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第90話 帰る場所

白い天井だった。


先に目を開けたのは井坂だった。


病院のベッドの上で、


しばらく何がどこまで現実なのかわからない。


腕に点滴。


喉の奥の乾き。


身体の芯に残る重さ。


そして、隣のベッド。


カーテンは半分だけ開いている。


そこに蓮がいた。


眠っている。


でも、いる。


井坂はそれを見た瞬間、


胸の奥に詰まっていたものが少しだけ落ちた。


「……先輩」


掠れた声だった。


少しして、


蓮の指先がわずかに動く。


まぶたが開く。


焦点が合うまで、少し時間がかかる。


それから、井坂を見る。


「起きたか」


「そっちこそ」


蓮は小さく息を吐いた。


「勝ちましたか」


井坂が言う。


聞くまでもない。


でも、聞かなきゃいけなかった。


蓮は少し黙ってから、答えた。


「勝った」


その言葉だけで、


井坂の目の奥が熱くなる。


笑おうとして、失敗する。


「よかった……」


蓮はしばらく天井を見ていた。


それから、低い声で言う。


「おまえが四位まで持ってきたからだ」


井坂が首を振る。


「最後、行ったのは先輩っす」


「違う」


蓮はそこで初めて、井坂のほうをちゃんと見た。


「おまえが倒れるまで前を残したから、俺は一番前まで行けた」


井坂は何も返せなかった。


喉の奥が詰まる。


蓮は続ける。


「おまえが落ちた場所、負けた場所じゃない」


「俺が一位で回収した」


その一言で、


井坂の目から涙が落ちた。


止められなかった。


「……ずりいっすよ、先輩」


「何が」


「そういうとこっす」


蓮は少しだけ笑った。


それは勝ったあとの顔というより、


ようやく戻ってきた顔だった。


病室のドアが開く。


西野が最初に入ってくる。


「起きてますか」


その後ろに、倉橋。


遥。


高梨。


小宮山。


そして一年マネ三人。


牧田は入った瞬間に泣いた。


「井坂先輩~っ!」


白石も泣く。


「朝倉先輩まで倒れるとかやめてくださいよぉ!」


篠原はしゃくりあげながら言う。


「でも勝ったぁ……」


「うるせえな、おまえら」


井坂が言うと、


三人とも逆に泣き笑いになった。


遥はベッドの横まで来て、


蓮の顔を見た。


「戻ってきた」


「ん」


「よかった」


それだけだった。


でも、その言葉に、


昨日まで言えなかった全部が入っていた。


高梨は少し後ろで笑っていた。


少しだけ寂しい。


でも、ちゃんと嬉しい顔だった。


数日後、


いつもの県立潮見高校に戻る。


グラウンドは、いつもと同じ形をしていた。


土の匂い。


白線。


部室の扉。


見慣れた景色。


でも、同じではなかった。


全国優勝の横断幕が、


部室の前にかかっている。


一年たちが騒ぎ、


西野が困った顔で笑い、


倉橋が静かにそれを見ている。


井坂は女子マネ三人にまた囲まれていた。


「井坂先輩、全国一の倒れ方でした」


「褒めてねえだろ、それ」


「でも全国一かっこよかったです!」


「だから今いらねえって」


「照れてるー」


「照れてねえ、バカヤロー」


そのやり取りに、


部の空気がやっといつもの形に戻る。


夕方、


人が少なくなったグラウンドで、


蓮は一人トラックを見ていた。


そこへ遥が来る。


隣に立つ。


しばらく二人とも何も言わない。


風だけがある。


遥が先に口を開いた。


「終わったね」


「うん」


「でも、なくなるわけじゃないね」


蓮は少し考えてから言う。


「たぶん」


それから、少しだけ間を置いて続ける。


「遅れてくるんだと思う」


遥が顔を上げる。


蓮は前を見たまま言う。


「歓声も」


「悔しかったのも」


「勝ったのも」


「たぶん、あとから何回も来る」


遥は小さく笑った。


「そうだね」


その少し離れたところで、西野が部員を呼ぶ。


「最後、集まってください」


全員がトラック脇に集まる。


西野が言う。


「全国一位になりました」


「でも、ここで終わりじゃないです」


一年たちが顔を上げる。


鳴海もいる。


真っ先にこの先を背負う側として。


「速さは残ります」


「人が変わっても、ちゃんと残る」


「だから次も、つないでいきましょう」


西野の言葉のあと、


小宮山が静かに拍手した。


高梨も続く。


遥も。


一年たちも。


最後に、蓮が一歩前へ出る。


「勝ったのは、四人だけじゃない」


全員の目が向く。


「見てたやつも」


「叫んでたやつも」


「支えてたやつも」


「全員で取った」


短い言葉だった。


でも、それで十分だった。


沈黙のあと、


拍手がまた起きる。


今度はさっきより大きかった。


夕日がトラックを赤く染める。


鳴海が、部室に戻る前に一度だけスタート地点を見る。


倉橋がその隣で笑う。


井坂は一年マネ三人にまだ絡まれている。


西野が呆れながら笑っている。


遥は少しだけ前に立つ蓮の背中を見ている。


その景色の全部が、


たぶんこの先も消えない。


音が消えたあの瞬間より、


ずっと長く残る。


最後に風が吹いた。


誰かの持っていたバトンが、


小さく鳴った。


今度は、ちゃんとはっきり聞こえた。


その音を聞きながら、


県立潮見高校陸上部の夏は、


静かに、でも確かに、


次の季節へつながっていった。

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