異変の日
婚約者の様子がおかしい。
そう確信したのは、ティーカップに口をつける彼女の指先が震えているのを見た時だった。
鮮やかなブロンドの髪が仄明るい蝋燭の炎に照らされて光っている。
涼やかな環境音の中で、彼女はいつも通りふわりと上品なドレスを纏って席についていた。しかし無理に背を伸ばした子どものように緊張していて、雰囲気が少々違うことは確かなようだった。
熱病から目を覚ましてから二週間も経っていないから、当然かもしれない。
俺はそう胸中で一旦結論付けた。
一時は婚約者の俺が会うことすらままならない状態だったのだ。
今日は久しぶりの再会だった。こうして再び茶の席を囲むことができたことに感謝するべきだろう。
俺はティーカップを口から離すと、いつも通り彼女に微笑みかけた。
「ヴィヴィアン、紅茶をありがとう。美味しいよ」
彼女はひくりと頬を震わせると、微かに口元を歪めて答えた。
「そう、ですか。リオ様のお口に合ったなら何よりです」
珍しく言葉に詰まっている。顔色が悪い。
俺はカップをソーサラーに置き、彼女の紫色の目を真正面から見つめた。
「体調が悪いのか?」
「いえ、ただ」
彼女はやはり口ごもり、長い睫毛を震わせて、
「婚約破棄してください」
蚊の鳴くような声で告げた。この地下室ではそれがいやに反響して聞こえて、俺は理解が遅れる。
「え?」
聞き返すと、彼女の手は隠すこともできないほど震え始めた。まるで小動物だ。
俺は初めて父から貰った仔馬のことを思い出した。現実逃避だ。
ヴィヴィアンは――俺の婚約者はなおも告げる。
「婚約破棄して、ください」
「何故?」
聞き返す声をかき消すほど環境音が大きくなる。蝋燭の炎が揺れる。
俺はロマンチストだから、それが俺の心みたいだと思った。
痛む胸を押さえていた手を挙げて、
「やれ」
影に潜んでいた護衛に環境音を止めさせる。
護衛は無言のまま命令を実行し、波のような音のあと、地下室は静かになった。
「音を止めてしまってすまない。ヴィヴィアン。どうしてなんだ?」
俺の可哀想な婚約者は顔を真っ青にして震えている。
いつもなら環境音のない会話に文句の一つでも飛ばしてくるはずなのに、これは明らかな異常だった。
俺の所作一つ一つに神経を張り巡らせているらしいヴィヴィアンが精一杯という様子で声を上げる。
「し、死にたくないからです」
「死を恐れる君でもないだろう」
俺が返すと、一瞬、彼女は怯んだようだった。
「わ、わたしが今までしてきたことは分かってます、それでも、これからはそんなことせずに、まっとうに生きて、罪を償いたいんです」
俺には意味が分からなかった。
「ヴィヴィアン、君は十分まっとうだ……」
「まっとうじゃありません、わ、わたしなんか、ただの」
彼女がヒステリックに立ち上がる。ひゅうと息を吸って、
「人殺しじゃありませんか」
決定的な様子で叫んだ。相変わらず俺にはサッパリ意味が分からない。
さっき止めた環境音――人間の悲鳴がないからか、彼女の話は全くもって奇妙に聞こえた。
部屋の隅から血だまりが広がってくる。俺はそれを護衛に掃除させることもなく、答えた。
「人を殺して何が悪い?」
彼女の瞳は絶望に満ちていた。俺は初めて殺した使用人のことを思い出した。
今の彼女はあの使用人に似ていた。弱くて、小さくて、首を締上げるだけで簡単に死にそうだ。
俺もヴィヴィアンも数えきれないほど人を殺している。
それは貴族として生まれたからこそ許されている特権であって、俺たちの共通の趣味だった。
俺にとってヴィヴィアンが唯一の理解者であるように、ヴィヴィアンにとっても俺が唯一の理解者だった。
俺たちは仲良くやってきたはずだった。これからもずっと……
その未来が今日潰えたのだと肌で分かる。
彼女の目に映る俺も、多少は絶望的な様子なのかもしれなかった。それがおかしくて俺は少しだけ笑った。彼女は肩を震わせたようだった。死にかけの小鹿みたいに。
「ああ嫌だ、誰が君を殺人から遠ざけるんだ、ヴィヴィアン」
「わたし自身が考えたことです、リオ様」
婚約者は悲しげに俯く。
「わたし、前世の記憶を思い出したんです」
俺は彼女を見つめる。この地下室に似合うブロンドの髪と深い藤紫色の瞳を永遠に焼き付けるように見つめて、手を挙げた。
「悪魔祓いを呼べ」




