第73話 南関の夜
南関東大会が終わった夜だった。
照明の落ちた競技場の外は、
昼の熱だけが、まだアスファルトに薄く残っていた。
蓮は自販機の前で水を買って、
キャップを開けたところで足音を聞いた。
振り返る前にわかる。
高梨だった。
「……お疲れさまです」
「おつかれ」
高梨は記録用のファイルを胸の前で抱えたまま、
少しだけ笑った。
けれど、その笑いは長く持たなかった。
「朝倉先輩」
呼ばれて、蓮は目を上げる。
高梨は逃げなかった。
「今日、ちゃんと見てて、思いました」
「やっぱり、言わないままだと嫌だなって」
風が吹く。
競技場の壁に当たった音が、
少し遅れて戻ってきた。
「好きです」
短かった。
でも、ごまかさなかった。
蓮はすぐには返さなかった。
雑に返したくなかった。
高梨に対しても。
自分に対しても。
「……悪い」
高梨の指先が、ファイルの角を少し強くつまむ。
「高梨には助けられてる」
「はい」
「ほんとに助けられてる」
そこまでは何の迷いもなく言えた。
でも、その先も本当のことを言わなければいけない。
「でも、そういうふうには返せない」
高梨は少しだけ目を伏せた。
泣かないようにしているのがわかった。
「……そうですか」
「悪い」
「謝らないでください」
言ってから、高梨は一度だけ息を詰めた。
それでもちゃんと顔を上げる。
「ひとつだけ、聞いていいですか」
蓮は黙ってうなずいた。
「誰か、いるんですか」
蓮は少しだけ答えに詰まった。
はっきり名前にできるほど、
まだ前に進んでいるわけじゃない。
でも、何もないと言うには、
たぶんもう遅かった。
視線を落として、短く言う。
「……たぶん」
その一言で、高梨はほとんどわかったみたいだった。
苦しそうに笑う。
「そっか」
今度の笑いは、ちゃんと笑顔の形をしていた。
少しだけ痛そうだったけれど。
「じゃあ、マネージャーは続けます」
「そこは、勝手にやりますから」
「助かる」
「そういうとこ、ずるいです」
高梨はそう言って背を向けた。
数歩進んでから止まる。
「全国、勝ってください」
振り返らないまま、それだけ言って歩き出した。
蓮はその背中をしばらく見ていた。
その少し離れた柱の影で、
遥は息を止めたまま立っていた。
聞くつもりじゃなかった。
でも、聞こえてしまった。
高梨の声も。
蓮の返事も。
その、少しだけ詰まった沈黙も。
“たぶん”
そのひとことだけで、胸の奥が痛んだ。
自分のことかもしれないと思ってしまったから。
違うかもしれないとも思ってしまったから。
どちらでも、苦しかった。
遥はそのまま建物の角を曲がった。
誰にも見えないところまで歩いて、
ようやくしゃがみこむ。
声は出さなかった。
出したら壊れる気がした。
ただ、静かに涙だけが落ちた。
翌朝、何もなかったみたいに、
遥はいつもの顔で蓮の前に立った。
「集合、七時半」
「遅れないで」
「わかってる」
それだけだった。
けれど、いつもより少しだけやわらかい声だったことに、
蓮は気づいていた。
全国へ向かうバスのなかで、西野が前の座席から振り返る。
「行きますよ」
井坂が肩を鳴らす。
「去年とは違う形で、っすね」
蓮は窓の外を見たまま言う。
「勝ちに行く」
短い一言だけで、
車内の温度が少し上がった。




