鄢陥落
秦は歴戦の名将・司馬錯と白起に隴西の兵を動員させ、蜀から楚の黔中を攻めるように命じた。
隴西の地は大隴山の西の地域のことで、ここには元々冀戎、䝠戎、氐、羌が住んでいた。秦はここを数代にわたって開拓を行い、隴西郡を置いた。
「どのように戦いますかな。白起殿」
白い髭を撫でながら司馬錯は訪ねた。彼は若い頃から猛将と知られ、引くことを知らない人物とされた。しかしながら政治的駆け引きができないというわけではなく。ここでは宰相・魏冄の切り札というべき、白起を尊重した。
「楚は強兵なれど、その強さを活かす術を知りません。なので、策が必要でしょう」
「それはどのようなもので?」
「単純なものです。離反を誘います」
「離反ですか……」
楚は感情の国であり、秦に反感を持っている楚の者が果たしてこちらの離反に同意するだろうか。
「簡単には離反しません。本来であればですがね」
白起はこちらに進みつつある楚の将軍の一人の名が書かれている書簡を出した。
「なるほど、確かにこの者なら離反に応じるかもしれませんがね」
「ええ、しかし、私たちの仲間にするわけではありませんので、ご心配はなく。それは主上のご意志ではございませんから」
その書簡には荘蹻と書かれていた。
荘蹻とはかつて楚を震撼させた盗賊であり、一度は楚の都を落とすほどの勢いを持った男である。その彼はその勢いを恐れた楚が将軍にすることを条件に楚の将軍になることを要請したため、現在は楚の将軍である。
その彼の元に白起は書簡を送った。
「秦の将軍様は太っ腹だねぇ」
書簡を読んだ荘蹻はそう言った。
秦と楚は黔中の地で激突した。
秦軍を指揮する白起、司馬錯の両名は防戦を命じ、中々に攻勢に出ようとせず、楚軍は逆に秦軍を圧倒する勢いを見せた。
その時、楚の後方で騒ぎが起きた。突然、味方同士で戦い始めたのである。その後方での混乱に前方が気を取られた瞬間、秦の両将は一気に攻勢に出るように命じた。
秦軍の急な反撃に楚軍は混乱し、なすすべなく、敗北を喫した。
「いやはや、お見事、お見事」
楚の後方で混乱を起こした荘蹻が白起らの元に顔を出した。
「では、約束通り、ここいらの地域の王になってもよろしいのですな?」
それが白起らが離反を誘うために荘蹻に提示した条件であった。
「ああ、その代わり、楚の都・郢の情報をもらうぞ」
「ええ、もちろんのことです」
荘蹻はそう言うと郢の地形とその城内の詳しい内容が書かれた書簡を渡した。
「本物だな」
「もちろんです」
その瞬間、白起は彼の首を斬った。
「主上の愛すべき国に貴様のようなものはいらない」
ごろりと転がる首を見ながら白起はそう呟いた。だが、ここで白起は違和感を覚えた。
「どうされましたかな?」
司馬錯がそう尋ねると白起は天幕を出た。
「大悪人め」
その様子を遠くで見つめる者がいる。
「おや、もう気づいたか早いねぇ」
そう呟くのは首を斬られたはずの荘蹻である。彼は白起らの前に行って、殺されることを警戒し、影武者を出していたのである。
「騙し合いで盗賊が、負けるかよ」
彼はからからと笑う。
「さあずらかるぜ、おめぇら」
荘蹻は手下にそう命ずるとどこぞへと立ち去った。
さて、この敗北によって楚は漢水北(宛・葉・樊・鄧・隨・唐)と上庸の地を秦に譲ることで和睦を申し込んだ。
しかし、白起はこれを受けて魏冄に和睦に同意しないことを伝えると白起は黔中方面の平定、及びそのまま前進を続けるよう司馬錯に指示を出すと一度、秦に帰国した。
そして、準備させていた本来の自分の軍と副将・蒙驁と合流した。
紀元前279年
年が明けて、白起は武関を抜け、楚の瞬く間に鄧、西陵を取った。
「蒙驁」
「はい」
そこまで進んで、白起は彼を呼んだ。
「君は軍を二つに分けた一方を率いてもらう」
「よろしいのでしょうか。我々はこれから楚の誇る堅城・鄢を攻められるのでしょう?」
鄢は楚都・郢と併称して「鄢郢」とよばれる重要な地で、楚の西方における最大の防壁というべき城である。
「心配せずとも良い。数日前、我らへの幸運を主上は授けてくださってもいる」
白起は天に向かって祈りを授ける。
「詳しい話しを聞きたいのですが」
それに呆れながらも慣れてしまった自分が恐ろしいと思いながら蒙驁は聞いた。
「ああ、そうだな。確かに鄢は堅城だ。早々落とすことはできない。しかし、あの城には一つ致命的な欠点を抱えている」
「欠点?」
白起は頷きながら地図のある場所を指した。
「そこは……しかし、遠くありませんか?」
やろうとすることはわかる。しかし、距離の問題が絡んでいるように思えた。
「それをどうにかする欠点をこの城は抱えているということさ」
「もし、それを気づかれた場合は?」
「関係ない。中途半端に兵を分けて対応しようものなら、逆に陥落する速さを早めるだけ。君の動きを全力に止めようとすれば、私の軍がそのまま兵力の減ったここを減らすだけ。気づかなければ、そのまま策にはまる」
「なるほど、承知しました。謹んでお受けします」
「頼むよ」
こうして、白起はそのまま前進し、蒙驁は別働隊を率いて、ある場所に向かった。
「白起、迫る」
その報告を受けても鄢の城主は、
「しっかりと守りを固めれば、白起など恐れずに足らず」
と言って、守りを固めることに終始した。
「守りを固めている。ああ、主上の裁きを恐れるどころか気づくこともないとは」
白起は鄢城を見つめながらそう呟いた。
数日の間、白起率いる秦軍は鄢を攻めなかった。
「そろそろかな」
そう呟くと白起は指示を出した。
「おお、秦軍が、あの秦軍が退いていく」
鄢の城主は秦軍が攻撃も行わず、そのまま退却しようとしている姿を見て、喜んだ。
(おそらく国で何かが起こったに違いない)
そう考えた城主はこの隙を逃してはならないとばかりに城から軍を出した。
そして、城門から軍が出た後、閉じようとした時、大地を震わす音が聞こえた。
「なんだ、あれは」
なんと凄まじい濁流が城に向かって流れ出して来たのである。
「夷水(蛮水)の水か。しかし、あそことは百里も離れている。そんなばかな」
夷水は東に向かって沔水に合流する川である。確かにここ鄢と夷水の間には百里ほどの距離がある。しかし、夷水から鄢へは少し坂道となっており、水が流れるにはちょうど良い地形となっていた。
更に白起がここに来る数日前、大雨が降っている。そのため夷水の水は大いに溢れかえっていた。そこを白起の指示で派遣された蒙驁がそこの堤防を切り捨てたのである。
この濁流は城西から城東に向かって流れ、城内を淵のように深く水没させ、城内にいた百姓たちを城東の陂(池)に押し流した。
これによってもたらされた死者の数は数十万に上り、城東の陂に悪臭が漂ったため、臭池と呼ばれた。因みに悪臭とは、人の死体のことである。
さて、この事態を唖然として見るは城から出陣した軍である。彼等は先ほどまでいた城に濁流が襲いかかった様を呆然と眺めていた。だが、そのような隙を逃すような相手ではないことを彼等は忘れていた。
「これより行うのは虐殺ではない。慈悲だ」
白起は手を振るう。
「罪深き者たちを全てを清浄へと流す濁流に叩き落せ」
先ほどまで退却していた秦軍は一気に反転、呆然とする敵軍に襲い掛かり、そのまま濁流の中の藻屑に変えた。
こうして白起によって、楚の西方最大の守り、鄢は陥落した。同時にそれは楚の都・郢の喉元に刃を突きつけたことを意味した。
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