七
早めに動いたお陰で、少ないが昼食にはありつけた。これで、夕食までセアがひもじい思いをすることはないだろう。『お腹が空く』という感覚は、剣魔であるリズミには分からない。それでも、空腹がかなり辛いものであるということだけは、人間を観察していて理解していた。
〈今度は向こうの回廊を掃除しよう〉
昼食の前まで掃除をしていたステンドグラスの方へ向かおうとするセアを、制す。
〈左右同じように綺麗な方が、調和して良いんじゃないか? 今からだとあちら側は陽が入るし〉
首を傾げるセアにそう説明すると、セアは素直に頷き、雑巾と桶を持って東側の二階回廊に繋がる細い階段を上った。
西側のステンドグラスに比べ、東側のステンドグラスは、歴代女王の即位風景を描いているのだから、同じ構図の物ばかりである。真ん中に女王自身、その下に、女王が生んだ子供達が、女の子は長い紺色の服を、男の子は短い紺色の服を着て描かれている。女王が亡くなった時に作成されるので、ステンドグラスは先代女王セレーのものまでしかない。残りの壁の、女王のステンドグラスが嵌る場所には、幾何学模様のステンドグラスが嵌っている。二階回廊の、元老院の議場に一番近い側にあるセレー女王のステンドグラスの前に、セアは桶を置いた。
〈おや?〉
セアが拭き始めた、紺色の部分に、違和感を覚える。セレー女王の子供はヴェシオ王子だけなのだから、子供が一人しか描かれていないのは当然として、その子供の描かれ方が、おかしい。服の丈が長いのだ。王子は男の子であり、女の子ではない。何故だろう? リズミは思わず首を傾げた。そして。セレー女王の隣にある、セレー女王の母親を示すステンドグラスを見たとき、リズミの違和感は最高潮に達した。セレー女王の母親のステンドグラスに描かれた子供は、丈の長い服を着た子供が一人と、丈の短い服を着た子供が二人。女の子が一人と男の子が二人、だ。女の子がセレー女王であるとすると、エナ女王はどこに描かれているのだろうか? ステンドグラスの細工職人が忘れたということは、有り得ない。確かめるように、東側に描かれたステンドグラスを一つずつ見ていく。ステンドグラスを固定する金属部分に、見えないほど細くではあるが描かれた人物の名前が書かれていたので、家系図を作ることは意外に簡単だった。
〈……あれ?〉
家系図をどう描いても、セレー女王の時点で、女王位を継げる『女王の娘の娘』がセレー女王だけしかいなくなる。と、すると、……エナ女王は、どこから来たのだろうか? ステンドグラスの意味を知らないセアは、本当に真面目に掃除をしている。だが、リズミは、ステンドグラスが意味するところに混乱していた。
と。
人の気配に、はっとして顔を上げる。
いつの間にか現れたのだろうか、セアにガラクタ金属を差し出した件の少年が、謁見時に女王が座る椅子の前に陣取り、本を広げていた。
「……王子?」
セアも、少年に気付いたようだ。掃除を中断して、回廊を降りる。サボりたく、なったのか? リズミのセアに対する疑問は、しかし、良い形で裏切られた。
「王子、ここは埃っぽいですよ。暗いですし」
本を読む少年にそう声をかけるセアは、本当に少年を気遣っているように、リズミには見えた。
「本なら、元老院の開いている執務室で読んだらいいですよ。あそこなら、明るいし、静かだし、清潔だし」
だが、セアの気遣いに、少年は本から顔を上げてにこりと笑うだけ。動こうとすら、しない。仕方無く、セアは掃除を止めて少年の傍へ座った。
「……あれ、その紋章」
不意にセアが、少年の持つ本の表紙に触れる。少年が本を閉じたので、リズミの目にも、革表紙の本に押された一角獣の紋章がはっきりと、映った。その一角獣の紋章は、城壁ではためく旗に描かれた紋章とは、少しだけ違う。同じ一角獣だが、王錫を持っておらず、代わりに王冠を被っている。この、紋章は。思わず、息を吐く。……おそらく、先代女王セレーのものだ。少なくとも、王錫を持った一角獣を紋章とする現在の女王エナの持ち物ではない。
そっと、腰のベルトをまさぐる。そこに付けていた佩玉を、リズミはそっと握った。この佩玉は、セアから預かったもの。孤児院の玄関に捨てられていたセアが身に付けていた、セアの出自を示す大切なもの。苛めっ子達に取られるのを恐れたセアが、信頼するリズミに預けたもの。その佩玉に彫られているのも、王冠を被った一角獣。これは、何の一致だ? 悪い予感に、囚われる。セアの掛け替えの無い友人が望み、セア自身も望んでいたとはいえ、やはり、この王宮にセアを行かせたのは、間違いだった。リズミはそっと、舌打ちした。
リズミの焦燥に対し、セアの方は、佩玉に刻まれた紋章と本に描かれた紋章との一致にまでは考えが及ばなかったようだ。再び本を開いた少年が示した挿絵の方に興味を示している。そのセアの、どことなく楽しげな様子に、リズミはほっと胸を撫で下ろした。
次の日。セアとリズミが雑巾と桶を抱えて謁見の間に入ると、少年は既に昨日と同じ場所に陣取っていた。
これでは、掃除をすることはできない。リズミの横で吐かれたセアの息が聞こえてくる。そしてセアは、昨日と同じように少年の横に座った。
この少年は、どこからここに入って来ているのだろうか? 並んで床に腰を下ろしている二人を見ながらふと、疑問が湧く。この少年は、本当に、「王子」と呼ばれる身分の者なのだろうか? リズミがそこまで考えた、丁度その時。
「おや、ヴェシオ王子」
謁見の間と元老院を繋ぐ扉から、大きな声が響く。顔を上げると、恰幅の良い白髪の紳士が、リズミ達の方へ歩いてくるのが見えた。あの白髪には、見覚えがある。都の民や外壁を守る衛士達に演説をしているのを、しばしば見ている。元老院の議長を務める、王国でも屈指の貴族、クライス大臣、だ。
「ここにおられたのですか」
白髪の紳士クライスが、少年に頭を下げる。
こいつ、本当に『ヴェシオ王子』だったのか。リズミは正直驚いた。大臣クライスが言うのだから、間違いない。だが。……ヴェシオ王子なら、もう少し大きいはずだ。母であるセレー王子が亡くなったが、十年前なのだから。こんな七、八歳くらいの幼い王子では、絶対無いはずだ。やはり、噂通り、他国からの呪いの影響なのだろうか? それとも。……何らかの、リズミには推し量ることすらできない秘密が、あるのだろうか? リズミは思わず首を傾げた。
嘘をつく為政者は、多い。嘘をつくことができなければ為政者になれないとでもいうように。だが、ヴェシオ王子のことで嘘をつく理由が、エナ女王には無い。ミーゼス王国は『女王が治める国』だ。『女王の娘の娘』でないと女王にはなれない。男系の血を継ぐ者には、あの『石』を封じる『力』が無いのだ。だから、ヴェシオ王子には王国の継承権が、無い。権力から遠い王子に謀略を使っても、時間の無駄だ。
「そなたは?」
不意に、大臣クライスがセアの方を見る。セアははっとその場で固まると、ぎこちなく立ち上がり、どもりながら自分の名と、衛士であることを口にした。
「そうか」
あくまで真面目なセアを見て、大臣クライスの顔が綻ぶ。
「王子のこと、よろしく頼む」
セアの手を握り、クライス大臣は鷹揚に笑った。
だが。
生きて、いられるならば。去り際に小さく呟かれたクライスの言葉を、リズミは不吉にも聞き逃さなかった。