21 邂逅
立ち上がったスーツの男が、まず逃げた女子の姿を探し――鬼塚の前に詰め寄った。
「その女をよこしやがれ。然もなくば――」
「……どうした?」
鬼塚が低く威圧を放つ。
もう一人の男が仲間の腕を押さえて止めた。
「おい、見ろ」
気づけば、周囲には人だかりができていた。通行人たちが足を止め、ひそひそとささやき合う。
「なに? 映画かなんかの撮影?」
「でもカメラが見当たらないわよ」
「ねぇ、あの子……円香って芸能人じゃない? 昨日テレビで見た子に似てる」
「ほんとだ……まじじゃん」
噂が噂を呼び、視線が一気に女子と楓たちに集中していく。
スーツの男は顔をしかめ、「チッ」と舌打ちした。
「……一旦、引くぞ」
周囲の声が耳に入ったのか、女子はさらに顔を隠すように帽子を深く押さえ、楓の背後に身を寄せるようにして隠れた。
「楓さん、一旦、場所を変えたほうが……」
「うん」
短く答えると、そのまま歩き出す。
「ま、待ってください!」
女子も慌ててその後を追った。
少し離れた場所に、桜の木が並ぶ静かな一角があった。
通行人はまばらで、ようやく視線から逃れることができた。
「……ありがとうございました。本当に助かりました」
女子は帽子を取り、深々と頭を下げた。
露わになった顔立ちは、どこか人目を引く華やかさを帯びていた。
身長は一六五センチほどか。すらりとした体型に、艶のある黒髪のロングヘア。
大きな瞳は印象的で、睫毛が長く、輪郭のはっきりした整った顔立ちだった。
「はじめまして。私は立花円香、アイドルをやっています。さっきは悪い人に追われて……どうしようかと思いましたよ」
帽子を軽く胸元で抱えたまま、どこか気品すら感じさせる礼儀正しさで頭を下げる。
立花円香――その名を知らない者は、今や少ない。
十六歳で芸能界デビューを果たすと、わずか数か月で頭角を現し、瞬く間に人気アイドルとしての地位を確立した。
現在十八歳。楓より二つ年上になるが、テレビのバラエティ番組やCM、ファッション誌の表紙など、活動の幅は広く、メディアで見ない日はないと言っても過言ではない存在だ。
今までなら、自分の名前を聞いた瞬間に皆どこか緊張したり、騒いだりするものだった。
けれどこの少年たちは――妙に落ち着いていた。
「はじめまして。俺は玄野楓。この二人は鬼塚大地、佐竹重義だ」
楓が自然に紹介すると、円香は鬼塚に目を向け、思わず感嘆の声を漏らした。
「さっきの、本当にすごかったです! まるで映画のワンシーンみたいで……あんなふうに、あっさり二人とも倒しちゃうなんて!」
鬼塚は腕を組んだまま、ぶっきらぼうに返す。
「別に。向こうが勝手に転んだだけだ」
円香は気を取り直すようににこっと笑い、バッグから小さなサイン帳を取り出した。
「よかったら、お礼にサインとか……どうですか? ハートもつけます!」
鬼塚は面倒くさそうに顔をそらし、そっけなく断った。
「いらねぇよ。そういうの、興味ねぇから」
「えっ……そ、そっか……」
――サインを断られたのは、生まれて初めてだった。
気まずそうに視線をさまよわせた円香は、そっと佐竹に目を向ける。
佐竹は苦笑しながら、やや頭をかいて答えた。
「……すいやせん。芸能界のことは、あんまり詳しくねぇもんで。せっかくですが……」
「…………」
円香の肩がわずかに落ちた。
だがすぐに、最後の望みとばかりに、涙目で楓を見上げる。
楓は小さく笑みを浮かべ、やさしく頷いた。
「うん。もらえるなら、ありがたくもらうよ。ありがとう、立花さん」
「わっ……! よ、よかった……!」
円香は慌ててサイン帳を差し出した。
名前の横には、派手なハートマークとキラキラした装飾。アイドルらしい、可愛らしくも華やかなサインだった。
「それと、立花さんじゃなくて……円香って呼んでください」
「分かった。では――円香さん。さっきの男たちは、何者だ?」
問いかけに、円香は少し表情を曇らせ、周囲の視線を気にしてそっと帽子を被り直す。
「ん……わかりません。撮影が終わって、ちょっと上野公園の桜を見て帰ろうかなと思ってたんです。でも、なんだか視線を感じて……気づいたら、つけられてて。走ったら、そのまま追われて……」
言葉は穏やかでも、その声色にはかすかな緊張がにじんでいた。
服装、動き、周囲への警戒の仕方――
楓の目には、それらが“追っていた男たち”の本性を裏付ける情報にしか映らなかった。
あれは間違いなく、こちら側の者。
だが、楓はそれを言葉にはしなかった。
「もう大丈夫だと思う。じゃあ、これで」
淡々とそう言い残して、楓が歩き出そうとする。
「ま、待ってください!」
円香の声が、思わず弾けた。
「……まだ何か?」
その温度差に、円香は少しだけ唇を噛んだ。悔しい。
「その……もうちょっとだけ、一緒にいてもらえませんか?」
円香がそう言うと、楓は一瞬だけ視線を外し、静かに周囲を見渡した。
「……いいけど。ただ、この四人じゃさすがに目立つ。佐竹、先に車の準備を」
……ん?
佐竹は一瞬だけ疑問を感じたように眉を動かしたが、すぐに応じた。
「はっ」
「鬼塚、距離を取って、周囲の警戒を頼む」
「分かった」
ごく自然なやりとり。けれど、円香はその一連の動きに思わず見入っていた。
指示の出し方も、声の調子も、視線までもが落ち着いていて……ふとした瞬間に、現場で会う敏腕プロデューサーやマネージャーたちの、それに似た空気を感じさせた。
自分より年下のはずなのに――この少年は、なぜかとても大人びて見える。
「さて。これで、普通の若者同士にしか見えないはずだよ、少し歩こうか」
楓がふっと微笑みながらそう言う。
円香は驚きと安心の入り混じった表情で、その横顔を見つめていた。
佐竹の勘は、やはり正しかった。
駐車場に向かう途中、携帯に楓からのメールが飛び込んできた。
『立花円香を調べろ』
――!!
何か事情があるのかはわからない。だが、楓の命令なら、佐竹は迷わず動く。
すぐに携帯を開き、連絡帳から情報屋に発信する。
「佐竹の旦那、最近アイドルに夢中しているんですかい?」
「余計なことは聞くな」
「へいへい……この前は高校教師、今度はアイドル。ジャンルが広いですねぇ。さてと――立花、円香……っと。……ん?これは……」
鬼塚は人混みに紛れ、少し離れた位置から楓と円香を見張っていた。
だが――妙な違和感が、じわじわと背中にまとわりつく。
視線だ。
確かに感じる。複数、しかもあちこちから。けれど、どこにいるのか、誰なのか、まるで掴めない。
鬼塚の直感は、長年の喧嘩の中で磨き上げたものだった。
一瞬の油断が命取りになる世界で生きてきた以上、その感覚は一般人の比ではない――はずだった。
なのに、今回はまるで効かない。
気配を察しても、正体がつかめない。動こうにも、どこへ意識を向ければいいのかさえわからない。
「……チッ、何がどうなってやがる」
低く舌打ちしながら、鬼塚はイラつきを隠せずにいた。
「……さっきは、本当にありがとうございました」
隣を歩く円香が、もう一度お礼を口にする。
「いいよ」
楓は前を向いたまま、淡々と返した。
「楓くんって、高校生……なんですよね?」
「一応ね」
「“一応”って……何ですか、それ」
その返しに、円香がくすっと笑う。
「でも、ちょっとだけ……うちの兄に似てるかも。性格は全然違うのに、不思議と、雰囲気が」
「兄?」
楓が返すと同時に、ポケットの中で微かな振動が走る。
話しながら、さりげなく携帯を取り出し、画面を確認する。
「うん、歳は少し離れてるんだけど。まあ、ちょっと怖い人で……でも、冷静に誰かに指示出したりしてる時の空気が、なんとなく似てる」
佐竹からの簡潔な報告が届いていた。
メールを見て、楓はふっと笑った。
どこが似てるんだか……
そう思ったが、今はあえて突っ込まないことにした。
「円香さん」
「円香」
「……円香」
呼び方を改めると、円香は満足そうに笑みを浮かべた。
「はい、それでよろしい」
「少し寄り道しよっか」
楓が何気なくそう言って立ち止まると、円香はぱっと顔を明るくした。
「え、どこか行くんですか?」
円香が顔を覗き込むように尋ねると、楓は小さくうなずいた。
「商店街。たまに来るんだ。面白いものが揃ってる」
「うわ、行きたい! こっそり街歩き、憧れてたんです」
円香はぱっと顔を明るくして、まるで子供のようにはしゃいだ。
その無邪気な反応に、楓もごくわずかに口元をほころばせた。
上野駅近くの商店街は、昔ながらの八百屋や駄菓子屋、古本屋などが立ち並び、どこか懐かしい空気が漂っている。
円香は焼きたてのたい焼きに目を輝かせたり、ガラスケースに並ぶ雑貨に顔を寄せたりと、終始楽しげだった。
「見てください、これ! レコードですよ、本物の!」
「昔はこれで音楽聴いてたんだ」
「楓くん、なんかおじいちゃんっぽい」
子供のように騒ぐ円香に、楓は肩をすくめながらも、どこか楽しげに付き合っていた。
そうして二人は、軽口を交わしながら商店街を歩き続けた。
人通りが少しずつ減り、空が茜に染まり始めた頃――
ようやく楓が足を止め、ふと空を見上げた。
「今日は楽しかった。ありがとう、楓くん」
商店街を抜けた先の横道で、円香が小さく笑いながら言った。
ほんの数時間前まで逃げ回っていたとは思えないほど、表情は穏やかで、どこか名残惜しそうでもあった。
「こちらこそ」
楓は静かに返す。だがその言葉の裏には、確かに本心が滲んでいた。
誰かと並んで、こうしてただ歩く時間が、これほど静かで悪くないものだとは――思っていなかった。
円香は少し迷うように視線を逸らし、それから意を決したように口を開く。
「あの……またどこかで会えたら、うれしいな。よかったら……メアド、交換しませんか?」
楓は一瞬だけ円香の目を見つめたあと、ポケットから携帯を取り出す。
「いいよ」
自然な手つきでアドレスを打ち込んで渡すと、円香はぱっと笑顔になって、自分の端末にも入力を始めた。
「……交換、完了!」
満足そうに頷いたそのとき、円香がふと顔を上げた。
「あ、ちょうど迎えの人が来たみたい。それじゃ、またね!」
「うん。さようなら」
手を軽く振り、円香は通りの向こうへと駆けていった。
その背中が見えなくなった頃――
いつの間にか、鬼塚と佐竹が楓の背後に現れていた。
「楓さん。どうしてわかったんですかぇ」
問いは当然だった。
彼らが調べ終えた“立花円香の身分”について、楓はすでに察していたかのように、早い段階で調査を指示していた。
楓は背を向けたまま、静かに口を開いた。
「あの場で、円香は鬼塚ではなく、自分のところに来た。それに、妙に落ち着いていた。俺らのことを知っていたか、あるいはこちら側に慣れていたか。」
円香、呼び捨てか……
鬼塚がぽつりとつぶやく。
「で、見張りを見つけたか?」
楓もまた、あの場で確かな視線を感じていた。
「……悪い」
鬼塚がわずかに顔をしかめる。だが楓は、責めることなく首を振った。
もう、わかっていた結果だ。
なにせ相手は、超一流の情報力を持つ組織。分が悪い。
それでもいい勉強になった。
やはり、独自の情報システムの構築は不可欠だ。
離れた円香は、少し歩いた先で立ち止まり、停めてあった黒塗りの車にすっと乗り込んだ。
「おかえりなさい、お嬢」
運転席には、太い腕と丸坊主の頭が印象的な巨漢の男がいた。
「ごめん、待たせた?」
「お嬢が楽しそうに“デート”してるのを、邪魔しちゃ悪いからね」
「もう、知らない」
小さくむくれながらも、円香はどこか満足げに笑った。
「ハッハッ。……でもね、お嬢。いくら護衛が嫌いでも、今日みたいに危険な目に遭う可能性だってある」
「……うん。ごめんなさい」
すぐに円香は素直に頭を下げる。
「んじゃ帰るぞ、英司が待ってる」
男はハンドルを握り直し、静かにエンジンをかけた。
その男は――湘北連合・機動隊隊長、亀和田 豪。
午後――円香と歩いていたとき、楓の携帯に届いていた佐竹のメール。
画面を一瞥し、すぐに閉じたその内容は、たった一行だった。
『立花円香 本名――獅子倉円香』




