22 火種
千葉県八街市――そこに本部を置く極刀会は、数ヶ月前から黒楓会との間で小競り合いを繰り返していた。
新型覚醒剤。その利権を巡る水面下の火花は、いつか火事になると誰もが分かっていた。
そしてその火が、とうとう燃え広がった。
発端は、裏仲介人“トイレの花子さん”の失踪だった。
当然、流通は止まる。
市場の在庫は、せいぜい一週間。すでに底を尽き始めている。
供給を断たれた極刀会の幹部は、確たる証拠こそないものの、それが黒楓会の仕業だと決めつけた。
だが実際、その通りだった。トイレの花子さんは、すでに黒楓会の手で“処理”されている。
さらに言えば、製造元である前田拓也も、“娘の治療”という名目で、とある病院に“保護”されていた。
そして――土曜の夜。
八街市と隣接する四街道市の裏通りで、黒楓会の若衆と極刀会の人間が、ついに激突した。
黒楓会本部に届いた報告は、あまりにも衝撃的だった。
四街道市拠点――若中1名、若衆12名。
いずれも戦闘不能の重傷。
証言によれば、敵は極刀会の者。
しかも、“たった一人”。
翌日の日曜日。
「……」
報告書に目を落とした楓は、深く沈黙に沈んだ。
仮にも、黒楓会の若衆たちは鬼塚と佐竹の訓練を受けている。
戦闘力だけなら、そこらのチンピラとは桁違いのはずだ。
それに、若中には拳銃が配備されていて、必要とあれば発砲も許されていた。
それでも、やられた。
しかも、相手の武器は木刀一本だけだった。
楓はゆっくりと視線を上げた。
「……どういうことだ、これは」
その場にいた誰一人として、口を開くことができなかった。
「佐竹」
「も、申し訳ございやせん」
「謝りはいい。で、そいつはどんなやつだ?」
「……極刀会には刀の使い手が多いですが、それらしい人物はまだ割り出せておりやせん」
また情報か、早く手を打たなければ。
現在、黒楓会の構成員は総勢六十二名。
本部を除き、活動拠点は三つに分かれている。
まず、千葉市を中心に構える船橋拠点。
東京方面の勢力との“シマ”の境界を維持するための重要な前線で、若中二人、若衆二十人が配置されている。
次に、北方の四街道市拠点。
主に八街市方面からの勢力に備える防衛線で、若中一人、若衆十二人を配している。
そして、南方の市原市拠点。
千葉県南部の拡張を担うこの地には、若中一人、若衆十人が駐留。
三拠点は黒楓会本部を中心に、それぞれ北・南・西の方角に展開され、
いずれかの異変にも即座に対応できる体制を築いていた。
しかし、その一角が、ついに崩された。
極刀会を、ただの地元勢力と侮っていた。まさか、これほどの戦力を持っているとは。
情報がはっきりしない以上、軽率な行動は取れない。
組織の資金や運営、事務全般を担う佐竹を、軽々しく動かすわけにはいかない。
黒楓会きっての猛者――本部の守りを任され、いざとなれば各拠点へ駆けつける鬼塚も、長期間の出張は避けたい。
となれば――。
「矢崎」
「はい!」
「しばらくの間、四街道拠点を任せる。それと、敵の情報も可能な限り割り出せ」
「了解しました!」
「鬼塚」
「はい」
「いつでも動けるよう、スタンバイしておけ。
特に四街道の動きは、常に矢崎と連絡を取り合って確認しろ」
いつの間にか、楓は人に指示を出すことに慣れていた。
部下を、まるで自分の手足のように動かすことができる――今やそれは、ごく自然な感覚になっていた。
同時に、対処しなければならない事件やトラブルも山積みとなり、楓は“トップに立つ者の苦労”というものも、嫌でも覚えつつあった。
月曜日。
教室ではすでにHRが始まっていたが、山田の席は空いたままだった。
病欠でもしたのか。
そんな思いがよぎる中、担任の教師がプリントを手に、何気なく口を開いた。
「えー……山田くんですが、入院することになりました。しばらく学校はお休みになります」
「……!!」
教室内にざわめきが走る。
「入院? おい、何があったんだよ」
「知らねぇよ、俺だって今知った」
「……金曜の夜、団地近くの公園で、誰か救急車に運ばれたって話あったろ? まさか……」
楓の中に、ざらりとした不安が広がる。
また何かが動いた。次から次へと……世の中というのは、本当に思惑通りにはいかない。
HR中、教師の声も無視して、楓は静かに立ち上がり、教室を出た。
「おい、玄野! どこ行くんだよ?」
「おっ、玄野が動いてくれるのか?」
ざわめくクラスの声も気にせず、楓はまっすぐ校門の方へと歩いていく。
ポケットから携帯を取り出した。
「俺だ。調べてほしいことがある」
千葉東病院、入院棟のとある一室。
「失礼します」
軽くノックをして、楓は静かに病室に入った。
「……玄野?! いってぇっ……!」
ベッドに横たわっていた山田は、楓の姿を見るなり驚いた顔で体を起こそうとしたが、傷口に響いたのか、そのまま顔をしかめて倒れ込んだ。
「……ほんとにもう、じっとしてなさいって言ったでしょ。どれだけ心配したと思ってるの……」
主婦らしき女性は、山田の肩を支えながら、小言ともつかぬ言葉を静かに重ねた。
怒っているというより、心から心配している声だった。
「……ごめんって、母さん。ちょっとビックリしただけで……」
山田が照れくさそうに頭をかくと、ようやく女性も落ち着きを取り戻したようだった。
そのタイミングを見計らって、楓が一歩前に出る。
「はじめまして。山田くんのクラスメイトの玄野楓です」
礼儀正しく頭を下げながら、持ってきたフルーツの盛り合わせを机の上にそっと置く。
「あら……まあ、ご丁寧に。ごめんなさいね、こんなところまで……本当にありがとうございます」
女性は少し驚いたように笑い、深く頭を下げた。
「お身体、大丈夫ですか?」
楓が穏やかに声をかけると、山田は照れ笑いを浮かべて頷く。
「まあ、見ての通り。多少は痛ぇけど、命には別状なしってさ。打撲と骨折で、しばらくリハビリって感じ」
「それならよかった」
短くそう言って、楓は山田をじっと見つめる。
――その視線の意味を、山田はすぐに察した。
「……あ、母さんさ、悪いんだけど――売店で買ってきてほしい物があってさ」
「え?」
「ジュース。いつもの、ゼリーっぽいやつ。あと、雑誌も……さっき頼もうと思って忘れてた」
母親は少し不思議そうな顔をしながらも、うなずいた。
「はいはい。じゃあ、ちょっと行ってくるけど――無理しないで、いい?」
「してないって」
母親が病室を出て扉が閉まると、山田はようやく苦笑交じりに息を吐いた。
「……さて、本題に入ろうか」
楓は椅子に腰を下ろし、ただ静かにうなずいた。
「学校をサボって、それを聞きに来たのか」
山田は苦笑した。
「白川、か」
「ああ。……やっぱ玄野の目にはごまかせねぇな」
そう言うと、山田は視線を天井に向けたまま、金曜の夜に起きたことを淡々と話し始めた。
生徒会に囲まれたこと。白川がにこやかに脅してきたこと。そして、抵抗した結果――何も言わずに、徹底的に痛めつけられたこと。
楓は最後まで黙って聞いていた。
そして、不意に口を開いた。
「……すまない」
山田は、やや驚いたように楓を見る。
「謝るなよ。俺が勝手にやったことだ。……唯一、悔しいのは、自分の弱さだ」
楓は何も言わず、小さな封筒を机の上に置いた。
淡い柄の封筒――見舞いとしては、少しだけ中身が分厚い。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「あんたは強い。入学日の時もそうだった。勝てなくても受けて立つ、そういうところ、嫌いじゃないよ」
「あんたにそう言われてもな。気恥ずかしいだけだっての」
楓は小さく笑って、背を向けた。
「ゆっくり休んどきな。後は、俺が引き受ける」
これから起きる事態は、楓の読み通りだった。
いや、むしろ外れていてほしいとすら思っていた。
白川たちは、楓自身ではなく、楓の周囲を狙って動いていた。
一年生の中でも特に楓と関係が深い者たちが、登下校時に「軽く締め付け」を受けていた。
山田のときとは違い、殴られたわけでもなく、脅迫されたわけでもない。
だから、騒ぎにはならなかった。警察も動かない。
だが、それで十分だった。
明らかに、周囲の空気が変わっていた。
普段なら楓の近くにいたはずの生徒たちが、どこか気まずそうに距離を取り始めている。
人為的な孤立。
地味で、小賢しい。だが、効果は確かだ。
精神的に追い詰めるには、手間もリスクも少なく、実に合理的なやり方だ。
もちろん、対処法は分かっている。
白川たちを潰せばいい。それだけのこと。
だが今、奴らは“あえて楓を避けるように”動いている。
まるで、楓を怒らせたいのではなく、無力感を植えつけたいかのように。
現に、黒楓会は、極刀会との対峙で人員不足に陥っていた。
大規模な調査も包囲も行えない。
探し出すにも、人手が足りないのだ。
そもそも、楓にとって、学生同士の喧嘩など、黒楓会を動かすほどの価値はない。
一方、四街道拠点――
平日は小競り合いこそあったものの、あの“木刀使い”の姿は確認されていない。
日常と裏社会。
学校と街。
二正面の戦いに、じわじわと、二方面から圧力をかけてくる。さすがの楓もわずかに疲れを感じていた。
そして――また土曜の夜。
楓と鬼塚は、四街道拠点に姿を現した。
「楓さん、大地さん……どうしたんですか?」
矢崎がすぐに駆け寄り、驚いたように問いかける。
「うちの会長はな、今夜……“木刀使い”が来るって言ってんだよ」
「えっ!? 本当ですか?」
「あくまで可能性だ。」
「楓さんがそう言うなら、準備しないとですね……!」
矢崎が気を引き締め、背筋を正す。
そんな中、鬼塚が拳を鳴らしながら、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ……俺もちっと、そいつと手合わせしてみてぇな」
四街道駅前の裏通り。
チンピラやヤクザが頻繁に出入りするこの一帯は、夜ともなれば通行人の姿もほとんどなくなる。
今やそこは、裏社会の者たちが集う“社交場”と化していた。
黒楓会の若衆たちは、二人一組で定期的にその通りを巡回する。
目的は二つ。
一つは地元の裏社会の動向を探ること。
もう一つは麻薬の密売。
だが今夜は違う。彼らはただ、囮としてそこにいた。30分おきに交代で通りを回し続け、すでに3時間が経過している。
それでも、極刀会の姿は一度も確認されていなかった。
拠点で待機していた楓たちの間に、徐々に焦りと疑念が広がる。
そのとき、矢崎の携帯が突然鳴り響いた。
「矢崎さん!来たっす! あ、ああーーっ……!」
通話の向こうで叫びが上がり、次の瞬間、ピーッという切断音だけが残った。
「よし……来たか。予定通り、周囲で待機してる鬼塚たちに連絡を」
「了解っ!」
「俺たちも行くぞ」
裏通りに最速で駆けつけた楓たちの目の前には、倒れた黒楓会の若衆たちが四人。そして、その中心で激しくぶつかり合うふたりの男がいた。
ひとりは、黒楓会きっての猛者――鬼塚大地。
もうひとりは、木刀使い。鬼塚と互角に渡り合う実力者だった。
「オラオラオラッ!」
鬼塚が怒号を上げて拳を振るう。
対する木刀使いは終始無言。その静けさが逆に不気味さを際立たせていた。
「……!」
木刀が鬼塚の拳を正確に弾く。
木製でありながら、鬼塚の突進をいなす力と技。常人ではない。
「どうした、その程度か?」
視界が暗く、顔までは判別できない。
だが、身長は鬼塚よりも一回り小さい。体格差をものともしない剣技だった。
次の瞬間、鋭い斬撃が鬼塚の胴を狙う。
紙一枚の差でかわし、鬼塚がすかさず下から拳を突き上げる。
――しかし。
木刀が空中で軌道を変えた。
身を翻し、斬撃を180度反転。燕返しの一撃が、逆角度から鬼塚を襲う。
そこへ、駆けつけてきた矢崎が咄嗟に銃を抜こうとした。
だが、楓が静かに片手を伸ばし、それを制した。
鬼塚はまるで、その斬撃を予期していたかのように――
「ふっ」と短く笑みをこぼすと、体勢を軽く調整し、もう片方の拳を振るった。
ゴッ!
拳が、木刀へ正確に叩き込まれる。
パキンッ!
鋭い音を立てて、木刀の中ほどから真っ二つに割れた。
木刀使いの目が、わずかに見開かれる。
驚きはしたものの、すぐに跳躍して後退し、距離を取った。
どうやら、決着がついたようだ。
「……悪くねぇな、小僧。木刀じゃなくて、本物の刀だったら……ちと危なかったかもな」
鬼塚が肩を鳴らしながら、口の端を持ち上げる。
半分に折れた木刀が、カラン、と地面に転がる。
木刀を捨てた男は、ただ黙って、鬼塚を見つめていた。
月明かりがその顔を照らす。
サイドを刈り上げたツーブロックに、整えられたオールバック。
痩せ型ながらも芯の通った立ち姿は、ただ者ではない雰囲気をまとっている。
そして――その輪郭を見た瞬間、楓の脳裏に名前が浮かんだ。
……知っている。
この顔、この空気。
こんな場所で、出会うとは思っていなかった。
「……なぜ、ここにいる。龍崎」




