鬼哭啾々 2
出発して二時間は経っただろうか。道無き道をかき分け、母親を気遣いながら山道の入り口へと進んでいく。多少は結界が残っていたのだろう。集落を中心に燃え盛っていた炎は鎮静化し、黒煙が月明かりに照らされているのが視認できる。
シェイン族特有の嗅覚を頼りに、周囲に細心の注意を払って彼が進んでいく。途中に木のくすぶっている匂いと火薬の匂いが混じり合い、そのために判断に悩んだ。そこで彼は一度足を止め、じっとして風が吹くのを待った。一陣の風が辺りに舞い降りる。風が吹くと匂いは一瞬だけ無くなって、ほんの数秒後に匂いは別々になって現れる。彼はその数秒に全神経を集中させた。幼い頃、父親に褒められたことがあった。父より嗅覚が鋭敏だと。将来、優秀な狩人になれると。ふと、そんなことが思い出された。しかし、いまは思い出に浸ってる場合ではない。自身の油断を振り払い、背負っている母親の様子を窺う。暗がりであまり見えないが、母親は心配かけまいと気丈にも微笑んでいるように見えた。
さらに一時間が経って、ようやく火薬の匂いが消えた。その辺りは山道の入り口付近である。あたりに人がいないか慎重に見渡してみる。そして物影一つ動かないのを確認すると、彼は胸をなで下ろし、ようやく一息ついた。
「母さん、大丈夫かい?」
木陰に母親を座らせつつアルフレッドが言った。
「ええ、大丈夫よ」
そう返事をするも、母親の言葉には力が無い。そんな母を勇気づけようと、熱のこもった声で彼が語りかけた。
「この山を越えた先に大きな集落がある。そこには結界があるから、安心して休むことができる。それにきっと父さんも逃げきって、こっちに向かってると思う。もう少しの辛抱だから頑張ろう、母さん」
そう言う愛児の顔を見ていた母親が、ふいにむせび泣いた。住む場所を焼かれ、一族が引き裂かれ、愛する人と別れ……。しかしいまもなお懸命に生きようと、たくましく育った息子を誇りに思った。
――私の歩んだ道は間違いでは無かった。私は正しく生きた……。ああ、私の人生はなんて素晴らしいんだろう!
母親は自身の内なる神に感謝した。そうして思い残すことは何もなくなったのか、一つ深呼吸をして、静かに瞳を閉じた。自身の命が長くないことを悟ったのである。流す涙もそのままに、母親は愛児の肩に頭を乗せて、こう話しかけた。
「アルフレッド、私の体はもう動きません。ですが私は満足しています。あなたはもう自分の足で立ち、人生を歩んでいけるのですから……。あなたは私の誇りです」
「母さん……」
「アルフレッド、最期に母さんのわがままを聞いてくれる?」
「はい」
「顔をよく見せておくれ」
言われて彼は母親の手を持ち、自身の頬に当てた。
「フフッ……、おまえは若い頃の父さんにそっくりだね」
「うん」
そう返事をすると、彼の瞳からとめどなく涙が溢れた。
「そんなに泣かないの、小さい頃からおまえは泣き虫だね」
「うん」
「ねえ……、おまえが小さかった時みたいに、マーマって呼んでくれるかい?」
「うん」
幼かった日を思い出して、彼が甘えた声で母親を呼んだ。
「マーマ」
「なあに?」
「マーマ」
「はあい」
それから何度もマーマ、マーマと呼びかけていたが、しばらくすると、自身の頬に当てていた母親の手から力が失われ、冷たくなっていく手を握りしめながら、アルフレッドはただただ滂沱していた。




