#6 2人の絆
舞踏会の後、キャサリンは屋敷に戻ると、突然バラ園に向かった。
ルナが後を追うと、キャサリンは黒バラの前で佇んでいた。月明かりの下、彼女の顔には初めて脆さが見えた。
「母が植えたバラなの」
突然、キャサリンが口を開いた。
「彼女が亡くなる前の最後の春に。『あなたが寂しい時は、このバラを見てちょうだい』と言って」
ルナは息をのんだ。ヴァンデルフォート公爵夫人はキャサリンが10歳の時に亡くなったと聞いていた。
「母が亡くなってから、父は仕事に没頭し、兄は軍に入った。この屋敷には誰もいなくなった」
キャサリンの声は震えていた。
「そして人々は私を『悪役令嬢』と呼ぶ。でも、もし私が完璧で強くなくて、どうやって生き延びればいいの?どうやってこの屋敷を守ればいいの?」
ルナはゆっくりと近づいた。
「キャサリン様、強さにはいろいろな形があります。弱さを見せることも、時には勇気です」
「そんなこと言っても…」
「大学で心理学を学んだ時、ある教授がこう言いました。『最も堅固な鎧は、しばしば最も深い傷を隠すために作られる』と」
キャサリンはルナをじっと見た。
「あなたは…普通のメイドではないわね」
ルナはほほえんだ。
「前世では心理学を学ぶ学生でした。事故で死に、ここに転生しました」
驚くべき告白だったが、キャサリンは笑った。
「そんな馬鹿な…でも、妙に納得できるわ。あなたの観察眼は確かに普通じゃない」
二人は沈黙した。バラの香りが夜風に乗って漂ってきた。
「ルナ」
「はい」
「明日から…私のことをもう少し教えてくれない?その心理学というものを」
喜んで、キャサリン様。ただし、条件が一つあります」
「条件?」
「私がお話しすることを、誰にもおっしゃらないでください。そして、時には私の提案に耳を傾けてください」
キャサリンは一瞬考え、ゆっくりとうなずいた。
「わかった。約束する」
その瞬間、ヴァンデルフォート屋敷で何かが変わった。悪役令嬢と名高い公爵令嬢と、心理学の知識を持つ転生メイドの間に、不思議な絆が生まれた。
ルナは心に誓った。月本華としての知識と、ルナとしてのこの世界での経験を活かし、キャサリンが本当の自分を見つける手助けをしよう。彼女が「悪役令嬢」という仮面の下に隠した、本来の優しさと脆さを取り戻すために。
そしてキャサリンは、長い間閉ざしてきた心の扉を、ほんの少しだけ開き始めた。誰にも見せたことない弱さを、このメイドだけには見せてもいいかもしれない、と思い始めたのだった。
バラ園の黒バラは、月明かりの下で静かに輝いていた。その花弁には夜露が光り、まるで涙のようだった。それは亡き母の変わらぬ愛の証であり、これから始まる二人の物語の幕開けを告げる象徴でもあった。
屋敷の塔の時計が深夜零時を告げた。新しい日が始まり、新しい関係が芽生える瞬間だった。
「そろそろ中に入りましょう、キャサリン様。夜露でお身体が冷えます」
ルナが言うと、キャサリンは最後にもう一度黒バラを見つめ、深く息を吸った。
「そうね。明日から…よろしく頼むわ、ルナ」
「はい、お嬢様」
二人は肩を並べて屋敷へと戻っていった。月が雲の間から顔を出し、彼女たちの背中を優しく照らした。これから始まる道のりは長く、決して平坦ではないだろう。しかし今夜、少なくとも一人の令嬢が、孤独な戦いを終わらせる第一歩を踏み出したのだった。
黒バラはそよ風に揺れ、花弁を一枚、そっと落とした。それはまるで、亡き母からの祝福のようだった。




