第五十五章 愛別離苦
お医者様は、怒るだろうか。
読まれているだろうな、と思いながら、セラは寒くなる方へ歩く。
見つかったら連れ戻されるから、あえて明け方近くを狙って出て来た。
今頃は目覚めてぎょっとしている頃だ――出て行く時にばれているかも知れないが。
戻る予定は書き置きしているし、止めても聞かないことが分かっているから、泳がされているんだろう。
以前のセラなら一日も掛からず踏破する道のりを、丸二日掛ける計算で出て来た。
国を横断出来そうなほどの旅装を揃えた。
必ず戻ると決めていた。逃げたままで、終わりには出来ない。
旅用の杖をついてふらふらとしながら、休み休み歩く。
距離だけで言えば大したことはないが、なにせ目的地は貧民街だ。
病み上がりを悟られる訳にはいかず、足早に抜けて物陰に身を潜める。
案外早くに着いてしまった。まだ夕方だ。
隠密らしく、じっと身を潜めて夜を待つことにした。
***
夜半。セラは物陰から這い出て、雨戸を閉めた窓を小さく叩く。
そして、貧血を起こして倒れる前にふたたび姿勢を低くした。
ゆったりと三度叩くのは、貴族の作法だ。
こんな真夜中に窓から訪ねておいて滑稽だが、彼女はこれでも礼儀に入れてくれるだろう。
中で人の動く気配がして、しずかに細く窓が開く。
姿を見せずとも、彼女は訪客を当ててくれるに違いない。
そんな気がした。
「どなた……?」
……スアラ。
漏れそうな息を飲み込む。
品のいい、細い声。
あの声で、ろくに療養もしない私を沢山心配してくれた。
「…………セラ?」
なんて……。風ですわよね。きっと。
自分に言い聞かせる言葉があまりにも寂しくて、気付けば名前を呼んでいた。
「……っ、セラっ?!」
ああ、本当に。本当に当ててくれた。
許されない思いが幾重にも、胸が詰まりそうだった。
「生きていたのですね」
「……探さないで、聞いてくれる?」
顔を見たら、本当に帰れなくなってしまう。
大切なものを、どちらか一方なんて選べるわけがない。
選ぶことができないから、選択肢に載せてはいけない。
「セラ、まって」
窓越しに、浅く息を吸う気配がした。
「わたくし……謝らなければならないことがあります」
わたくしね、と言った声は震えていた。
「知っていたの……知っていたのです。なのに何もしなかった。……貴女が、ふ、服の、下に、ばかり、怪我しているのを、わたくし、知っていたのです。でも何もしなかった。治療も、止めることも、何も!」
卑怯だったのですわ。どうしようもなく、臆病だった。
顔なんて見なくても分かる。
彼女は泣いている。
私が死んだと聞かされて、たくさん後悔したんだろうな。
受け止め方も分からなくて、半分他人事みたいな気持ちだった。
「変だとは……思っていたの。前線にいればそんなこともあるでしょうって、無理矢理、納得して、見ないようにしていたの、貴女が苦しんでいるのに。…………討手の話が出たとき、ようやく、取り返しのつかないことをしたのだと気づきました。……本当に、ごめんなさい。後悔したときには、遅すぎたのです。許して……」
怒ることじゃない。
責めることでもない。
スアラが謝ることじゃない。
けれど少しだけ辛かった。
スアラのそんな優しさが、……力のない、けれど無尽蔵な施しのような優しさが。
もしもあのとき、……いや、スアラはあの頃まだいなかった。
もしも彼女がもっと早くに秘密警察へ来て、もしも割って入ってくれていたなら、……そうしたらスアラまで、折檻されただろうか。
おなじように肌を焼き、皮膚を裂いて、あの白い傷ひとつない肌に、私と同じ傷を。
同じ目をして、破滅へ向かう。
殺戮の神の彼女に、ハッピーエンドはあり得ない。
想像して、胸が嫌にざわめいた。
「…………スアラが焼いてくれたアップルパイ」
「……え?」
「美味しかった」
本当は味なんて分からなかった。
でも貧民街の真ん中にある本部から少しも出ないスアラが、私のためにあれだけの材料を用意してくれた。
その努力にはきっと、名前がついている。
すすり泣く声だけが小さく聞こえる。
月が少し傾いて、青白い月光が正面からスアラを照らした。
「あのまま殺されていなくて、本当によかった。本当に……。ねえセラ、わたくしに、こんなことを言う資格はないけれど、……幸せになってね」
「私も、ある。……謝らないといけないこと」
「いいえ……よいの。貴女に謝っていただくことなんて一つもないの。ただ貴女が生きていてくださったなら、それだけでもう、……それだけで」
「あぁ、――――」
こぼれ出た溜息が、己を抉る。
なんで、この人が。なんで私たちだけ。
為政者がスアラのような人ばかりだったら、世界はもっと優しかったのに。
「思い残すことなんて、何もないの。……それは嘘ではないのです。けれど少しだけ、わがままを申してもよいでしょうか」
「なに?」
月に照らされた彼女が見える。
少し痩せて頬がこけ、隈ができている。
それでも、白百合がひとになったかのような佇まいは変わらない。
「正直に申し上げますとね、わたくし、この結末には少々不満ですの。
もちろん、貴族令嬢のままがよかったとは思いませんわ。あのころ、わたくしはお人形も同然でしたから。
けれど、これでよかったとも思えません。
……セラ、ひとつ、お願いがありますの。
わたくしがいたこと、ずっと覚えていてくださる?
そして、このハンカチを証拠にしていただきたいの。
お話するのも最後ですし、わたくしだって、どこにもいなくなりますわ。
少し怖いのですけれど……どうぞわたくしのこと、忘れないでくださいね」
「ずっと覚えておくために、ここへ来たの」
「ありがとう、セラ。ありがとう……。
ねえ、心優しい貴女には、もっと優しい場所が合っていますわ。
暴力やはかりごととは無縁の、花畑のような世界で、わたくしの分まで生きて」
車椅子に乗せられる前なら、根拠のない慰めだと思っただろう。
そんな世界が本当にあることを、私はもう知っている。
「……逃げよ、スアラ。あなたが生きられる所まで、私が連れて逃げる。あなたの知ってる花畑も教えてよ」
「ありがとう、セラ。……貴女だけですわ。わたくしを、友人として扱ってくださるのは。そうやってね、……夢を見せてくれるのも」
「夢じゃ、ないから」
しゃくり上げたのは、どちらだっただろう。
「だから--」
スアラが小さく首を振る。
「近ごろわたくし、悪夢を見ますの。
たいせつなはずのお仲間や、貴女のことを殺してしまう夢。
……わたくしね、人が亡くなるところを、見たことがなかったのです。
ただ恐ろしく、考えたくないものと思っておりました。
けれどいつしか、慣れて、しまって。
人が……生きものが生きているということが、その価値が分からなくなって参りました。
……リリアのせいかもしれません。
けれど、きっとそれだけではないのですわ。
貴女のことさえ、遠くないいつか殺してしまって、……養分にして……どうとも思わなくなるのですわ。
それがわたくしは、もっとも恐ろしい」
だからね、死ぬことなど、なんともないのです。
そう言って取り繕った微笑みは、笑顔には見えなくて。
言葉にしなきゃ伝わらないのに、吐ける言葉がひとつもない。
「セラ」
武器なんて触ったこともない手が、血に染まった私の手を取る。
「覚えていてくださいね。わたくしのこと、ずっとずっと覚えていて。
……約束してくださったなら、わたくし、きっと最期までやれる」
その声で胸がぎゅっと潰れた。
「……約束する。私、字が書けるの。
記録を書いて、遺せるの。
生きてる間、死んだ後にも、絶対ずっと覚えているから。
あなたが、スアラだってこと」
「……ありがとう、セラ。ありがとう……」
青白い月の雫が、ゆっくりと頬を伝う。
どこかに、月を湛えた泉があると思った。
きっと泣きたくなるほど美しいだろう。
「ありがとう、セラ。……もう、戻って。
わたくしはもう……充分です。だから、戻って。
貴女には待っていてくれる方がいるのでしょう?」
「でも」
「いいから。貴女が生きていて、伝えたいことも伝えられました。とても嬉しい言葉も頂けた。
これ以上なんて望みません」
「……ありがとう。ずっと気にかけてくれて」
「そんなの当然ですわ。貴女に不幸が降りかかるようなことが御座いましたら、化けて出てやります」
目尻に月光を残したまま、くすくすと笑う。
「……スアラ」
「はい」
今まで見た中で、一番に綺麗な笑顔だった。
「……さよなら」
「はい、さようなら」
一度振り返って、目が合う。
その微笑みを、私は死ぬまで思い出し続けるだろう。




