114 威圧
足音が近づく。
楓は顔を上げず、ぼんやりと膝の影を眺めていた。
「退け退け。てめぇらに用はねぇ」
低い声とともに、黒楓会の者が横へ押しやられる気配が走る。
肩が壁に当たる鈍い音、靴の底が床を強く踏む音。
やがて足音は、楓の正面でぴたりと止まった。
「また会いましたね、玄野さん」
低い声が、楓の正面で止まった足元から降りてくる。
楓は顔を上げなくても、来訪者が誰なのか、すでに察していた。
喋ったのは――茨城県警刑事部、組織犯罪対策課の根本だった。
その後ろには、六人の部下が控えている。
「……消え失せろ。今は気分が悪いんだ」
楓の声に温度がない。深い闇の底から響くような冷たさだけが残る。
根本の喉が、固く鳴った。
目の前の少年は十代後半ほどの年齢にしか見えないが――纏う空気は異常だ。
警部である自分ですら、本能が静かに警鐘を鳴らすほどの、得体の知れない威圧。
しかし――根本には、今回どうしても引けない理由がある。
三日前の深夜、ある県議員から頼まれ、黒楓会の臨時拠点にガサを入れようとしたことがある。
だが、いざ相手が黒楓会だと知った瞬間、根本は命が惜しくて、現場の警官たちごとその場から手を引かせたのだ。
議員はその場では何も言わなかったが、根本には分かる、あれは"次はない"という無言の通告だった。
そして今夜。
その議員から、再び直接の連絡が入った。
――病院から銃創の通報があったら、そこにいる暴力団を全員逮捕したまえ。
心配はいらん、ここは茨城県だ。千葉じゃない。
議員からの命令――いや、賄賂という鎖で繋がれた以上、拒否するという選択肢は初めから存在していない。
――そうだ、ここは茨城県だ。何があっても、あの議員が後ろ盾になる。
根本は自分にそう言い聞かせる。
あの議員は、表向きはただの県議会議員。
しかし、本当の顔は――関東極道の四大勢力の一角、三河会会長、三河雅。
その圧倒的な力を思えば、黒楓会が相手でも恐れる必要はない……
根本は覚悟を決め、こうして玄野楓の前に立っていた。
「……暴力団構成員の銃創通報を受けて来たんだが、これは一体どういうことだ?」
楓はゆっくりと目だけを上げる。
その黒い瞳に射抜かれた瞬間、警察官たちは反射的に一歩後ずさる。
"影"の精鋭を二名も失ったのだ。怒りを押し殺しているのは、誰の目にも明らかだった。
根本は喉を鳴らし、強張った顔のまま、勇気を振り絞って口を開く。
「……わ、悪いが……じ、事情聴取のため、署までご同行願う」
先ほど病院に踏み込んできた時の威勢など、もうどこにも残っていなかった。
根本は背後の部下に小さく顎をしゃくって合図した。
「……連れていけ」
「は、はい……」
後ろの警察官二人は互いに顔を見合わせる。
その目には、明らかな躊躇と恐怖が浮かんでいる。
軽く息を呑み、覚悟を決めるように頷き合い、一歩踏み出そうとした――その瞬間、楓の前には、すでに黒楓会の者たちが立ち塞がっていた。
無言。
「……っ」
二人の警察官は、踏み出した足をそのまま固まらせた。
左右からも黒楓会の者たちが静かに歩み寄り、警察官たちを囲むように立つ。
突然の包囲に、若い警察官が青ざめた声を漏らす。
「な、なんだお前たち……警察に手を出す気か?」
「根本警部、ど、どうします……?」
根本は気圧されるように一歩下がったあと、楓へ向き直る。
「……玄野さん、分かっていると思うが……さすがに公然と警察に手を出せば、あなただって無事では済まない。
ここはお互い一歩ずつ譲って……あなただけで署まで来てもらえないかね」
龍崎が一歩、楓の前に出て、背を向けたまま低く短く問いかけた。
「……やるか」
病院の廊下に沈黙が落ちる。
楓が一言発せば、龍崎たちは迷いなくこの警察官たちを肉片に変えていただろう。
張りつめた空気の中、楓はゆっくりと立ち上がり、根本へ向かって歩みを進める。
「……おい」
龍崎が振り返りかける。
「会長!」
「いけません、会長!」
"影"の隊員たちが一斉に声を上げた。
その様子を見た根本は、勝ち誇ったように口角を吊り上げる。
玄野がついに観念した――そう確信した顔だった。
「分かってくれたか。よし、さっそく――」
その時だった。
根本の視界の端に――すっと、何かが差し出された。
反射的に
「――ッ!?」
と肩を跳ね上げ、根本は銃を向けられたと勘違いして両手を前に出し、防御の姿勢を取った。
しかし――何も飛んでこない。
空を切った自分の手に気づき、根本は気まずそうに視線を下げる。
そこにあったのは、黒革の重厚な手帳だった。
金文字で刻まれた"内閣直轄特務監理局"。
中央には、鈍い光を放つ紋章。
根本の言葉がそこで途切れた。
まるで喉をつかまれたように息が詰まり、握っていた拳がわずかに震える。
視線は否応なく、その手帳へ吸い寄せられ――
顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……な、なぜ……あなたが、それを……?」
背後の警察官たちは、根本の異様な反応にざわつきはじめる。
楓が無造作に片手で手帳を開く。
そこには、重厚な局章を象った銀色のプレート。
右側には楓の顔写真入りの身分証が収められ、所属コードと認証番号が整然と刻まれていた。
内閣直轄特務監理局――通称「特監局」。
ある階級以上の警察官しか存在すら知らない、国家の裏側を担う異常な部署。
必要とあれば、警察組織そのものへ直接命令を下せる。
つまり、警察より上の存在。
部下たちは意味が分からず混乱した目を交わすが、根本だけは理解してしまっていた。
――警察官としての自分の権限など、この手帳の前では紙屑同然だ。
それどころか、あの県議の後ろ盾でさえ……特監局の前では、足元にも及ばない。
「一度しか言わない。俺の前に二度と姿を見せるな。……今すぐ消えろ」
病院の廊下の温度が数度下がったかのように、誰もが無意識に息を飲む。
「お前……何様のつもりだ――!」
後列にいた若い警察官が反射的に声を上げかける。
しかし――
「やめろ!!」
根本が鋭く腕を伸ばし、その言葉を叩き斬った。
若い警察官は目を丸くする。
根本は額に汗を滲ませながら、楓へ深く頭を下げる。
「……分かりました。ご迷惑をおかけしました」
「け、警部!? なんで――」
部下たちが動揺の声を漏らすが、根本は振り返りもせず、噛みつくように怒鳴った。
「……いいから撤収しろッ!!」
部下たちはビクリと肩を震わせ、混乱した目で楓と根本の顔を交互に見た。
黒楓会の者がわずかに道を開ける。
若い警察官たちはまだ納得のいかない顔だが、根本の異様な緊張を感じ取って何も言えない。
足早に、逃げるように、警察官たちは階段の奥へと消えていく。
その背中が見えなくなるまで、黒楓会の者たちは無言で睨みつけていた。
階段の向こうに消えた瞬間――
根本の額を、冷たい汗が一筋落ちた。
――クソッ……三河め。あんな化け物を逮捕しろだと?
ふざけんな、特監局ってのはな……場合によっちゃ、その場で射殺すら許されてる連中だ。
命が何本あっても足りるわけねぇだろ……。
唇を噛みながら、根本は胸の奥に渦巻く恐怖と苛立ちを必死で噛み殺していた。
――ヤクザの親分であるうえに、特監局の身分まで持ってやがる。
そんなもん、もう無敵じゃねぇか。
「会長……」
手当を済ませた佐藤が、静かに歩いて楓のもとへ現れた。
右耳には厚めの包帯が巻かれ、そこからまだ薄く血が滲んでいる。
「……チェコフの尋問は任せる。スコートファミリーの情報を、可能な限り吐かせろ。
それと――手術が済んだら、負傷者は明日のうちに千葉へ移せ。……ここは安全じゃない」
「かしこまりました。……正興会の二人は、どう扱いますか?」
楓はわずかに目を伏せ、龍崎が生け捕りにした二人を思い出す。
「……ただの捨て駒だ。重要な情報は持っていない」
一拍。
「――始末しろ」
静かで、揺らぎのない声だった。
佐藤は短く頷き、深く一礼すると、そのまま無駄のない足取りで任務の準備に向かっていった。
一方、筑波――早乙女組の拠点。
「……なに? 高速道路で銃撃戦?」
早乙女晋作は携帯に耳を傾けていた。
室内には、重武装のロシア人が十名。
そして、早乙女組長・早乙女正晋が背もたれに深く身を預けている。
しばらく通話が続き、晋作の細い目がほんのわずかに動く。
「……なるほど。はい、分かりました。引き続き監視をお願いします」
通話を切った瞬間、ロシア人の一人が一歩前へ出て、ロシア語で問うた。
「晋作さん、チェコフさんの行方が分かったんですか?」
「まだですね」
「では、今の電話は?」
晋作は肩をすくめ、さも困っている風に息をついた。
「黒楓会は国道ではなく、高速を使って移動していたようです。
しかし途中で何者かに襲撃されたらしく、チェコフさんの無事は確認できていません」
ロシア人たちの顔から血の気が引く。
「こ……これはすぐにファミリーへ報告しなければ――!」
「まあ、待ってくださいよ」
晋作はすっと片手をあげ、薄い笑みを浮かべた。
「このまま報告したら、あなたたちも処罰は免れないでしょう?
まずは傭兵部隊をこちらへ集めましょう。
僕が責任をもってチェコフさんを"見つけ出して"みせますよ」
ロシア人はわずかに息を呑む。
晋作の笑みに込められた意図は理解できない。
ただ、不吉なものを感じ取った。
晋作は視線を横の壁へ向け、うっすらと口角を再び持ち上げた。
――そう、見つけ出してやるさ。
死体になったチェコフをな。




