115 助言
筑波、黒楓会の臨時拠点。
倉庫の中央、チェコフは椅子に縛られ、全身が血まみれになっている。
頭は力なく垂れ、呼吸も今にも途切れそうなほど弱々しい。
「スコートファミリーは日本で三十人規模の派遣部隊を二つ持っている。一つは現在北海道、もう一つは福島。そして――君がその責任者。それで間違いないな?」
佐藤がチェコフの目の前に立ち、静かに問いかけた。
チェコフは途切れ途切れの声で答える。
「は……はい……」
佐藤は淡々と問いを重ねた。
「なぜ北海道まで派遣した? 極道の紛争が目的か?」
「……武器が、届いたカラ……ホッカイドウが……いちばんチカイ……」
「――で、君はスコートファミリーの中でどんな立場なんだ?」
「オレは……ゲホッ、ゲホッ……チェコフ家の人間だ……オレを殺せば……お前たちもタダでは済むと、オモウナ……」
スコートファミリーには、"三元首"と呼ばれる三人の最高幹部が存在する。
ファミリー全体の権力を握る頂点であり、その三人はスコート、ロマノフ、そしてチェコフ。
もとは互いに敵対していた三つの巨大マフィアが、最終的に結盟し、ロシア最大の裏社会勢力として君臨するに至ったという、異質な成立の組織である。
アレクセイ・チェコフは、その"三元首"の一角――チェコフ家の血を引く者。
日本に送り込まれた理由は明確で、スコートファミリーの日本進出の足掛かりとなる先遣部隊としての役割だった。
しかし、日本に来てまだ日が浅いというのに、最悪の相手に出会ってしまった。
黒楓会――そして玄野楓。
チェコフにとって、それは「運が悪い」では済まない致命的な遭遇だった。
その後、佐藤はチェコフから、人員構成、装備の配置、取引の流れに至るまで、洗いざらい吐かせた。
限界はとうに越えていたのだろう。
チェコフの瞼が小さく痙攣し、その直後、糸がぷつりと切れたように全身の力が抜けた。
椅子ごと前へ崩れ落ちそうになり、縄だけが彼を支えている状態だった。
佐藤は無言で一つ手を振る。
影の隊員がすぐに近づき、最低限の応急処置を施しながら、気絶したチェコフを別室へと拘束していった。
楓が病院から戻ってきた頃には、佐藤と幹部たちはすでに倉庫の会議室に揃っていた。
テーブルの上には、尋問で得た資料とメモが雑然と並び、空気は重く、張りつめている。
佐藤が淡々と、しかし確かな怒気を孕んだ声で報告を終えると、真っ先に口を開いたのは稲村だった。
「……おのれ早乙女め、嵌めやがって」
稲村の悔しさが、拳ににじむ。
「それを言うなら、正興会の方が先だろう。
あいつら……完全に待ち伏せしていやがった」
柏が口を挟んだ。
テーブルを叩く音。
その衝撃に紙がわずかに跳ねる。
龍崎は壁にもたれ、腕を組んだまま目を細める。
「それより、例の北海道での取引は少し気になりますね」
矢崎が珍しく口を挟んだ。
「それだ――奴らの武器を横取りして、ぶっ叩いてやらぁ!」
稲村が勢いよく立ち上がり、怒鳴る。
「それ、いいッスね!」
清水もすぐに乗っかった。
――ん?
全員が言い合いを続ける中で、佐藤はふと、黙り込んでいる楓へ視線を向けた。
普段の楓なら、言葉を発さずとも場を支配する気配がある。しかし今の楓は、まるで会議のざわめきが耳に入っていないかのように、深く思考の底に沈んでいる。
佐藤の視線にすら気づかないほどだった。
まるで異常な気配に気づいたかのように、場のざわめきが徐々に細くなり――
やがて、誰も口を開かなくなった。
視線が、一つ、また一つと、黙り込んだ楓へ吸い寄せられていく。
しばらくしてようやく、楓は静けさに気づいたように眉をひそめ、ゆっくりと顔を上げた。
そして、幹部全員を鋭く見渡す。
「……佐藤」
「はっ」
「茨城に来てから――うちの死傷者はどれだけ出た?」
佐藤は一拍だけ間を置き、短く息を整えてから答えた。
「負傷三十五名、重傷十九名。死亡八名、うち二名は"影"の者……あ、いや。死亡九名になりました。……先ほど、一名が治療中に息を引き取りました」
報告の最後の言葉が落ちた瞬間、空気が――凍りついた。
「早乙女組は、何名だ?」
「草薙警備会社も含めると……死亡五十六名、負傷は百二十人以上になります」
その数を聞いた瞬間、場の空気がほんの僅かに緩んだ。
だが、楓はすぐ次の問いを投げる。
「……で、三河会は?」
「それは……」
幹部全員の視線が、今度は佐藤へと集中する。
佐藤は短く息を整え、言葉を絞り出した。
「……ゼロ名です」
「なんと?!」
「い、言われてみれば……」
ざわり、と場が揺れた。
「そこだな」
楓は静かに口を開いた。表情は変わらず、しかし声には確信があった。
「"兵を形に示す極みは、無形へ至る"。……俺が茨城に来ると知った時、湘北連合の総参謀長――猿飛隼人が、鬼獅子を通じて俺に伝えてきた言葉だ」
「なんだその……兵を形なんちゃらってよ」
柏が頭をかく。
稲村も清水も、ぽかんとした顔をしている。
佐藤が軽く頷き、言葉を補った。
「孫子兵法の一節です。解釈はいろいろありますが――直訳すると、戦いの極致とは、姿を持たない境地に至るという意味になります」
「佐藤の旦那……よくそんなの知ってるな」
稲村が呆れたように感心する。
「その言葉は、今の状況となにか関係がありますでしょうか?」
佐藤が楓へ静かに問う。
楓は小さく息を吐いた。
「最初は、俺への助言だと思っていた。……だが違う。あれは三河雅のことを指していたんだ。
茨城に来てから、三河会と早乙女組とは何度も衝突してきた。だが――一度でも、三河会の連中と正面から刃を交えたことがあったか?」
誰も答えられず、沈黙が落ちる。
楓は続けた。
「にも関わらず、黒楓会が受けたダメージの大半は、たとえ直接三河会から攻撃されたものでなくとも……根本的な原因は、すべて三河会に通じている。
それこそが、"兵を形に示す極みは、無形へ至る"そのものだ。
早乙女組しかり、スコートファミリーしかり、正興会しかり……そして、先ほど病院に現れた根本という警察官まで。
三河雅は、まだ三河会そのものを動かしていないのに、俺たち黒楓会の周りには、もうこれだけの敵を立たせてくれた」
楓の言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
矢崎は背もたれに寄っていた体をわずかに起こし、静かに腕を組む。
その横顔には焦りこそないが、事態の深刻さを測ろうとする冷たい光が宿っていた。
柏は口を開けかけて、しかし言葉を飲み込み、代わりに額へ手を当てる。
いつもの軽い調子は欠片もなく、考えが追いついていないのが見て取れた。
「――道理で、俺ら黒楓会が茨城へ乗り込むと分かっていながら、三河雅が微動だにしなかったわけだ。今日の待ち伏せも含めて、奴は最初から全部読んでいたんだ」
その言葉を口にしながら、楓の胸には、これまで味わったことのない重圧がじわりと沈む。
さすがは長年、茨城県を支配してきた男――。
楓は、デビュー以来初めてと言っていいほどのプレッシャーを、はっきりと感じ取っていた。
しかし、決めた以上、楓は簡単に引くわけにはいかない。
それに――厄介な相手ほど、楓はどこかで愉悦すら覚える。
異様な沈黙が室内を満たす中、楓はふっと話を切り替えた。
「決まりだ。――早乙女晋作と手を組む」
その言葉が落ちた瞬間、空気が揺れた。
「そ、そんな……」
誰ともなく漏れた声が、会議室の静けさに吸い込まれる。
幹部たちの表情が一斉に固まり、理解が追いつかず、視線だけが互いを探すようにさまよう。
普段なら真っ先に楓の意図を読み取る柏でさえ、眉を寄せ、言葉を失っていた。
草薙警備会社をふっ飛ばし、チェコフを攫った直後――
常識で考えれば、「手を組む」という選択肢など存在しないはずだ。
――一体、会長は何を考えているんだろう。




