最終話 その名は『永遠の愛』
「ふう……ジェラール様への王位の移譲も済んで、ようやく私の肩の荷も下りた」
「お疲れ様でした、あなた」
夜の帳の下りたルクレスト王城の一室、窓辺に設置されている小さなテーブルを挟んで、一組の夫婦が上物のワインを傾けていた。
一人はレオニード・シャルマー。このルクレストの前王であり、元公爵だ。彼の向かいに座っているのが妻であるバイオレット。元王妃である。
「ですが……ジェラール様は成人を迎えられたばかりの若き王。肩の荷を下ろすにはいささか早くありませんこと?」
「それを言われると私も何も言い返せないな。しかし……私たちで地盤は整えたのだ。現にあの方の味方は多い。まあ、あと二年……ジェラール様が二十歳になるまでは、私も多少のお節介は焼かせてもらうとしよう」
喉の奥で小さく笑ってから、レオニードはワインに口を付ける。舌先と唇を濡らしその芳醇な香りと味を堪能し、ふっ、と一つ息を吐いてから言葉を続けた。
「働き詰めで私も少々疲れてしまった。長めの休みをもらいたいところだな」
その言葉を聞いたバイオレットがそれならば、とレオニードにこんな提案をする。
「各地の視察という名目で旅行などいかがです?」
バイオレットの言葉にレオニードは一瞬だけ目を丸くすると、ニッと笑みを浮かべて「それはいい」と大きく頷いて同意した。
「まずは公爵領に戻ってラッシュの仕事ぶりを確認するのもいいかもしれんが……そうだ、ミスティの様子を見にアウロへ行くのはどうだ? 君の見たがっていたアウロポピーもこの時期に咲いていたはずだ」
「あら、それは良いですわね! あの子もアウロ男爵夫人となってまだ一年ほどですけれど、なかなかの辣腕をふるっているとオブサダン男爵夫人も仰っておりましたし、久し振りに会うのが楽しみですわ」
そう言ってバイオレットも優雅にワイングラスを傾ける。そして一口飲み込んでからほう、と息を吐き、感慨深く呟いた。
「……思えば、我が子たちはみんな私たちの手を離れてしまったのね」
「そうだな……ラッシュには早々に爵位を譲ってしまうこととなったし、エレンがノーヴァ・ディアーノ王妃となってもう四年だ。月日が経つのは早いものだな……」
二人は我が子らの成長を思い、しみじみと語り合う。
窓から差し込む真円を描く月の光がレオニードとバイオレットの横顔を照らす。二人は柔らかな表情を浮かべており、それはまさしく子を慈しむ親の顔だった。
***
ノーヴァ・ディアーノの王族の居住区にある談話室にて、金色の長い髪を緩く結い上げた女性が三人の子供たちに絵本の読み聞かせを行なっていた。この部屋にいる人物たちは皆柔らかく上質な夜着をまとっており、絵本の読み聞かせを終えればあとは寝るだけといった様子であった。
褐色の肌に艶やかな黒髪を持つ三人の子供たちは、大きな紺碧の瞳をキラキラと輝かせ女性がページをめくる様子を食い入るように見つめていた。そして物語が終わりに差し掛かろうかという時、三人の中で一番小さな男の子が、早く早くと続きをせがむように、女性のドレスの袖をくいくいと引っ張った。
袖を引かれた女性が子供たちへと視線を向けると、子供たちは丸くて大きな瞳で見つめ返して来た。女性はそんな子供たちを愛おしそうに見つめると、三人の頭を優しく撫でてから絵本の続きを読み始めた。
「……こうして『勇者』カイは、ファーティマのお姫様と結婚して幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
絵本の最後のページ、ウェディングドレスをまとい色とりどりの花のブーケを持つ姫を見つめるのは、幼いながらも将来凛々しくなるだろうという気配を漂わせている二人の男の子。そしてタキシード姿の『勇者』を見つめてうっとりしているのは、女性によく似た顔立ちの女の子だ。
女性がパタンと本を閉じると、子供たちが「あーっ!」と同時に声を上げた。
「かかさま! もういっかい! もういっかいごほんよんでください!」
子供たちの中で一番年長の男の子が、もう一回絵本を読んでほしいとと駄々をこねる。その言葉に続くように、残りの二人ももう一回、もう一回と女性にせがんだ。女性はそんな子供たちに困ったように微笑むと、一番初めに駄々をこねた子供を抱き上げて目線を合わせた。
「フィリップ、かかと約束しましたよね? ご本を読んだらもうお休みだって」
「う、うん」
「マリー、グスタフ、あなたたちも」
「うっ」
「は、はぁい……」
女性の言葉に子供たちはばつが悪そうに返事をする。三人とも、幼いながらも女性との約束はきちんと覚えてはいた。しかしまだ三歳の長男と二歳の双子の姉弟だ。幼さゆえに己の欲求を抑えられないのも仕方のないことだろう。
しゅんとしてしまった子供たちを見て罪悪感が募る女性。しかしこれも必要なしつけであるし、そもそも幼子が夜更かしをするのはいけないと心を鬼にする。その時、女性たちのいる談話室に一人の壮年の男性が入って来た。その男性は非常に背が高くがっしりとした体格の、褐色の肌と黒曜石のような瞳を持つ人物だ。瞳と同じ色の長い髪を背中に流し、女性や子供たちと同じように柔らかく上等な夜着をまとっている。
彼は女性と子供たちを視界に収めると、ふ、と表情を緩めた。優しい眼差しを女性たちに向ける彼の目元には、浅いしわが刻まれている。
「どうしたお前たち、元気が無いな」
男性の声に子供たちがはっと顔を上げると、丸い瞳を少しだけ潤ませた。
「ととさま……」
「ごほん、もっと……」
「でももうおやすみしなきゃ。かかさまとのやくそくだから……」
子供たちの話を聞いて、男性はなるほどと一つ頷く。そして彼も子供たちの元へと近付くと、目線を合わせるために片膝を付いた。
「そうか、かかとの約束ならば、今夜はもう寝なければならないな」
そう言って大きな手で三人の頭を優しく撫でる男性は落ち込んでいる子供たちを不憫に思ったのか、女性が傍に置いている本の表紙を見るとこんなことを言い出した。
「ふむ……『勇者物語』を読んでいたのだな。よし、それではととが『勇者物語』についてのとっておきの話をしてやろう」
とっておきの話という魅力的な言葉に、子供たちの機嫌はあっという間に良くなった。男性は「これを聞いたら今日はもう寝るのだぞ」と子供たちに言い聞かせると、ゆっくりと話を始めた。
「実はな……ととは『勇者』の友人……友達なのだ! どうだ、驚いたろう?」
「えー? ほんとうですか?」
疑いの目を向けてくる子供たちに「本当だとも!」と男性は大きく頷く。
「その証拠に、ととは『勇者』の相棒のロベルトのその後を知っているのだ。その本にはロベルトがどうなったかまでは書いていないだろう?」
「かいてない……」
「でも、ほんとうにととさまはロベルトがどうなったのかしっているのですか?」
「ああ、よーく知っている」
自信満々に頷く男性を見て、子供たちの目が今日一番輝いた。そして教えて教えての大合唱が始まると、男性と女性は互いに顔を見合わせ苦笑する。
「ほら、静かになさい。ととさまがお話しできないでしょう?」
女性の言葉に子供たちはぐっと口をつぐむ。その様子がなんだかおかしくて、男性と女性はまた小さく笑った。そして男性はわざとらしく咳払いをすると、子供たちに優しく語り掛けた。
「カイがファーティマのお姫様と結婚したように、実はロベルトも異国の綺麗な姫君と結婚したんだ」
「ロベルトもおひめさまとけっこんしたんだ!」
「すごーい!」
「ねえねえ、なんでえほんにはそのことがかいてないんですか?」
子供の純粋な疑問に答えたのは、男性ではなく女性の方だった。
「ロベルトさんは恥ずかしがり屋だから、自分のことはあまり人に教えたがらないのですよ」
女性のその説明に男性が微妙な表情を浮かべたが、子供たちはそれに気付くことなく盛り上がりわあっ、と声を上げる。そしてキラキラと瞳を輝かせると、きゃらきゃらと可愛らしい笑い声を響かせた。
「ロベルトってはずかしがりやさんなんだ!」
「だから、ほんにかいてない?」
「……むう、まあ、そうだな。だが今でも『勇者』カイとは親交があって、手紙のやり取りをしているのだぞ」
「そうなんだ!」
男性と子供たちがそんなやり取りをしている時、談話室の扉をコンコンと控えめに叩く音が彼らの耳に届く。そして年配の男性の穏やかな声が女性たちに掛けられた。
「陛下、王妃様、殿下らをお迎えに上がりました」
「ほら、爺やのお迎えも来たぞ。さあ、今日はもうお休みだ」
「はぁい……」
「ととさま、かかさま、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「はい、お休みなさい」
「ああ、お休みなさい」
子供たちが就寝の挨拶をしたのを確認して、男性は三人を連れて談話室の扉の前へと向かう。そして手ずから扉を開け、外に立つ人物に労いの言葉を掛けてから子供たちを預けた。
こうして、今まで賑やかだった談話室に静寂が訪れる。女性は閉じてしまった扉を見つめて小さく笑うと、今まで子供たちに読み聞かせをしていた絵本を本棚に戻すために立ち上がった。子供用の絵本ばかりが収められている小さな本棚の所定の位置に『勇者物語』を戻した女性は、そういえば、と男性に声を掛けた。
「フォウ様からの緊急連絡とはいったいなんだったのですか?」
「そうそう、聞いてくれ! フォウの奴め、魔道具まで使って連絡をして来たからどんな緊急の要件かと思いきや、仮の婚約者だった者がとうとう本当の婚約者になってくれたという完全に個人的な報告だったのだ!」
「あらあら、それはそれは」
怒っている風な口調の男性。しかし彼の目元口元は笑っており、本気で怒っているわけではない。女性もそれを理解しており柔らかく微笑んでいた。
「六年近く正式な婚約を結んでいなかったらしい。フォウもずいぶんと気の長いことだ」
先ほどの魔道具越しに聞こえた友人の声音がとても嬉しそうだったことを思い出してか、男性の声もつられて明るくなっている。こんなに嬉しそうな彼を見たのは女性も久し振りのことだった。だからだろうか、いたずら心がむくむくと芽生えてきた女性は、男性に見せつけるようにわざとらしく頰を膨らませた。
「もう、最近は私の前でもそのようなお顔をなさらないのに……フォウ様に嫉妬してしまいますわ」
女性が本気で言っていないことはもちろん分かっている男性は、彼女のいたずらに便乗するようにおどけた口調でこう言った。
「おや、それはすまない。しかし君も最近は子供たちばかり構って、私と過ごす時間が少なくなっているではないか」
「それはあなたがお仕事で忙しくしているからですわ」
「おっと、これは手厳しい」
そうして、二人は顔を見合わせて笑い合う。その表情は彼らの年齢よりも少しだけ若く見えた。そう、まるでお付き合い始めたばかりの恋人同士のような初々しい表情だった。
男性はふむ、と一つ頷くと「それでは君に機嫌を直してもらわないとな」と言って女性を優しく抱き寄せる。そして彼女の耳元に唇を寄せ、優しく甘く囁いた。
二人だけの『秘密の名前』を。
「愛してる、ディアナ」
「私もよ、ルベウス」
寄り添う二人の左手の薬指では、粒の小さいダイヤモンドとルビーがあしらわれた指輪が、月明かりを反射してささやかな光を放っていた。
***
後世の歴史家は語る。
現在では世界的な大国であるノーヴァ・ディアーノだが、その前身は一度邪竜によって滅ぼされたディアーノ王国。そのディアーノが奇跡の復興を遂げて大国となったのには、ノーヴァ・ディアーノの初代国王の妻である王妃の存在が大きいと。
王妃は独自の付加魔法を開発し、それを自国の付加魔法師に伝え広めた。そうしてノーヴァ・ディアーノは付加魔法大国となり、その地位を不動のものとしたのである。
ノーヴァ・ディアーノの発展に貢献した王妃だが、彼女は友好国であるルクレストの姫君であったと記録に残されている。しかし同時に、彼女は一時期平民となってその姿を隠していたのだという記述もいくつかの歴史書に記されているのだ。その記述はルクレストのアレスで編纂されたと思しき歴史書に特に多く残されており、そこにはノーヴァ・ディアーノでも老舗の食事処である金獅子亭の名前が出てくる。彼女はどうやらアレスにある金獅子亭の本店で給仕として働いていたようで、そこではこう呼ばれていたらしい。
食事処の付加魔法師と。




