20 仄暗
龍崎がその名を自分の前で口にしたということは、あの日のことを、何かしら知っているということだ。
下手にしらばっくれるのは悪手。
どこまで情報が洩れているか不明な状況では、余計なことを言うのは愚策でしかない。
一瞬で頭を巡らせ、最適解を選ぶ。
「……なぜ、その名を」
ストレートに聞き返した。相手の出方を見るには、それが最も早い。
「ヤツの死……お前が、何か知っているだろう」
静かな口調だったが、確かな確信が滲んでいる。
楓は何も言わない。否定も肯定もせず、ただ龍崎の瞳を見つめ返す。
「安心しろ、俺はヤツの味方なんかじゃねぇ。」
龍崎はゆっくりと視線を外し、フェンスの向こうに広がる空を見やった。
「……あの日、誰かが、あの路地裏から出ていくのを見たんだ。次の日、手塚と……他の二人が、そこで死んじまった。」
「……」
「最初は深く考えちゃいねぇが。入学式でお前がしたことを見たまでは。」
風が強く吹いた。制服の裾がひるがえり、前髪が風に揺れる。
楓は口元を歪めた
「ああ、俺が殺した。」
「……!」
龍崎が目を見開く。まさか、これほどあっさりと認めるとは思っていなかったのだろう。
「……やはり、か。」
そう呟いた龍崎の表情には、驚きよりもむしろ、どこか寂しげな色が浮かんでいた。
「……礼を言うぞ。」
龍崎はしばらく沈黙に沈んだあと、どこか遠くを見つめるようにして言葉を紡いだ。
「……俺には、親友がいた。」
“いた”という過去形。その響きだけで、すでに結末の気配がにじんでいた。
「……中学のときの話だ。そいつは、毎日真面目で、無駄に頭がよくて、ちょっと不器用なヤツだった。ある日、急に学校に来なくなった。何の前触れもなく、ぱたっと姿を消してさ。最初は風邪でもひいたのかと思ってたけど、何日経っても戻ってこねぇ。」
龍崎は、空を見上げたまま言葉を続ける。
「気になって、自分で調べた。……そしたら、チンピラ共に絡まれて、毎日殴られてたって分かった。そいつらは手塚たちだ。俺は、そいつら全員ぶっ倒した。それからだ、“病院送り”なんて渾名がついたのは。……俺は別に、どうでもよかった。周りに何言われても気にしねぇからな。けど、そいつは違った。……俺のせいで、余計に目立つようになったって、自分が悪目立ちしてるのを気にして、だんだん俺と話さなくなって……笑わなくなって……気づけば、他人みてぇになっちまった。」
まさか、中学二年の時、“病院送り”にした相手が手塚たちだったとはな。
世の中って、ほんと狭いもんだ。
「けどな、中三になって……そいつ、自分で命を絶った。
俺と距離を取ったあと、また手塚たちに絡まれてたらしい。前よりタチが悪くなってて、報復もひでぇもんだったって話だ。
助けを呼んでくれりゃよかったのによ……なんで言わなかったんだか。」
言えなかったのだろう。
自分から離れた手前、今さら助けを求めるなんてできなかった。
きっと後悔していたはずだ。
「俺がもう一度、手塚たちにケリつけようとしたとき……ちょうどお前を見た。
まさかとは思ったが、そいつらはもう、死んじまってた。」
ここまでで、すべての話が繋がった。
井上のノートに記されていた内容。
手塚たちが複数の生徒から金を巻き上げていたこと。
龍崎の“親友”も、その被害者のひとりだったのだろう。
だから、あいつは……何度も自分のために動いていたのだ。
入学式——あの壇上での一幕。
登校中に生徒会に絡まれた時。
そして、白川に指名されたあの日も。
全部、気のせいじゃなかったんだ。
「それで、何度も俺を助けようとしたんだね。」
楓が静かに口を開くと、龍崎は気まずそうに目をそらしながら答えた。
「余計なことをしちまったみてぇだな。……お前は頭がいい。俺と違って、なんでもうまくやれる。」
「それはないよ。正直、助かったよ、龍崎。」
しばしの沈黙ののち、龍崎がぽつりと呟く。
「……いずれ、借りは返す。」
そうひとことだけ残して、龍崎は階段へと向かう。
「……あの白川には、気をつけろ。きっと……また動く。」
「ご忠告、ありがとう。」
楓は静かに返しながら、龍崎の背中を見つめた。
その足が階段へと差しかかろうとした瞬間——
「なあ、俺と一緒に来てくれないか。」
その言葉に、龍崎はふと立ち止まり、肩越しに振り返ることなく答えた。
「……遠慮しとくよ。俺と関わったら、不幸になる。」
そう言い残し、静かに階段を降りていった。
楓は、その背中を最後まで見送ると、ふっと笑った。
——いいさ。まだ、時間はある。
その後の数日間は、嵐の前の静けさのように、妙に穏やかだった。
楓は、唯一学校に残った生徒会メンバーとして自然と「会長代理」の立場に収まり、生徒たちからも教師たちからも、誰一人として異を唱える者はいなかった。
旧生徒会の面々は、まるで最初から存在していなかったかのように姿を消し、白川の名を耳にすることもなかった。話題にすら上がらないその“沈黙”が、逆に不気味な余韻を残していた。
一年生を中心に、楓のもとに自然と人が集まり始める。指示は出さずとも、動く者が現れ、従う者が増えた。教室でも、廊下でも、周囲の空気が徐々に変わっていくのを、楓自身が肌で感じていた。
しかし——そんな静けさは、長くは続かなかった。
金曜日、放課後。
「そんじゃ、俺んちはこっちだから。また来週な。」
山田は軽く手を振り、いつものように帰路へと足を向けた。
山田の帰り道は、バス停まで歩いて、そこからバスに乗るルートだ。
バス停までは十五分ほど。
川沿いの団地を抜け、小さな公園を横切っていく。
その公園に差し掛かった時だった。
前方に数人の影が立ちふさがった。
同時に、背後からも足音。振り返ると、後ろにも数人の人影がいた。
囲まれた。どうやら、狙われていたらしい。
山田は一歩も引かず、正面の人影を睨みつける。
「……なるほどな。生徒会長どのと、その脱糞野郎たちか。……こんなとこで何してんだよ? まさか、またトイレ探してんのか?」
その一言で、前にいた数人の顔色が変わる。
「なんだとテメェ——!」
「ぶっ殺すぞ!」
怒声が飛び交い、数人が今にも飛びかかろうと前に出る。
「やめたまえ。」
その動きを手で制したのは、生徒会長・白川だった。
全員の動きがピタリと止まる。
白川は、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと山田に近づいた。
「山田くん、だったかな。君、玄野くんとはずいぶん仲がいいようだね。」
「それがどうした。」
山田は一歩も退かず、吐き捨てるように言った。
「私と手を組む気はないかい?」
「抜かせ。仲間を裏切るなんざ、まっぴらご免こうむるぜ。」
「そう言うと思ったよ。」
笑いながらも、どこか冷ややかで、底の見えない声だった。
「いやぁ、楽しみですね。」
「何がだ。」
山田が低く問い返す。
すると白川の表情から、笑みがすっと消えた。
代わりに現れたのは、氷のように冷たい顔。
「月曜日、玄野が、君がどうなったかを知った時の顔さ。」
——金曜日、午後6時32分。
山田博明は、下校中の生徒によって発見された。
血まみれで地面に倒れ込んでおり、全身に重傷を負っていた。
骨折箇所は六か所——肋骨四本、左腕一本、右足一本。
脳震盪の疑いもあり、意識はなく、呼吸もかすかだった。
土曜日。
東京に着いたのは、午前十一時を回った頃だった。
車には、玄野 楓、鬼塚 大地、佐竹 重義の三人。
幹線道路から都心部へと入ると、目に映る景色は千葉とはまるで違っていた。
左右に聳え立つのは、鋼とガラスでできた高層ビル群。空を遮るように立ち並ぶその姿は、まるで別世界のようだった。
車は列をなすタクシーや輸入車の間を縫うように進み、歩道には絶え間なく人の波が流れていた。通行人の表情はどこか急ぎ足で、余裕のない空気が都市全体に充満している。
「やっぱ東京はせわしねぇな。」
運転席の鬼塚が言った。
後部座席で無言のまま外を見つめる楓の目には、この街の喧騒と雑多が、別の意味をもって映っていた。
「車も人も多すぎますね……千葉とは比べもんになりやせん。」
鬼塚がニヤリと笑って返す。
「おいおい、天下の佐竹様が、都会にびびってんのか?」
「……そういうんじゃありやせん。ただ、慎重に越したことはねぇです。」
「ははっ、そりゃそうだ。」
そんな他愛もない会話を交わしながら、車はとある場所へと辿り着いた。
――東大付属病院。
駐車場に車を停め、楓たちは入院棟の一室へと向かう。
ドアの前には、黒楓会の若衆が一人、静かに立っていた。楓の姿を見ると、すっと一礼する。
楓は軽く手を上げて応じ、そのままドアを押して中へ入った。
病室の中では、前田拓也がベッド脇に腰を下ろし、娘の本を指差しながら言葉を教えていた。落ち着いた空気の中、親子の時間だけが流れていた。
楓たちの姿を見て、前田拓也は思わず立ち上がった。
その隣で、娘の遥が無垢な目でじっと彼らを見つめている。
「く、玄野くん……」
「こんにちは、前田先生。」
楓は人畜無害な笑顔を浮かべてそう言った。
「こ、こんにちは……」
前田はわずかに緊張をにじませながらも、返事を返す。
そんな中、楓はじっと自分を見つめる遥に目を向け、ふわりと優しく微笑んだ。
「こんにちは、遥ちゃん。元気?」
楓が穏やかに声をかけると、遥は小さくうなずき……それからちらりと父親を見上げて、無言で尋ねる。
前田拓也は少し戸惑いながらも、優しく頷いて口を開いた。
「こちらは……玄野楓くんだ。転院先の病院を紹介してくださる、大事な方だよ。」
遥は静かに立ち上がり、小さく礼をした。
「……はじめまして。前田遥です。」
「はじめまして、遥ちゃん。丁寧に挨拶してくれてえらいね。」
「……えへへ。」
遥が少し照れたように笑うと、楓も微笑みを崩さず続ける。
「読書、好きなんだ?」
「うん。パパがいろんなお話を読んでくれるの。昨日は、お姫さまのお話だったよ。」
「いいね。今日は何を読むの?」
「えっとね……今日は、自分で読む練習をするの。」
「そっか。遥ちゃんは、きっとすぐに上手になるよ。」
「ほんとに?」
「うん、ほんと。」
こうして子供に優しく接する楓の姿は、あの狡猾で冷酷な一面とは到底結びつかない。
前田も、鬼塚も、佐竹も……ただ無言で、その光景を見つめていた。
やがて、遥はカタコトながらも、本を自分で読み始める。小さな指でページを押さえながら、懸命に言葉を追っていた。
楓は静かに立ち上がる。
「佐竹、手術の手配は?」
「はい。二週間後を予定しておりやす。執刀医も、経験豊富な方でして」
「そう。――ということで、前田先生。また二週間後にお邪魔するよ。何か必要なものがあれば、遠慮せずうちの者に言ってくれ。」
そう言って楓は、再び遥に向き直る。
「遥ちゃん、またね。」
「もう行っちゃうの?」
寂しげに見上げる遥の声。病院で暮らす彼女にとって、看護師と父以外に言葉を交わせる相手は少ない。
「遥ちゃんが元気になったら、一緒に本を読んであげる。」
「ほんとに?」
「うん。約束する。」
「うそついたら……ハリセンボン飲ます!」
「は、遥ちゃん!」
隣の前田が慌てたように声を上げた。
しかし楓は笑みを崩さず、無邪気に返す。
「うん、指切った。」
楓が前田を見舞いに訪れたのは、ただの善意からではない。
目的は一つ――前田拓也の態度を確かめることだった。
案の定、彼からは脱走や裏切りの気配は感じられなかった。病室で娘に寄り添い、本を読み聞かせる姿は、すっかり「父親」としての顔を取り戻していた。
その確認が済んだ今、あとは――せっかく東京まで来たのだから。
「お昼飯でも食べよっか。」
楓がそう言うと、佐竹がすかさず応じた。
「それでしたら、近くに評判のいい店がありやす。」
東大付属病院は上野公園のほど近くにある。上野の町には、歴史ある老舗から隠れた名店まで、美食の店が揃っている。
食事を済ませた一行は、腹を満たしたまま上野公園を歩いて、駐車場へと戻っていく。
まだ四月の中旬。風に揺られ、桜の花びらが静かに舞い落ちていた。
そんな時だった。前方から一人の女子が帽子を被って駆けてきた。
そのすぐ後ろには、スーツ姿の男が二人、焦った様子で追いかけている。
「待てぇーーっ!」
怒鳴り声が響く。楓、佐竹、鬼塚の三人は思わず足を止めた。
走りながらも、女子は帽子のつばを押さえ、振り向きざまにスーツの男たちを確認する。
周囲の通行人たちも、異様な光景に足を止め、ざわつき始めた。
「映画の撮影か?」
「ちょっと、誰か止めてよ」
「いや、お前が行けよ」
誰もが言い合うばかりで、誰一人として止めようとはしなかった。
女子は、逃げながら楓たちの方へと一直線に向かってくる。
……?
この人……どこかで――まさか。
その時、楓が短く呼んだ。
「鬼塚」
「おう」
鬼塚は一言だけ応じると、躊躇なく数歩前に出て、女子とスーツ男たちの間に立ちふさがる。
「邪魔だ、消えろ!」
先頭の男が叫び、拳を振りかざして鬼塚に向かってきた。
だが――鬼塚はその拳を片手で受け止めた。まるで壁にぶつかったかのように、男の動きが止まる。
「テメェッ、離せ!」
男が怒声を上げながら鬼塚の手を振り払おうとする。
だが鬼塚は無言のまま、横へ引っ張るようにして男の身体を崩し――そのまま、隣から回り込もうとしていたもう一人にぶつけるように放った。
ドン、と鈍い音を立てて、男たちはもつれ合うように地面に倒れ込む。
その異変に、前を走っていた女子がようやく振り返った。
倒されたスーツの男たち、そしてその前に立つ、大きな体格の男――鬼塚。
そのすぐ後ろには、年若い少年と、黒いスーツ姿の中年男もいる。
鬼塚だけでなく、その背後の二人も、ただの通行人ではない。そう直感したのだろう。
女子はすぐに駆け寄り、少年――楓の手をぎゅっと掴んだ。
「た、助けてください!」




