第33話 最後の直線
神崎の四百メートルハードル決勝は、夕方の少し手前に行われた。
一日の熱がまだトラックに残っていて、空気の縁だけが少し乾いてきている。
残っている種目が少なくなるほど、スタンドの視線は濃くなる。
見ている側も、何本もあるうちの一本としてではなく、“今日ここで決まる一本”として見始めるからだ。
神崎はいつも通りだった。
少なくとも外からは、そう見えた。
アップの足運びも、大きな伸びもなく、必要な動きだけで身体を起こしていく。
相沢がその様子を見て言う。
「三年の最後っぽい顔、まるでしてねえな」
真壁が答える。
「神崎先輩、そういうの出さないですし」
遥が小さく言った。
「出してる場合じゃないって分かってるんだと思います」
西野が続ける。
「でも、終わったあとに来そうです」
誰も否定しなかった。
レースが始まる。
一台目。
二台目。
三台目。
神崎は前に出すぎない。
だが置かれもしない。
外のレーンに速い選手がいる。
向こう正面でもう一人前へ伸びる。
神崎はその少し後ろ、自分のリズムを崩さずに食らいついている。
四台目、五台目。
足数がぶれない。
六位争いの圏内にいる。
蓮は息を止めるように見ていた。
六位まで。
そこが全国。
一本の線が、ハードル一台ごとに近づいたり遠のいたりする。
七台目。
八台目。
神崎の肩が、初めてほんの少しだけ上がる。
小さい。
けれど、見ている側には十分だった。
苦しい、と分かってしまう程度には小さくない乱れだった。
九台目を越える。
六位の選手との差が、まだ半歩ある。
「行け……」
誰が呟いたのか分からない。
たぶん全員だった。
最後の十台目。
神崎が踏み切る。
越える。
着地。
直線へ。
腕が振れる。
身体が前へ出る。
差が縮まる。
縮まる。
でも、並び切らない。
ゴール。
神崎は流れたあと、すぐには掲示板を見なかった。
一度だけ呼吸を整え、それから顔を上げる。
表示が切り替わる。
七位。
六位との差、〇・〇三秒。
近すぎた。
近すぎるからこそ、誰も簡単には声をかけられない。
惜しかった、では軽い。
届かなかった、だけでも軽い。
三年の最後の個人戦が、たったそれだけの差で切られた。
神崎はしばらく掲示を見ていた。
怒ってはいない。
泣きそうでもない。
ただ、長く積んできたものが一本の線で区切られた顔をしていた。
戻ってきた神崎に、西野がドリンクを差し出す。
「神崎先輩、お疲れさまです」
「ありがとう」
蓮は少し迷ってから言った。
「……すみません、何て言えばいいか」
神崎は小さく首を振る。
「言わなくていい」
「はい」
「見たなら、それでいい」
「……はい」
「近かっただろ」
「めちゃくちゃ」
「そうだな」
そこで神崎は、ほんの少しだけ笑った。
苦い笑いだった。
「届かない場所って、もっと遠いと思ってた」
相沢が返す。
「近く見えるほうがきつい」
「ああ」
「でも、近く見えたなら、次は狙える」
「次、か」
その言葉の重さを、神崎自身が一番知っている。
けれど否定はしなかった。
代わりに、神崎はマイルの方を見る。
「お前らがある」
真壁が息を呑む。
瀬川が背筋を伸ばす。
蓮は無意識に拳を握った。
「個人は終わった。でも、まだ一本ある」
神崎の声は静かだった。
「だから、終わらせるな」
「はい」
「お前らの四百で、俺の今日を無駄にするな」
「……はい!」
返事が重なる。
神崎の七位は、そこで終わらなかった。
悔しさごと、四人の方へ渡された。




