ある日の『金獅子亭』ノーヴァ・ディアーノ店
目の前に広がる信じられない光景に、フリンは腹の底から叫び声を上げるところだった。
「いらっしゃいませえぇぇええ!?」
……否、上げていた。
「え、ちょっ……えっ、まっ」
待ってくれ、どうにかその言葉を絞り出し、フリンは目を閉じて三度深呼吸をする。
そしてカッと目を見開き、改めて現実に向き直った。
しかし何度も瞬き目を擦っても、フリンの目に映る光景は変わらない。
その事実に彼が引きつった笑みを浮かべていると、金のポニーテールを揺らす快活な女性と、彼女に寄り添うように立つ褐色肌で長い黒髪を一つに結った大柄な男性の二人組が口を開いた。
「もう、フリンったら何をしているの?」
「料理長が固まっていては給仕も困るだろう?」
いや、現在進行形で俺を困らせているのがあなたたちなんですが、などと口が裂けても言えるはずもなく、フリンはどうにか笑みを保ったまま自らその二人組を席に案内する。そして二人がメニューを開いたのを確認して、いつもよりも足早に厨房に引っ込んだ。
バタンと音を立てて厨房の扉を閉めたフリンは、頭を抱えて天に向かって咆哮した。
「……いやいやいやいや、ほんとに待って!」
フリンの突然の叫び声に調理員たちが肩を跳ねさせたのか、調理器具がガチャガチャと不協和音を奏でる。
やがてしん、と静まり返った厨房内には、うう、というフリンの呻き声だけが響き渡った。
そんな中、一人の調理員がおずおずとフリンに声を掛ける。
「ど、どうしたんですか、店長?」
その声にのろのろと顔を上げたフリンは、ぼそりと呟いた。
「……緊急事態だ」
「え?」
「緊急事態?」
不穏な単語に、いったい何が起こったのだろうと厨房がざわつく。そんな彼らの注目を集めるようにフリンは軽く手を叩くと、ふぅ、と短く息を吐いた。
「……みんな、心して聞いて欲しい」
あまりにも真剣な様子のフリンを見て、調理員たちは無意識のうちにごくり、と唾を飲み込む。
そんな彼らを見回し、フリンはゆっくりと口を開いた。
「お忍びで、ウォーディアス陛下と王妃であるエレン様がいらっしゃっている」
この国でもっとも高貴な人物が、なぜか庶民が利用する食事処にやって来ている。
その信じられないような事実に、厨房は困惑と歓喜の声に包まれた。
「えっ、嘘じゃないんですよね!?」
「冗談でもないんですよね!?」
「こりゃいつも以上に気合いを入れないと!」
「うわぁ、うわぁ、俺、初めて王様と王妃様を見るよ!」
「それなら俺だって初めてだよ!」
「はいはい、無駄口叩いてないでさっさと作業に戻る!」
フリンの一声で慌てて持ち場に戻る調理員たち。彼らが作業を再開したのを確認して、フリンははぁ、と溜息をついた。
「……ああ、そうだ」
店長兼料理長であるフリンはあることを思い出し、食事パンの焼成を行っている従業員に話し掛けた。
「とりあえず、ライ麦パンの準備をしておいてくれ」
「ライ麦パンですか? 白パンではなく?」
フリンの言葉に疑問を抱いたのだろう、従業員がこてんと首を傾げる。
彼の疑問ももっともだ。基本的に上流階級の人間はライ麦パンを食べない。それは白パンが庶民の間に普及した今でも変わることのない常識だ。
しかし、そんな常識がなんだ、とフリンは胸の内で思う。
「あの人……彼が注文するのはいっつもライ麦パンだ。あと肉、それから赤ワイン」
現在提供しているメニューを頭の中に浮かべ、フリンはぽつりと呟いた。
「牛肉のトマト煮込み、かな」
さあて、と腕まくりをしたフリンは、トマトソースで煮込まれた牛肉が踊る大きな鍋の前に立つ。それを二食分小鍋に移し、味を調えるために火に掛けた。
その瞬間、先ほどフリンが固まってしまったことで困り果てていた女性給仕の声が厨房内に響き渡る。
「オーダー入りました! 牛肉のトマト煮込み二、ライ麦パン三、赤ワイン二です!」
その注文内容に、フリンはニヤリと口の端を吊り上げた。
「やっぱり」
それじゃ、と短く息を吐いてフリンは肩の力を抜く。
二人にとって懐かしい、しかし親しみ深い『金獅子亭』のいつもの味を提供するために。
これにて書籍化記念SSの投稿は終了です。
皆様、お付き合いいただきありがとうございました!




