016:天正三年 四月中旬:智将
種子島の湊へ、一隻の船が入ってきた。
船から降り立った男は、しばらく岸に立ち、島の景色を眺めていた。
海。
砂浜。
集落。
そして、その向こうに広がる畑。
男は、何かを探すように周囲へ視線を巡らせる。
だが、急いでいる様子はない。
ただ、静かに見ている。
人の動き。
荷物の流れ。
建物の配置。
畑の様子。
海から戻ってくる漁師。
男の目は、そうしたものを一つひとつ拾っていた。
「……なるほど」
小さく呟く。
種子島へ来るのは初めてだった。
だが、ここへ来る前に聞いていた話と、実際に目にする光景には、いくつか違いがある。
特に気になったのは――井戸だった。
集落のあちこちに、人が集まっている。
水を汲んでいるのだ。
しかも、以前よりも水を得る場所が増えているらしい。
男は、少し離れた場所から井戸を眺めた。
「……これが、報告にあったものか」
続いて目に入ったのは、長屋だった。
粗末ではある。
だが、一定の間隔で建てられ、何人もの人間がそこで暮らしている。
近くでは畑仕事をしている者たちの姿もある。
さらに目を向ければ――。
鶏がいる。
牛もいる。
以前より食事事情が良くなったという話も聞いている。
単独で見れば、どれも大したことではない。
井戸。
長屋。
畑。
家畜。
食事。
しかし――。
男は目を細めた。
「……繋がっているな」
一つひとつの変化が、独立して起きているわけではない。
水があれば、人が住める。
人が住めば、働ける。
働ければ、畑を作れる。
畑ができれば、食料が増える。
食料が増えれば、暮らしが安定する。
暮らしが安定すれば、人がさらに集まる。
そして人が集まれば、物が動く。
男は、そうした流れを頭の中で組み立てていった。
「面白い島だ」
その呟きは、誰にも聞かれることなく潮風へ溶けていった。
男がさらに歩いていると、商人らしき男と話している人物が目に入った。
山田次郎。
報告書に何度も名前が出ていた男だった。
男は足を止めた。
遠くから見る。
次郎は、商人らしき男と何かを話している。
あの男が、御用商人の川上宗貫なのだろう。
男は、しばらく二人の様子を眺めていた。
手には紙。
そこへ何かを書き込んでいる。
川上が頷く。
次郎が説明する。
また川上が何かを尋ねる。
そのやり取りを、男はしばらく眺めていた。
「……あれが、山田か」
想像していた人物とは少し違った。
もっと大仰な人物かと思っていた。
だが、実際には普通の男に見える。
少し疲れたような顔。
整えられていない髪。
それでも、目だけは妙に鋭い。
「……」
男は、その場を離れた。
今はまだ、話しかける必要はない。
まずは見る。
それから考える。
それが、この男のやり方だった。
翌日。
次郎が岸を歩いていると、見覚えのない男が近づいてきた。
身なりは商人風。
年齢は四十前後に見える。
「山田様、でごわすか?」
「はい。そうですが」
「私は商いをしております。少し、この島のことを知りたくて」
「この島のこと?」
「ええ」
男は笑った。
「最近、種子島の様子が少し変わったと聞きましてな」
次郎は、少しだけ警戒した。
「……何が知りたいんです?」
「井戸でごわす」
いきなりだった。
「井戸?」
「はい。以前より、水を得る場所が増えたように見えもす」
「まあ……そうですね」
「なぜ増やしたので?」
次郎は少し考えた。
「人が水を必要とするからです」
「それだけで?」
「それだけ、と言えばそれだけです」
次郎は答えた。
「でも、水がなければ生活は安定しません」
男は頷いた。
「では、長屋は?」
「住む場所が必要だからです」
「なぜ、まとめて住まわせるので?」
「仕事をしてもらうためです」
「仕事を?」
「はい」
次郎は簡単に説明した。
生活を支える。
働く場所を作る。
食事を用意する。
住む場所を確保する。
その上で、人に働いてもらう。
男は黙って聞いていた。
「……なるほど」
「何か?」
「いや。面白いと思いまして」
男は笑った。
「人を集めるために住まいを作る。働いてもらうために食事を用意する。食べてもらうために農業を整える」
「まあ、そういうことになりますね」
「では、農業を整えるためには?」
次郎は少し考えた。
「水です」
「水が必要になる」
「ええ」
「ならば――最初の井戸から、すべてが始まった?」
「……必ずしもそうではありません」
次郎は首を振った。
「何か一つだけが原因というわけじゃないんです」
「ほう」
「いろんなものが少しずつ影響しています」
男の目が僅かに細くなった。
「なるほど」
次郎も、相手を見た。
この男。
ただの商人ではない。
質問が妙に鋭い。
だが、嫌な感じはしなかった。
むしろ――。
話していて、妙に頭が整理される。
「では、あなたなら?」
次郎が逆に尋ねた。
「何を見ます?」
男は一瞬だけ黙った。
「……人でごわす」
「人?」
「井戸ができても、使う人がおらねば意味がない。畑ができても、作る人がおらねば意味がない。物ができても、運ぶ人がおらねば動かない」
「なるほど」
次郎は頷いた。
「人の流れを見るんですね」
「山田様は、物の流れを見る」
「……そうかもしれません」
二人は顔を見合わせた。
「面白いですね」
「ええ」
短い言葉。
だが、その間には妙な手応えがあった。
それから二人は、さらに話を続けた。
農業。
水。
畜産。
漁業。
商い。
一つの話題から、次の話題へ。
「牛を増やせば、肉だけでなく肥料も増えます」
「肥料が増えれば、畑の収穫も増える」
「収穫が増えれば、人が食べられる」
「余れば売れる」
「売れれば金になる」
「金があれば、別の物を買える」
「物が入れば、さらに人が働ける」
「……」
「……」
二人とも、いつの間にか立ったまま話し込んでいた。
質問。
回答。
また質問。
そして回答。
まるで、互いの頭の中を覗き込むようだった。
少し離れた場所で、その様子を見ていた弥助が首を傾げる。
「……なんか、睨み合っちょらんか?」
権兵衛も二人を見る。
確かに、険しい顔をしている。
だが――。
「いや」
権兵衛は首を振った。
「喧嘩ではなか」
「そうなんでごわすか?」
「……分からん」
「分からんと?」
「じゃが、二人とも楽しそうではある」
「……あれで?」
二人は、ほぼ同時に問いを投げている。
そして、ほぼ同時に答えている。
周囲から見れば、どう考えても角を突き合わせているようにしか見えない。
だが当人たちは――。
「なるほど」
「そういうことですか」
「では、こちらは?」
「それなら、こうなります」
いたって真面目に、楽しく話していた。
話が一段落したころ。
男は、ふと次郎へ尋ねた。
「山田様は、これから何をするおつもりで?」
「まだ決めていません」
「まだ?」
「やりたいことは多いんですけどね」
次郎は苦笑した。
「水も、農業も、海も、畜産も。やることが多すぎます」
男は、その答えを聞いて少し黙った。
そして――。
「……あなたは」
「はい?」
「この島を、どうしたいので?」
次郎は、すぐには答えなかった。
海を見る。
畑を見る。
人を見る。
そして、静かに言った。
「豊かにしたいですね」
「豊かに?」
「はい」
次郎は頷いた。
「ただ、金持ちにするという意味じゃありません」
「では?」
「人が死なずに済む島にしたいんです」
男の表情が変わった。
次郎は続ける。
「食べるものがある。水がある。病気になっても、少しでも助かる。仕事がある。家がある」
「……」
「そういう島です」
男はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「なるほど」
それ以上、何も言わなかった。
男が帰ったあと。
権兵衛は腕を組んだまま、男の去っていった方角を見つめていた。
「……あやつ」
「うん?」
「只者ではない」
「やっぱり?」
「うむ」
それだけ言うと、権兵衛は口を閉じた。
何がどうとは、うまく言葉にできない。
ただ――。
あの男には、何かがある。
そう感じた。
「……まあ、山田殿が楽しそうだったから、よかろう」
「そっち?」
弥助が首を傾げる。
権兵衛は答えなかった。
ただ、遠ざかっていく男の背中を、しばらく静かに見送っていた。
その翌日の夕刻。
次郎は時尭に呼び出された。
「山田様、こちらへ」
小姓に案内され、次郎は廊下を進んでいく。
やがて、普段とは違う大きな広間へ通された。
「こちらで、お待ちください」
「……はい」
小姓が一礼して下がる。
次郎は、その場に座した。
「……」
落ち着かない。
いつも時尭と話すときは、もっと気楽だった。
私室へ呼ばれ、茶を飲みながら話すこともある。
時には、他愛のない話で笑うことさえある。
だが、今日は違う。
ここは、いつもの私室ではない。
広い。
妙に広い。
高い天井。
広々とした畳。
何人もの人間を迎えられるような、大きな広間。
「……なんだ、この緊張感」
次郎は小さく呟いた。
別に悪いことをしたわけではない。
それでも、場所が変わるだけで、身体が勝手に強張る。
やがて――。
襖が開いた。
次郎は反射的に頭を下げた。
「――!」
時尭が入ってきた。
「山田」
「はっ」
「面を上げよ」
「失礼します」
次郎はゆっくりと顔を上げた。
「……」
まず、時尭の顔を見る。
いつもの時尭だ。
だが――。
「……ん?」
その視線が、時尭の横へ移った。
そこに、もう一人いる。
きちんとした身なりをしている。
見覚えがあるような、ないような――。
「……」
次郎は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
どこかで見たような気がする。
だが、思い出せない。
誰だったか。
「……あれ?」
もう一度、男の顔を見る。
どこかで見たことがある。
「……あ」
思い出した。
昨日、話した男だ。
「……昨日の人?」
男の口元が、僅かに上がった。
それを見た瞬間、次郎は確信した。
「……え?」
昨日の商人。
あの鋭い質問を次々と投げてきた男。
井戸のこと。
農業のこと。
人のこと。
物のこと。
「……まさか」
次郎が呆然と男を見つめる。
時尭は、そんな次郎の反応を面白そうに眺めていた。
「気づいたか」
「……はい」
「昨日の男じゃ」
「……」
次郎は、まだ頭の整理が追いついていなかった。
時尭は二人を見比べる。
「昨日、随分と話が弾んだそうじゃな」
「誰から聞いたんです?」
「それはよい」
時尭は笑った。
「せっかくだ」
そして、男へ視線を向ける。
「お前も、山田と話してみたかったのであろう?」
男は静かに一礼した。
「はい」
時尭は、楽しそうに二人を見る。
「ならば――」
一拍。
「ここで、存分に話してみよ」
「……ここで、ですか?」
「うむ」
時尭は頷いた。
「昨日の続きをな」
次郎は、改めて男を見る。
男も、次郎を見る。
昨日と同じ、鋭い目。
だが――。
どこか楽しそうでもある。
「では、改めまして」
男が静かに口を開いた。
「島津歳久にございます」
「……島津?」
次郎の目が見開かれた。
その名を知らないわけではない。
戦国時代の九州を語る上で、島津という名はあまりにも大きい。
だが――。
目の前の男が、その島津の人間だとは思っていなかった。
しかも。
「歳久……」
その名を聞いても、次郎の頭の中に人物像が浮かぶわけではない。
現代の知識として、島津という戦国大名の名は知っている。
だが、四兄弟のことまで詳しく知っているわけではなかった。
次郎は、改めて目の前の男を見る。
昼間の問い。
井戸。
農業。
人。
物。
そして――。
人が死なずに済む島。
あの質問の一つひとつが、今になって別の意味を持ち始めていた。
「……なるほど」
次郎は、小さく息を吐いた。
歳久は、静かに次郎を見ている。
その目には、あの時と同じ鋭さがあった。
時尭は、そんな二人を見比べる。
「山田」
「はい」
「こやつと、少し話をしてみよ」
「……分かりました」
次郎は頷いた。
そして、歳久もまた小さく頷く。
昨日とは違う。
今度は、互いに正体を知った上で向き合う。
それでも――。
二人の間にある空気は、どこか変わらなかった。
正体を知ったからといって、話しにくくなるわけではない。
むしろ――。
まだ聞きたいことが、互いにいくつも残っていた。
次郎は、目の前の男――いや、島津歳久を見つめる。
歳久もまた、次郎を見つめている。
ほんの一日の出会いだった。
それなのに。
互いの中には、すでに一つの確かな感覚が生まれていた。
――この男とは、もっと話せる。
――この男なら、もっと面白い話ができる。
二人とも、まだ口には出さなかった。
ただ、その予感だけが静かに残っていた。




