エピローグ 音の遅れる春
春の風は、
少しだけ軽かった。
県立潮見高校の校門をくぐると、
土の匂いと、遠くから聞こえるスパイクの乾いた音が、
少し遅れて胸の奥に落ちてくる。
蓮はその感覚を、まだよく知っていた。
卒業して、大学に入って、
毎日走る場所も、顔を合わせる人間も変わった。
それでも、この匂いだけは身体が先に覚えている。
「来ると思ってた」
後ろから声がした。
振り返ると、遥が立っていた。
大学帰りらしい淡い色のシャツに、
大きめのトートバッグ。
高校のころみたいなジャージ姿じゃないのに、
このグラウンドのそばにいると、なぜか前より近く感じた。
「言ってないのに、なんで」
「言わなくても、来る顔してた」
遥はそう言って笑う。
蓮は否定しなかった。
実際、来るつもりでいた。
大学の競技場は広い。
速いやつも多い。
知らない名前ばかりで、
高校のころよりずっと前だけを見ないと飲まれる。
でも、だからこそ時々、
戻って確認したくなる。
自分がどこから走ってきたのかを。
グラウンドでは、もう練習が始まっていた。
三年になった井坂が、新入生の短距離組を前に腕を組んでいる。
「だから肩から突っ込むなって言ってんだろ」
「二百までで終わる走り方すんな」
相変わらず声が大きい。
相変わらず言い方も荒い。
けれど、その周りにはちゃんと人が集まっていた。
怖がられているのに、
いちばん頼られている人の輪だった。
その横で、倉橋が新一年のフォームを見ている。
一人ずつ直す場所を伝えて、
返ってくる拙い質問にも丁寧に答えていた。
三年になった二人が、
もう完全に“引っ張る側”の顔をしている。
「ちゃんと先輩だね」
遥が言う。
「うるさいだけじゃない」
蓮が返すと、遥が少し笑った。
「うん。うるさいだけじゃなくなった」
トラックの外では、高梨が記録板を持っていた。
三年のマネージャーとして、
もうすっかり部を回す側にいる。
「次、四百の流し入る人、先に並んで」
「鳴海、あとでラップ確認するから」
「はい」
返事をした鳴海の声に、去年より芯がある。
全国決勝で八位で渡した一走。
あの悔しさを、ただの傷で終わらせなかった声だった。
二年になった牧田、白石、篠原も、
すっかり先輩の顔になっていた。
新一年の女子マネ候補にストップウォッチの扱い方を教えながら、
それでも空いた瞬間には井坂へ声を飛ばしている。
「井坂先輩、声こわすぎます!」
「一年引いてますよー!」
「でも今日も顔はかっこいいです!」
「うるせー、バカヤロー!」
その返事に、
一年たちまでつられて笑った。
去年まで“騒ぐ側”だった三人が、
今はちゃんと部の空気を明るくしている。
遥がふと辺りを見回して言う。
「霧島と榊原、ほんとに来なくなったね」
高梨がその声に気付き、記録板から顔を上げた。
「宮坂先輩、来てたんですね」
高梨はそう言ってから、蓮のほうも見た。
一瞬だけ寂しげな目を向けたあと、
気持ちを切り替えるように言う。
「霧島は春に転校しました」
「お父さんの仕事の都合で、関西に」
「……そっか」
「榊原は去年からの怪我の影響もあって、
自分で決めて、区切りをつけました」
「今も連絡はありますけど、部には戻ってないです」
短い説明だった。
でも、それで十分だった。
残る人もいれば、離れる人もいる。
それでも、そのどちらも嘘じゃない。
蓮は少しだけうなずいた。
いなくなった名前を無理に追わないことも、
たぶん続いていく側の礼儀だった。
そのとき、トラックの端で鳴海が新一年の男子を呼び止めた。
「最初から前に出なくていい」
「でも、引くな」
新一年が真剣にうなずく。
その言い方に、蓮は少しだけ目を細めた。
去年、自分が鳴海に言った言葉と似ている。
でも、完全に同じではない。
鳴海の体温で言い直された言葉だった。
「似てきた」
遥が言う。
「何が」
「言い方」
蓮は返さなかった。
返さなくても、
その意味はわかった。
その少しあとで、井坂がようやくこちらに気づく。
一瞬、目が合う。
それから露骨に顔をしかめた。
「なんで来てんすか」
「来たら悪いのか」
「悪くはないですけど」
「見られてると、ちょっとうるせえなって」
「意味わかんねえ」
「張り切ってるじゃん」
倉橋が横から笑う。
井坂が舌打ちする。
その様子を見て、牧田たちがすぐ寄ってきた。
「朝倉先輩だ!」
「遥先輩も来てたんですね」
「うわ、なんか急に本物感すごい」
「何の本物だよ」
蓮が低く返すと、白石が笑う。
「全国一位の本物です」
篠原が続ける。
「あと、遥先輩と並ぶとなんか、こう……」
「絵になる感じの本物です」
「おまえ、余計なこと言うな」
牧田がすぐに篠原の肩をつつく。
「そういうの本人たちの前で言うやつ?」
「え、でも事実」
遥が少しだけ困ったように笑って、
視線を落とした。
蓮は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ耳が赤くなったのを、
高梨はちゃんと見ていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。
もう何度も整理したはずの痛みだった。
南関の夜に振られて、
全国のあとで遥の背中を押して、
それでもまだ、完全にゼロにはなっていない。
でも、その痛みは前よりずっと静かだった。
たぶん、自分で選んだ痛みだからだ。
高梨は記録板を閉じながら、
二人を見て少しだけ笑う。
「宮坂先輩」
「ん?」
「今度は遅れないでくださいね」
遥が顔を上げる。
一瞬だけ意味を測るみたいな間があって、
それから頬を少し赤くした。
「……高梨」
「私、背中押すの二回目はしませんから」
軽い言い方だった。
でも、やさしかった。
遥は何も返せずに、
少しだけ困ったみたいに笑った。
蓮はそのやりとりを横で聞いていて、
高梨のほうを見る。
「ありがと」
高梨は少しだけ肩をすくめる。
「そういうの、ずるいです」
「ほんとに」
それでも笑っていた。
泣かずに言えるくらいには、
もう前へ進んでいる。
しばらくして練習が一区切りつく。
新一年が給水に走り、
三年がメニュー確認をして、
二年のマネたちが片付けに散る。
そのざわつきから少し離れて、
蓮と遥はスタンドの下のベンチに座った。
トラックがよく見える位置だった。
「大学、どう」
遥が聞く。
「速いやつ多い」
「それはそう」
「あと、西野がうるさい」
遥が吹き出した。
「一緒の大学なんだ」
「学部は違う」
「でも、しょっちゅう連絡来る」
ちょうどそのタイミングで、
蓮のスマホが震えた。
画面には西野の名前。
『今からそっち行く。
朝倉くん、勝手に帰らないでよ。』
遥がのぞきこんで笑う。
「ほんとにうるさい」
「だろ」
西野は昔のまま
卒業しても同じ温度で絡んでくる。
それが少しだけ、
懐かしい記憶を残していた。
風が吹く。
遠くでバトンの落ちる音がして、
少し遅れて耳に届く。
遥がその音のほうを見たあと、
小さく言った。
「ねえ、蓮」
「ん」
「高校の最後の日のこと、まだ思い出す?」
蓮は前を見たまま、少しだけ間を置く。
「思い出す」
「どんなふうに」
「遅れて来る」
遥が顔を向ける。
蓮は続けた。
「歓声も」
「勝ったのも」
「倒れたのも」
「あとから何回も来る」
遥は少しだけ息を詰めた。
それはたぶん、
ただの思い出話じゃなかった。
終わったはずのものが、
まだ身体の中に残っているという告白だった。
「私も」
遥が言う。
「まだ思い出す」
「でも、前みたいに苦しくない」
「うん」
「たぶん、もう次に進んでるから」
そこで二人の間に、
短い沈黙が落ちた。
昔なら、そのまま終わっていた。
でも今は、少し違う。
蓮は視線をトラックに戻したまま言う。
「……また来るだろ」
確認みたいな声だった。
遥は一瞬だけ目を丸くする。
「うん」
「一人で来るな」
遥が息を止める。
蓮は相変わらず、
前を見たままだった。
「俺も来るから」
その一言だけで、
遥の胸の奥が熱くなる。
はっきり好きとは言わない。
でも、何もないふりも、もうしない。
そういう言い方だった。
遥は少しだけ泣きそうな顔で笑う。
「……うん」
その返事のあと、
二人の手がベンチの上で少しだけ近づく。
触れてはいない。
けれど、あと少しで触れる距離だった。
下のトラックでは、
井坂の怒鳴り声がまた上がる。
倉橋がなだめ、
鳴海が新一年を集め、
高梨が時間を読み上げ、
小宮山が静かに水を置き、
牧田たちが笑っている。
新しい春だった。
自分たちの夏は終わった。
でも、その終わりは、
全部を閉じるためのものじゃなかった。
渡すために終わって、
その先で、また別の何かが始まる。
たぶん恋も、
そういうものなんだと思う。
急に始まるんじゃなくて、
ずっと前からあった熱が、
少し遅れて追いついてくる。
「帰るか」
蓮が立ち上がる。
遥も続いて立つ。
「うん」
二人で校門のほうへ歩き出す。
背後では、新一年たちの返事がまだ響いていた。
誰かが走り出す音。
誰かが笑う声。
遠くでまた、バトンの鳴る音。
それら全部が少し遅れて、
春の風に乗って追いかけてくる。
その音を聞きながら、
遥はほんの少しだけ、蓮の袖に触れた。
ほんの一瞬だけ。
でも、蓮は振り払わなかった。
むしろ、そのまま歩幅をゆるめた。
終わったんじゃない。
きっと、ここからも続いていく。
名前を変えて。
形を変えて。
でも、同じ熱のままで。
県立潮見高校の春は、
今年もまた、静かに走り始めていた。




