願いを出していない。
ではどうして捜索願いを出さないのか。
そこまで考えが至った時、幸司郎の中に一つの可能性が上がった。
「ってことは、もしかしたら……」
幸司郎が考え込むように途中で言葉を止め、何かを考えるように固まった。その背中を見て、子夜が不安気に尋ねる。
「どう、したの?」
「ああ、いや……多分、その赤ん坊には戸籍がないんじゃないかって話だ」
「……戸籍? ていうことは、この子は、この世に存在しない子だ、ってこと?」
こくり、と幸司郎は頷いた。自身もまだ充分に理解できていない様子だ。
「だから多分、捜索願を出せないんじゃないかな。だっていないものを探すことなんてできやしない。ツバサさんの調査が間違ってるとは思えないから、この男には世間的には子供はいないことになっているんだろう。問題はどうしてそんな事になっているか、なんだがな」
「そう……そうなんだ……」
それを聞いた子夜は、腕に抱いた赤子を、ぎゅうっと頬にすり寄せた。未だ全開ではないにしろ、昨日よりは幾分も血色が良くなっている。
この子は認められた存在ではない。子夜はそれが酷く悲しかった。
「……ふむ」
ややこしいことになってきた、と幸司郎は唸った。
もしその通りであれば、赤ん坊に関して警察が動くことはないのかもしれない。そちらに対する危機は取り払われた可能性はある。
――かといって、考えるのを辞めてしまうのは、あまりにも愚かである。
犯罪者が最も辛い思いをするのは、罪を犯した後だと言う。周囲が全て怪しく思え、余計な思考で疑心暗鬼になり、自らの精神を削っていく。犯罪者が自殺したり自首したりするものの多くはここに理由がある。犯罪後のプレッシャーに勝てないのだ。人はそこまで強くない。精神の崩壊した人間でもなければ、平穏を保っていられない。
案の定、幸司郎も昨日から考え過ぎて、すでに心に疲労が溜まっている。この結果で少しそれが和らいだが、そこで気持ちを落ち着かせることなど、毛頭できやしない。むしろこうして音沙汰が無いことが、何より不気味でもあった。いつ終わるとも知れぬ不安感。幸司郎はそれと戦っていかなければならなかった。
「幸司郎様」
どうして俺がこんな事を、と考え込む幸司郎に、ツバサが声を掛けた。
「そのような場合でないのは、重々承知なのですが、よろしければ先にお食事を取ってはいかがでしょう。せっかくの料理も、冷めてしまいます故」
「……そうですね」
頭を使うのもお腹が空く。そう思い幸司郎が席を立ってテーブルに行くと、そこに並べられていた料理は、一人分だった。箸も取り皿も、一つずつ。
「いつも帰ってくるタイミングでできたてですけど、どんな魔法使ってるんですか? 帰る時間もバラバラなのに」
「ベランダから幸四郎様の姿が見えるのをお待ちしています」
「まじですか……でも家の前来たタイミングで、よく間に合いますね」
「双眼鏡で一本向こうの道から観察……監視しています故」
「言い直さない方が良かったですね。てか帰るタイミングわからないから、めちゃくちゃ待ってますよね。最高に怖いですよ」
「お褒めの言葉を頂き誠に嬉しゅうございます」
「だから褒めてないですから……ってあれ、これ一人分しかないじゃないですか。鼠ヶ原の分は?」
「私は、幸司郎様の専属です故」
ツバサは何も間違っていない、とあえてそう目をつむって答えた。
「まぁ、そうですけど……鼠ヶ原が来るのわかってたんですから、二人分作っておいてくれてもいいじゃないですか。手間もそんなに変わらないでしょう?」
「しかし私は……」
子夜がその会話を聞いていて、私は大丈夫だから、と言葉を挿もうとした。家に帰れば食事も用意してある。自分はこの家に誘拐した赤ん坊を連れて押しかけただけでなく、そんな人間に食事まで作ってもらう必要は無い。それはあまりにも迷惑極まりない、と。
しかし――
「作れ」
暖かい空気が包んでいた部屋を、一瞬、気のせいかと思うほどいきなり、寒気が包み込んだ。それは幸司郎の声。ツバサに対しずっと丁寧な敬語口調だった幸司郎が、突然命令口調でそう言ったのだ。別に怒鳴っているわけでも、威圧しているわけでもない。しかしその言葉には、明らかな圧迫感があった。恐怖とも言っていいような。子夜は幸司郎の背中しか見えなかったが、彼を纏う空気が明らかに変わっているのはわかった。
「はい。申し訳ございませんでした」
ツバサはそれを聞いて、今度は何も言い返さず、深々と頭を下げてキッチンへと向かっていく。冷たかった空気が、先ほどと同じように暖かいものへと戻った。
「鼠ヶ原。飯食ってけよ。その子の事もいろいろと話し合わなくちゃいけないし。ああ、あと今後の事とかもな。いろいろ必要なものを買いそろえなきゃ」
そう言って振り向いた幸司郎は、それは普段と変わらない、ぶっきらぼうだけど、優しい声、顔。本当にさっきのは聞き間違えだと思ってしまうほどに。
「でも、そこまで、してもらったら、悪いし……」
「母親になりたいんだろ? だったら出来るだけ側にいて、世話してやれよ。俺は、正直面倒臭い」
ひらひら、と幸司郎は手を横に振ってそう言った。
子夜は少しだけ考えた後、「うん」と小さく返事を返した。
幸司郎はそれを聞いて少し笑い、再び前を向いた。そしてそのまま振り返らずに、
「あ、あと名前が無いのも面倒だし、どうせなら名前考えといたらどうだ? 母親が子供のために一番初めにする仕事、そんでもって親子である証、だろ?」
「いい、のかな? 名前なんて、つけちゃって」
「割り切れよ」
幸司郎は再度くすりと笑ってそう言った。何をいまさら、そういうこと。
子夜は抱いていた赤ん坊を豪奢なチャイルドベッドに戻し、ゆっくりと幸司郎の座るテーブルへと向かっていって、幸司郎の正面に座った。
赤ん坊が乗った重みで、その豪奢なチャイルドベッドが、ゆっくりと揺れていた。




