第58話 戻るための合図
南関東大会二日目の朝、サブトラの空気は前日よりさらに張っていた。
四百決勝と4×400mリレー決勝。
どちらも全国へつながる一本だ。
同じ日にその二つを抱えることの重さを、蓮はアップシューズの底からじわじわ感じていた。
瀬川はサブトラ脇の通路で、蓮にだけ短く確認を入れた。
「朝倉くん。今日の戻り方、覚えてますか」
「無音のあとに、後ろから来る音を拾う」
「それが一つ。もう一つ」
「……渡したあと、手を握らない」
「そうです」
深く入った直後は、身体がまだ“向こう”に残っている。
そこで手を握ると、現実とのズレが大きくなる。
だからバトンを放したあとは手を開いたまま、呼吸をひとつ入れる。
県のあと、ようやく掴んだ反動の減らし方だった。
「本当にそれで変わるんですか」
蓮が聞く。
瀬川は少し考えてから答える。
「変わるかどうかじゃなくて、戻る道があると身体が知ることが大事です」
「曖昧ですね」
「現象そのものが曖昧なので」
真壁が割って入る。
「要するに、帰ってこられなくなるなって話だろ」
「雑ですが、だいたい合ってます」
その雑さが助かる時もある。
蓮は少し息を吐いた。
四百決勝の招集が近づく。
スタートリストを見れば、どの名前も強い。
黒瀬はいる。
初めて見る他県の一位通過者もいる。
全国へ行ける枠は少ない。
半歩で季節が終わる。
倉橋は観客席の最前列で、手すりを握っていた。
自分がいま見ているのは、走れない人間の視界だ。
それが悔しい。
でも、見ている側にしか見えない硬さもある。
蓮の肩は昨日よりわずかに硬い。
真壁はアップの時点でもう戦っている。
井坂は落ち着かないふりをして、何度もバトンを触っている。
高梨は補給を並べる手元だけを速くしていた。
遥はそれを見ても、今日は何も言わなかった。
誰も、自分の感情を前に出す日じゃない。
全部レースの下に沈める日だった。
真壁が蓮の隣に立つ。
「個人とマイル、どっち先に頭入れてる」
「四百です」
「よし」
「真壁先輩は」
「俺が最初に持ってくる。あとはお前が何とかする」
「雑すぎません?」
「信じてるだけだ」
そう言って真壁は先に招集所へ向かった。
蓮はひとり残って、両手を開いた。
握らない。
深く入っても、戻る。
そして四百では、まだ使わない。
その線引きが崩れたら、最後の4×400mリレーまでもたない。
四百決勝を前にして考えることじゃない。
でも今の蓮には、それももうエースの仕事の一部だった。




