111 停電
楓の言葉に、チェコフの表情がみるみる険しく歪んだ。
世界最強勢力の名を掲げる自分たちの誘いを――
一地方勢力にすぎない黒楓会の若造が、ここまで強気に拒むとは思いもしなかったのだろう。
チェコフは、噛みつくようにロシア語で言い放つ。
「Ты, похоже, перепутал масштабы.
Мы проявили добрую волю, а ты просто зазнался…
В конце концов ты всего лишь ребёнок.」
(どうやら我々の善意を履き違えているようだな。
少し調子に乗りすぎだ……所詮は子供か)
楓は短く息を吐いた。
「……話にならんな。わざわざ来て損した――もういい、帰る」
椅子を押し、無造作に立ち上がってドアへ向かう。
しかし、出口の前に立つ白人男性は微動だにせず、腕を組んだまま、通路を塞いでいた。
チェコフの声が背後から響いた。
「Если ты уйдёшь вот так… наша репутация будет растоптана.」
(このまま帰られるような真似をされたら、我々のメンツは丸潰れだ)
チェコフが指を軽く鳴らす。
奥の扉が静かに開き、二人の大柄な白人が姿を現した。
手には、黒い消音器付きの拳銃。
空気が重く沈む中、楓はゆっくりと振り返り、チェコフを細い目で見据えた。
「……これが、あんたらの"誠意"ってやつか」
ここを選んだ理由は理解できる。
駅前なら大規模な銃撃戦は起こせない。周囲には人が多く、警官も近い。
だが、店内、それも密室の個室で、消音器付きの拳銃を使うなら、外に気付かれる心配はほぼない。
チェコフは肩をすくめ、隣の早乙女晋作へと視線を向ける。
「Убейте Куроно Каэдэ.
А затем уничтожьте Курокаэдэ-кай до последнего человека.
Это будет цена за то, что они подняли руку на семью Скорт.」
(玄野楓を殺せ。それから黒楓会を一人残らず消せ。
これがスコート・ファミリーに手を出した代償だ)
晋作は薄く笑い、静かに言い添えた。
「……愚かな連中ですよ、本当に」
「…Стреляйте.(やれ)」
チェコフが静かに命じた、その刹那――
視界が、一気に闇へ沈んだ。
「Что?! Что произошло?!
(なに?!何が起きた!)」
「停電か――?」
「Не стреляйте! Защитите господина Чекова!
(撃つな! チェコフさんを守れ!)」
混乱が渦巻く室内に、
ドンッ――重い衝撃音が炸裂した。
「ぐ……っ?!」
暗闇の向こうで、誰かが息を吐き飛ばされるような声を上げる。
続けて、ガタンッ――何かが倒れる音。
その横で「ひっ」と短い悲鳴が跳ねた。
混乱と緊張が渦巻く中、早乙女晋作は反射的にテーブルの下へ身を滑り込ませた。
暗闇の中で、誰ひとり声を上げない。
響くのは、複数人の足音。
布が擦れ合う乾いた音。
何かが軽くぶつかる鈍い衝撃音。
全員が息を殺し、自分の位置を晒さぬよう気配を沈めている。
やがて、三分ほど経ったころ。
パチンと音がして、ライトが点灯する。
蛍光灯の白が広がると同時に、晋作はテーブルの下からゆっくりと身を起こし、周囲を確認する。
奥の壁際からも、大柄な白人男性が銃を構えたまま姿を現す。
互いに無言で視線を交わし、部屋全体へ警戒を向けた――が。
次の瞬間、二人の表情が凍りついた。
部屋は、無惨なほど静まり返っていた。
ドアは外側からこじ破られた形でねじ曲がり、さきほどまでそこに立って塞いでいた白人男性は――床に倒れて気絶している。
本来なら、部屋の中央にいるはずの玄野楓の姿は影も形もない。
それどころか、チェコフさえ消えていた。
「Что… что здесь произошло…?
(なっ……何が起きた……?)」
早乙女晋作は険しい顔で呟いた。
「……どうやら、チェコフさんは攫われたようですね」
「Что?!
(なんだと?!)」
大柄の白人男性が目を見開く。
「……直ちに追ってください。
まだ、そう遠くへは行っていないはずです」
「П-понял!
(りょ、了解!)」
白人男性は慌てて部屋を飛び出していった。
扉が閉まると、室内には晋作だけが残された。
彼は眼鏡の奥で静かに目を細め、乱れた部屋の光景を一つずつ観察する。
――状況からして、外の黒楓会の連中が停電を仕掛け、その隙に玄野楓の救出とチェコフの誘拐を同時にやってのけた。やはり、先手を打ってきたか。
さきほどまでの険しい表情は、溶けるように消える。
代わりに浮かんだのは、胸の底からにじむ陰険な笑みだった。
「……やってくれましたね、玄野楓」
晋作は極めて静かに呟く。
「しかし、チェコフを仕留めてくれれば――
あの傭兵部隊は、まるごと僕のものになる」
その声には、恐れも焦りも微塵もなかった。
一方、車は東へ走り、新4号バイパスへ向かう二台の車。
当時、筑波から宇都宮へ向かう直通の高速道路はまだ存在しない。
高速を使おうとすれば、一度大きく南へ回り込んで東北道へ乗り直す必要があり、
むしろ下道のほうが早いどころか――倍近く時間を食う。
だからこそ、新4号国道を一直線に抜けるのが最速ルートだった。
後部座席の中央には、両手を縛られたままのチェコフが押し込まれていた。
両脇には龍崎と"影"の一人。まるで逃げ道を封じる鉄壁の檻だ。
助手席の楓は、バックミラー越しにチェコフの顔をちらと見やる。
「……せっかくチェコフさんが"招待"してくれたんだ。
こっちも礼ぐらい返さないと。少し乱暴な誘いになったが」
鏡越しの楓の口元が、わずかに歪む。
それをチェコフは理解できずとも、背筋だけは確実に冷たくした。
先ほどの出来事は、本当に一瞬だった。
楓たちが店へ入る少し前――
佐藤と数名の影はすでに建物の配線を探り、大元の回線を特定して待機していた。
楓がポケットの中で、携帯の発信ボタンを軽く押す。
それが「開始」の合図。
直後、店全体の電気が落ちた。
暗闇の中で、龍崎と"影"の二名は、停電の瞬間に簡易式の夜視儀を装着し、ためらいもなく部屋のドアを強襲。
蝶番ごと叩き壊し、混乱する白人男性を一瞬で制圧すると、楓を救出し、そのままチェコフを拘束した。
外で待機していた佐藤たちは即座に車を横付けし、楓を乗せると同時に発進。
店内班と外班が完全に噛み合った、わずか一分の電撃作戦だった。
もちろん、チェコフは掴まれた瞬間、反射的に反抗した。だが、龍崎の力に、一瞬で押し潰された。
自分の腕力がまるで通じない。
驚愕の表情のまま連れ去られた。
車内に、重い沈黙が落ちていた。
新4号国道の入口が近づき、ウインカーが点滅したその瞬間――
楓がぽつりと言った。
「……高速に乗れ」
運転していた"影"の隊員が、びくりと肩を揺らす。
「は、はい!」
慌ててウインカーを戻し、ハンドルを切り直す。
車は向かい側にある高速道路の入口へと進路を変えた。
――ん?
後方車両の助手席で、佐藤はわずかに目を細める。
「……なるほど。新4号は待ち伏せされている可能性が高い、という判断か」
佐藤は納得したように息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「――さすが会長だ」
楓の車が、高速道路の入口に入った瞬間――
後部座席のチェコフの表情が、わずかに凍りついた。
ほんの一瞬。
だが、その硬直は隠しようがない。
バックミラー越しにそれを捉えた楓は、ゆっくり口元を歪めた。
――やはりな。
その時、楓の携帯が短く震えた。
楓はすぐに応答する。
「……俺だ」
『お疲れ様です、会長、柏です。早乙女組の連中が動きました。そちらはご無事で?』
「こっちはチェコフを攫ったところだ。
これから高速に入る。少し遠回りになるが――あっちより、まだ安全だ。
臨時拠点の警戒態勢はそのまま維持しろ。
それと、早乙女組の動きを張っておけ。……おそらく国道で俺たちを挟み撃ちにする算段だ。
何か異常があれば、すぐ報告しろ」
『はっ、了解です!』
携帯を閉じ、楓は視線をバックミラーへ戻した。
「……さて。チェコフさん、少し話をしようか」
楓が声をかけても、チェコフはびくともしない。
まるで言葉の意味すら理解できていないかのように、固く沈黙していた。
楓は小さく鼻で笑う。
「――龍崎」
呼ばれた龍崎は無言のまま肘を突き立て、チェコフの腹へ短く、鋭く叩き込む。
「……っぐ……!」
押し殺した呻きが車内に落ちる。
少し間を置き、楓は再び視線だけを龍崎へ送った。
合図を受け、龍崎が再び肘を振り上げた――その瞬間、
「……ま、まッてクレ……!」
苦悶を滲ませた声がチェコフの口から漏れた。
楓はゆるく口元を歪める。
「ほう……日本語、ちゃんと話せるじゃないか」
車は滑るように国道を走り続け、車内にはチェコフの荒い息と、咳をこらえる音だけが残っていた。
やがてチェコフが、搾り出すように口を開く。
「……クロノ……オレに、こんナことをして……君は、死ヌ。
オレを解放すレば……まだ、余地が……アル」
たどたどしい日本語。それでも威嚇の意図は十分だ。
楓は前を向いたまま、わずかに笑った。
「今さら何を言ってんだ。
どうせ――今日ここで二次団体入りを断った時点で、俺を消すつもりだったんだろうが」
すでに敵対は明白。そしてチェコフの性格を考えれば、逃がしたところで、いずれ確実に報復に来る。
「君はホントウに分かってるのか? オレはスコートファミリーの幹部――」
「さぁ……分からんな、だから教えてもらいたい――スコートファミリーは、日本に何人いる?」
「……」
チェコフは傲慢だが、決して愚かではない。
バックミラー越しに映る楓の漆黒の瞳から――
はっきりとした殺意が滲んでいるのを、嫌でも感じ取った。
その停止した沈黙の奥で、ようやく楓の狙いに気付いた。
――こいつ……まさか、日本にいるスコートファミリーを、根こそぎ消すつもりか。
背筋へ、ようやく遅れて冷たいものが落ちた。
その微妙な反応を見逃さず、楓は――まるで親しげに語りかけるような、穏やかな笑みを浮かべた。
だがチェコフの目には、その笑みは優しさではなく、処刑前の最終確認にしか見えなかった。
「……あとで、じっくり話してもらおう」




