第4話 土仕事を笑った元婚約者が、土まみれで復縁を求めてきました
一年前、私の爪に残った土を見て顔をしかめたクラウス様の指が、今は黒く汚れていた。冬の間、伯爵様の命令で温室へ入っていたと聞いている。袖口には古い糸が浮き、後ろにエステル様の姿はない。
三十枚の値札を握って北まで来た理由を私は黙って待った。
「話がある、オデット」
「庭のご用でしたら、順番をお待ちください」
「二人で話したい」
「ここでどうぞ。去年は皆様の前でお話しになったでしょう」
クラウス様は周囲を見回した。昨年は観客を味方につけるため、自ら大勢の前を選んだ方である。今度だけ静かな部屋を望むのは、少々虫がよい。
「戻ってきてくれ。君が必要なんだ。父も婚約を結び直してよいと言っている。庭は全部、君に任せる。もう土のことで文句も言わない」
「その値札を返しに、北まで?」
「違う。君が戻れば、こんな値札は要らなくなる。庭も客も元へ戻る。君だって伯爵夫人になれるんだ」
客たちの間から低いざわめきが起きた。
一年前なら、その言葉を待っていたかもしれない。胸の痛みを飲み込み、やっと分かってくださったのですねと笑っただろう。
今の私には自分で選んだ庭がある。名を呼んで仕事を頼んでくれる人がいる。疲れた顔を見つけて、蝋燭を消してくれる人もいる。
「戻りません。……もう、戻りたくありません」
「意地を張るなっ。君は伯爵夫人になるため五年も学んできただろう」
「五年かけて、もう嫌だと分かったんです。土に触るたび嫌な顔をされて、働けば当然だと言われる暮らしは。ここでは自分の手を隠さずに済みます」
「伯爵夫人の座も薔薇の仕事も君に渡すと言っているんだぞ」
「仕事ならここにあります。伯爵夫人の椅子も要りません。あの婚約を終わらせた。それで十分です」
昨秋、北まで薔薇を買いに来た花商が客の中から進み出た。
「クラウス様、返金は受け取りました。ただ、もう伯爵家へ薔薇は頼みません。次からはこちらへお願いします」
「うちの秋の祝宴も、ラングレー嬢へお願いするわ」
「うちもよ。当日に花がないなんて、もう御免だもの」
昨年まで伯爵家の園遊会へ通っていた夫人たちが次々に続いた。クラウス様が取り戻したかった客は、本人の目の前で私へ来年の花を頼んでいく。
「侯爵に取り入ったのか」
「その先はお控えください。お帰りなら、門までお送りします」
テオドール様が私の横へ立った。穏やかな声だったが、入口に控えていた従者がすぐ姿勢を正した。
「彼女は私が頼んで、ここへ来てもらっているのです。約束以上の庭を作ってくれた。ここで彼女の働きを知らない者はいません。あなたが困ったからといって、連れ戻せると思わないでください」
クラウス様の唇が動いた。が、結局言葉は出なかった。
彼は客たちの視線を避けるように顔を伏せ、三十枚の値札を持ったまま一人で回廊を去った。追いかける者はいない。私も背中を見送らず、注文を待つ夫人へ向き直った。
その日のうちに、春に用意した苗のほとんどへ行き先が決まった。庭師たちは夕食の席で杯を上げ、モーリスは来年の苗床を今の倍にすると張り切っていた。
客が帰ったあと、私は回廊の深紅の薔薇を見に行った。
テオドール様もついてきた。夕暮れの中、彼は少し緊張した顔で手袋を外した。初めて会った日に自ら土を拾った手に、小さな革の箱が載っている。
「一年待ちました。まだ待てます」
「何をですか」
「あなたが私と同じ家で庭を作りたいと思ってくれる日を」
箱の中には、深紅の石を小さな葉が囲む指輪があった。母の薔薇によく似た色をきっと探してくださったのだろう。
「結婚しても、この庭は私に任せていただけますか」
「もちろん。私は毎晩、あなたを夕食へ連れ戻します」
「それは毎日お忙しくなりますわね」
私が左手を差し出すと、テオドール様はようやく笑った。
◇
翌年、母の株から生まれた深紅の薔薇は花商たちからオデットの薔薇と呼ばれるようになった。
王妹殿下が春の晩餐会へ三百本を注文し、その名を記した花の目録が王都中の屋敷へ配られた。山間の伯母の屋敷にも一冊届いた。
「その名前を私の前で二度と口にしないで」
エステルが目録を閉じても、伯母は翌年の庭へ植えるため六鉢を注文した。春になれば近隣の屋敷にも同じ花が咲く。エステルがかつて欲しがった薔薇は、今度こそ彼女の手が届かない場所でオデットの名と共に増えていった。
同じ春、私はテオドール様と夫婦になった。
薔薇の香りが春の冷たい風に混じっている。あの日切られた枝には、今年もいくつもの蕾がついていた。
来年はもっと咲くだろう。
私が選んだこの庭で、私の名を持つ花として。
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