鬼哭啾々 3
ただ泣いた。ひとしきり泣いた。彼は母親を腕に抱きしめつつ、涙の枯れ果てるまで泣いていた。ふと、母親の手に目をやった。色白で、触ってみるとカサついている。毎日、洗濯や炊事をしていた母親の手だ。寒いだろうと思い、毛糸のマフラーを編んでくれた手だ。悪い事をした時に自分のお尻を叩いた手だ。褒められた時に自分の頭を撫でてくれた手だ。それは偉大な母親の手だった。その手には銀色に鈍い光を放つ指輪がはめられている。指輪をそっと手からはずすと、内側にLとMの文字が銘記されている。父と母のイニシャルだ。彼は自分の首にかかっていたネックレスをはずし、指輪を通すと、それを首にかけ、胸にしまった。ただ一つの指輪を形見とした。それから彼は母親の顔を見つめた。彼女は安らかな顔をしていた。別れを惜しむように、"マーマ"と呟いた。そうして彼は亡骸を背負い、母親の愛と偉大さを一心に感じつつ山道を登っていった。
断雲無く、月昇り、風が哭く。吐く息は白く、辺りには砂利を踏む音しかない。一歩、また一歩と大地を踏みしめつつ彼は幼い頃を思い出していた。
このなだらかな小さい山に、春になると毎年家族三人でピクニックに来ていた。目にも鮮やかな緑の木々が生い茂り、そこここに麗しく花が咲き、耳をくすぐる小鳥の歌が聴こえてくる。山頂付近には一本の大きな枝垂れ桜の木があり、その下にシートを敷いて昼食を楽しんだ。桜が舞う暖かな日差しに包まれる中、お弁当を開いた。
「おっ! うまそうだな」
「きれいだお」
「いっぱい食べて大きくなるのよ」
「いただきます」
「えらいぞ、よく言えたな」
「はい、アーン」
「犬さんウィンナーおいしいお!」
そんな平凡なことを思い出していた。名も無き日々ではあったが、なによりも幸せであった。そうしていつの日か来た、思い出の場所についた。枝垂れ桜は月明かりに照らされ、寒そうにして枝を揺らしている。
アルフレッドは母であった亡骸を静かに桜の木の下に座らせると、途中で拾った木枝を使い、少し離れた場所に穴を掘った。そこは陽が昇ればいつも光が当たる場所だ。野犬に荒らされないよう、深く穴を掘っていく。木枝が折れると、今度は石を拾って掘り続けた。そうしている間だけ、彼は無心になれた。やがて人ひとり入れる深さまで掘ると、手足の泥を払い、亡骸の傍らに腰をかけた。しばらくそうしていると、夜空が白んできて、ほのぼのと太陽が昇ってきた。
ふと、母親であった亡骸を見やった。その顔は安らかに眠ってるかのようで、朝焼けに照らされた犬耳が金色に輝いている。亡骸を抱え、掘った穴に横たわらせ、手で土をすくい、穴に入れていく。全ての土を入れ終え、穴を埋めた。悲しみもそこに埋めた。
亡骸はやがて大地に帰る。そして桜の花を咲かすだろう。花は散り、また大地に帰る。それが生命の連環で、自然の摂理だ。母の魂は天に帰り、亡骸は自然に帰ったのである。思い出だけが残った。それもいつしか朧気になるだろう。だがそれでも彼が生きている限り、母親は胸中にて共に生きていくに違いない。おもむろに取り出した形見の指輪を、彼は見つめていた。傾きかけた月だけが、彼を見つめていた。




