第74話 去年を越えるための一本
全国大会の空気は、南関より薄かった。
広い競技場。
高いスタンド。
でも、いちばん違うのは、
そこにいる全員が“速い側”だということだった。
個人四百の一本目は、朝だった。
詳しい勝ち上がりを確認するまでもなく、
ここはまず落ちないこと。
でも、落ちないだけで終わるつもりもなかった。
去年の蓮は、全国で準決勝を越えられなかった。
今年は違う。
そこを越えるために来ていた。
招集所の前で、西野が言う。
「一本目から固いですね」
「全国だし」
「朝倉くんでも、そういう顔するんだ」
「うるさい」
西野は少し笑った。
「でも、その顔のほうがいいです」
遥が横から言う。
「一本目は、無理に入らなくていいから」
「わかってる」
「ちゃんと戻ってきて」
蓮はそれ以上は返さず、
そのままコールルームへ向かった。
一本目は、危なげなく通した。
速すぎず、遅すぎず。
周囲に呑まれないまま、
最後の直線で必要なぶんだけ脚を出す。
観客席のざわめきが少しだけ大きくなったところで、
蓮はラインを抜けた。
高梨がタイムを見て、息を吐く。
「通りました」
一年マネの牧田が跳ねる。
「やったー!」
白石も続く。
「朝倉先輩、全然顔変わってなかったです!」
篠原が笑う。
「むしろ余裕ありそうでした」
蓮はタオルを受け取って、短く言う。
「まだ一本目」
その声に浮きはない。
だからこそ、全員も自然と次を見る。
準決勝は、午後だった。
去年、越えられなかった壁。
そこに今年もう一度立つ。
コールルームの空気が、
一本目より重い。
みんなここを越えるために来ている顔をしていた。
スタート地点へ出る。
白い光。
拍手。
名前の呼び上げ。
「On your marks.」
前へ。
「Set.」
腰を上げる。
鳴らない銃声を待つ時間が、
一本目より長い。
破裂音。
飛び出す。
前半は引っ張られない。
二百までは耐える。
外の速さに合わせて脚を使えば、
ここでは最後に沈む。
二百を過ぎて、少しずつ前の背中が近づく。
三百。
そこで一段だけ、蓮はギアを上げた。
脚の回転が変わる。
視界が前へ抜ける。
直線。
先にいた選手の肩を一人かわす。
もう一人に並ぶ。
最後の五十で、客席の熱が少しだけ上がった。
その声を背中で聞きながら、
蓮はゴールへ体を運ぶ。
抜けた。
去年、越えられなかった準決勝を、
今年は越えた。
戻ってきた蓮に、高梨がタオルを差し出す。
「お疲れさまです」
「ありがと」
遥が少しだけ息をついて言う。
「越えたね」
「うん」
その一言だけが、
妙に深く残った。




