第1話 婚約解消を告げられたので、母の薔薇と庭師を連れて出ていきます
「オデット。君との婚約を解消したい」
クラウス様がそうおっしゃったのは、伯爵家自慢の春の園遊会が始まって間もない頃だった。
白い卓布の上には薄紅の薔薇が飾られ、楽団の弦が風に乗っている。百人を超える招待客が揃う中、クラウス様は私の隣にエステル様を立たせていた。彼女の胸には、今朝咲いたばかりの深紅の薔薇がある。
伯爵家は王都で薔薇の館と呼ばれている。来月には王妹殿下の晩餐会へ、赤薔薇を三百本納めることも決まっていた。クラウス様は先ほどまで、その栄誉を招待客へ得意げに語っていた。
あれは母が遺した株の最初の一輪だった。
蕾の頃から私が毎朝見ていた花である。咲いたら母の墓前へ供えようと思っていた。今朝、温室へ行くと枝の途中から乱暴に切られ、床には葉が二枚落ちていた。
「やっぱり、この赤が一番似合うわ。お墓へ置いたら、誰にも見てもらえないでしょう? 花だって退屈よ」
エステル様は私が母の墓前へ供えるつもりだったことまで知っている。知らずに受け取った方へ怒りを向けずに済んだことだけは、ありがたかった。
おかげで私も腹が決まった。人の覚悟を助けるには、十分すぎる一輪である。
「婚約解消ですね。実は私も、そのお話をしようと思っておりました」
微笑んで答えると、クラウス様の眉がぴくりと動いた。
もう少し驚く顔を隠していただきたい。こちらを捨てる晴れ舞台として、この園遊会を選んだのでしょう。台詞を返された程度で崩れていては、準備にかけた手間がもったいない。
「無理に笑わなくていい。君が私との結婚を望んでいたことくらい、分かっている」
「ええ。昨日までは、そのつもりでした」
「ほら、やはり傷ついているんだ。だが私にはエステルの方が合う。明るくて、客の扱いも上手だ。君はいつも土ばかり見ているだろう」
「だって、本当に土の匂いがするんですもの。今朝クラウスにお願いしたの。選ぶなら、皆様の前ではっきりしてって」
クラウス様の目が私の手へ落ちた。爪の脇に残った土を、白い手袋でも隠しきれなかったらしい。
今日の夜明け前、南の花壇で根腐れしかけた苗を植え替えた。庭師長のモーリスが一人で抱え込もうとしたので手伝ったのだ。園遊会の時刻までに花を整えようと、皆で泥だらけになった。
クラウス様は、その花壇を一度も見ていない。
「ご忠告、痛み入ります。父からのお手紙も、そろそろ伯爵様へ届く頃ですわ」
「今朝?」
「ええ。母から受け継いだ鉢は、今日中に引き取ります」
クラウス様の顔から勝ち誇った色が消えた。
伯爵家の庭に植わる木や古い薔薇は、そのまま残る。私が持ち帰るのは、婚約後に実家から運び込んだ四十八鉢と、私の小遣いで買い足した苗だけだ。どれも鉢の底にラングレー家の焼き印がある。
「待て。今日、飾っている花はどうする」
「今日飾った分は置いてまいります。夕方までは咲いておりますわ」
「来月には夏の晩餐会がある。秋には収穫祭もあるんだぞ」
「存じております」
クラウス様は、返事の先を待っていた。私は黙って扇を閉じた。
婚約者なら当然手伝う。五年間、そう言われ続けてきた。招待状の返事を数え、卓上の花の高さを決め、遠方から届いた苗の根をほぐした。花の代金を受け取ったことは一度もない。結婚すれば自分の家になる。その思いが、朝露で裾を濡らす私を温室へ向かわせていた。
その結婚が消えるなら、私の手も一緒に引き上げる。たいへん簡単なお話である。
「オデット嬢、薔薇をすべて持っていくおつもり?」
エステル様が胸元を押さえた。深紅の花の茎が短すぎて、襟飾りの隙間から傾いている。
「私の鉢だけです。花壇には百株以上残りますから、ご心配なく」
「それなら困らないわね、クラウス。庭師に世話をさせればよいのでしょう?」
「もちろんだ」
「秋の三十鉢も、色は私が選ぶわ。新しい女主人として、最初のお仕事ですもの」
答えたクラウス様の声は少し高かった。
腕のよい庭師も、日照りや害虫を相手に毎日働いている。どちらも主人の都合を聞いてくれない。そして伯爵家の庭師七人のうち四人は、もともと母の薔薇園で働いていた者たちだ。婚約解消後も私に仕えたいと、昨日すでに申し出てくれた。
「クラウス!」
伯爵様が屋敷から足早に出ていらした。手には今朝、父が送った手紙が握られている。
「来月の晩餐会はどうする。赤薔薇三百本は、お前が王妹殿下へ約束したんだぞ」
「百株もあるんです。庭師だって三人残る。十分でしょう」
そこへ門前から戻ったモーリスが、帽子を胸へ当てて頭を下げた。
「残るのは秋咲きです。来月咲く四十八鉢なら、もうラングレー家の馬車に載っております」
「ほかの苗を植えればいい」
「ひと月では花まで育ちません」
「では、買い集めろ。王都中の花商へ声をかければ三百本くらい揃うだろう」
「無理です。同じ赤を、同じ朝に三百本でしょう。当家が引き受けたので、ほかの店は用意しておりません」
門の向こうで御者の鞭が鳴り、鉢を積んだ三台の馬車が動き始めた。
伯爵様は遠ざかる馬車を見たあと、顔色を失った息子へ手紙を突きつけた。
「花はありませんと、お前が王妹殿下へ申し上げてこい」
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