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RUN!  作者: あみれん
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第一章 逃げろ!

私は出勤のため、最寄り駅へ向かって歩いていた。

東京の春の朝の空気は驚くほど澄んでいた。

夜の冷気をわずかに残した風が頬をかすめ、桜並木の歩道では花びらがゆるやかな渦を描きながら落ちていく。アスファルトに散った花びらが、風に舞い上がってはまた静かに降りてきた。遠くで小鳥の声が重なり、どこかの家の窓からパンを焼く匂いが漂ってくる。


——今日は走ったら気持ちいいだろうな。

自然とそんな考えが頭に浮かんだ。学生時代、長距離ランナーとして毎朝のように河川敷を駆けていた頃の、肺の奥まで風を吸い込む感覚が蘇る。ゴールまでの距離を思い浮かべるだけで足が軽くなったあの頃。

「会社なんて休んで、今からでも走りに行こうか」——冗談のつもりで胸の中に投げかけてみるが、その衝動はすぐに押し込められた。


大通りと交差する大きな交差点に差しかかる。

歩行者用信号は赤だ。

不思議なことに、この交差点ではなぜかいつも赤信号に捕まる。

この大通りを渡れば駅前通りだ。横断歩道の前で信号が青に変わるのを待ちながら、大通りへ視線を向けた。


——ん? 何かおかしい。


車が一台も走っていない。

朝のこの時間なら、駅へ向かう車やバスが列をなし、エンジン音やクラクションが絶えないはずだ。それが今日は、舗装道路の上を風だけが通り過ぎている。信号機の赤い灯が、静まり返った横断歩道の白線を鈍く照らしている。こんなことは初めてだ。まるで時間が止まったみたいだった。


耳を澄ますと、遠くでざわめきのような音がした。風に揺れる木の葉の音とは違う、もっと粗くて重い響き。

音の方向を探る。大通りの西の方角——。

初めは黒い点のようだったそれが、じわじわと大きくなっていく。

うわっ、人影だ。影がうねり、重なり合って塊となり、大通りをこちらに向かって移動している。

近づくにつれて、あのざわめきが人々の声だとわかった。


胸の奥がざわつく。

事故か? 祭りの行列か? 理由を探そうとしても、どれも違う気がする。

嫌な予感が全身を貫いた。

何かとんでもない異常事態が起きている——直感でそう思った。

心臓の鼓動が早まっていく。これは……ヤバそうだ。


スラックスのポケットからスマホを取り出しニュースやSNSを開こうとするが開けない。

電波は問題なさそうだが…

だめだ、開けない。


スマホをしまう間にも影は近づき、やがて老若男女入り混じった大勢の人間の姿になった。皆、必死の形相で何かから逃げているようだ。

集団の先頭が私の前を走り過ぎようとしていた。


「何があったんですか!」

衝動的に最前列に近い男に声をかけたが、男は目も合わせず、荒い息だけを吐きながら通り過ぎた。


やはり何かが起きている。

交差点の歩行者用信号はまだ赤だったが、反射的に足が動いていた。

大通りを東へ進む群衆の流れに押し込まれるように、元ランナーの脚が自然と前へ出ていた。


歩く者は一人もいない。全員が全力で駆け抜けていく。信号待ちしていた人々は、何が起きたのか理解する間もなく、その勢いに押し流されていく。私もその一人だった。


大通りを東へ直進する群衆は、波のように揺れながらも巨大な一つの流れになっていた。肩と肩がぶつかり、腕と腕が擦れ、背中に誰かの手が触れる。足音が絶え間なくアスファルトを叩く振動が足裏から脛、そして胸へと響く。春の空気は朝の穏やかさをすっかり失い、重く粘り気を帯びていた。


「何があったんですか!」

左隣の中年男に叫ぶと、男は首を横に振るだけで、息の間に「知らない…」と絞り出した。

後ろを走っていた学生らしき若者は「西の方で爆発があったらしい!」と叫び、前方の女性は「違う! 何かが追ってくるって!」と声を上げた。

真実は見えない。ただ、皆が必死に逃げていることだけは確かだった。


沿道の店先で、店員が手を止め、呆然と群衆を見送っている。自転車にまたがったまま動けない人もいた。

それでも誰一人として立ち止まらず、大通りを東へ進む。


前方で老人が膝を押さえ、しゃがみ込んだ。

「行け…構うな…」

かすれた声。ほんの一瞬足が止まりそうになったが、背後から押し寄せる足音と熱気に押され、再び走り出す。

背後で誰かが老人を避け損ね、短い叫び声が響いた。


群衆は呼吸と足音だけの巨大な生き物だ。私はその一部になり、ただ脚を機械のように動かし続けた。時計を見ると、もう20分も走っていることに驚く。

元ランナーだったせいか、それとも全身を覆う恐怖心のせいか、疲労を感じない。大学時代に聞いたコーチの言葉が蘇る。——危機的状況では、体がアドレナリンを分泌し、疲労を感じる余裕を奪う。


喉が焼けるように乾く。バックパックのサイドポケットからペットボトルを取り出し、小さく一口だけ飲む。冷たさはもうないが、湿り気が喉に沁みた。すぐにキャップを閉める。先は長そうだ。


隣の中年男が「少し…くれ…」と訴える。私は首を横に振った。言葉は出ない。もう自分はサバイバルモードだ。


前方から悲鳴。若い女性が転倒し、足首を押さえてうずくまっている。「大丈夫ですか!」という声も足音にかき消された。

数人が減速しかけたが、すぐ速度を戻す。私もその一人だった。


——これは私の会社と同じだ。

誰も全貌を知らず、ただ「走れ」と言われるまま動き続ける。止まれば取り残される。それだけだ。

会社に連絡しようとスマホを取り出すが、やはり不通だ。


気づけば、周囲の人数はさらに減っていた。道端に座り込む人々を横目に、視線を逸らす。迷えば命取りだ。


日差しは高くなり、シャツは汗で背中に貼りつく。水はあと数口。

走りながら故郷の家族を思う。父と母は無事だろうか。——集団から脱落した老人の姿が脳裏に浮かび、頭を振って追い払った。


沿道は無人となり、窓や戸口は固く閉ざされている。

学生時代のラスト2キロの苦しさを思い出す。だが、今はゴールも歓声もない。

顎を引き、一定のリズムで呼吸を刻む。もう群衆に合わせてはいない。自分のために走っている。


前方は十人ほど、後方は数人。

「待ってくれ!」「置いていかないでくれ!」という声が背後から飛んできた。

私に向けた言葉だったのか?

でも私は振り返らない。減速すれば、その声を発する側になるだけだ。


前傾姿勢を深め、腕を振り、足を叩きつける。元ランナーのフォームが蘇る。背中を追い抜き、さらに加速する。


何から逃げているかなど、もはや問題ではない。

逃げ切って生き残るために走る。それだけだ。


もう私の前にも後ろにも誰もいない。

春の風が花びらを舞い上げる。

路上には動かない人々が点々と横たわっている。

私の足音と呼吸音だけが残り、大通りの東側のずっと先は白く霞んでいた。

逃げ切れるかもしれない。

私は走り続けた。


もう恐怖心は感じていなかった。


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