015:天正三年 四月中旬:島津
――薩摩国。
島津家の屋敷では、今日もいくつもの報告が行き交っていた。
戦のこと。
領地のこと。
年貢のこと。
そして――遠く離れた島のこと。
「こちらが、種子島からの報告にございもす」
目付けの男が、一通の書状を差し出した。
受け取った義久は、黙って目を通していく。
最初は、いつもの報告と変わらなかった。
天候。
作柄。
港の様子。
船の往来。
だが――。
「……井戸?」
義久の眉が僅かに動いた。
種子島では、新たな井戸が掘られている。
それだけなら、さほど珍しい話ではない。
しかし、その井戸をきっかけにして、島のあちこちで変化が起きているらしい。
水の確保が容易になった。
畑が増えた。
家畜の飼育も盛んになっている。
さらに、貧しい者たちを集めて住まわせる長屋まで作られているという。
「……随分と変わったな」
義久が呟く。
目付けは静かに頷いた。
「はい。ここ最近、種子島では目に見えて、人々の暮らしが変わっちょるようにございます」
「誰が指揮しちょる?」
「それが……」
目付けは、少し言葉を選んだ。
「山田次郎という男にございます」
「山田次郎?」
義久が顔を上げる。
「はい。種子島家の客人として迎えられちょる男で、川上宗貫とも頻繁に行動を共にしているとのこと」
「どこの者だ?」
「詳しい出自は、まだ分かっておりませぬ」
義久は書状へ視線を戻した。
井戸。
農業。
家畜。
長屋。
商い。
一つひとつなら、大したことではない。
だが、それらが同じ時期に動き始めている。
それが気になった。
「……他には?」
「新しい道具を作っているとの話もございます」
「道具?」
「はい。詳しいことまでは分かっておりませぬ。ただ、鍛冶職人や船大工、農民など、様々な者たちと話をしているとのことでございます」
「一人の男が?」
「そのように」
義久は、しばらく黙った。
やがて書状を閉じる。
「引き続き調べよ」
「はっ」
目付けが下がっていく。
その一部始終を、少し離れたところから見ている男がいた。
島津歳久。
兄・義久のように表立って政務を取り仕切るわけではない。
兄・義弘のように戦場で槍を振るうわけでもない。
だが、人の動きや情報の流れを見ることにかけては、歳久なりの才があった。
先ほどの報告。
その中に、どうしても気になる名前があった。
――山田次郎。
歳久は、兄の手元にある書状をちらりと見た。
「……」
井戸を掘った。
農業を変えた。
長屋を作った。
家畜を増やした。
商人と動いている。
職人とも話をしている。
一人の人間が、それだけのことに関わっている。
歳久の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「……妙な男だな」
その頃、種子島。
次郎は、屋敷の庭先で子供たちに囲まれていた。
「もう一度やってみましょう」
「はい!」
「今度は、もっと強く押してください」
「こう?」
「そう。そのまま離さないで――」
ぽんっ!
小さな音とともに、丸い木片が飛んだ。
的に当たる。
「当たった!」
「おお!」
子供たちが歓声を上げる。
次郎も笑った。
「上手くなりましたね」
手にしているのは、短い竹筒だった。
長さは三十センチほど。
竹筒の中に空気を溜め、圧力を利用して小さな木片を飛ばす。
次郎が作った、簡単な遊び道具である。
「もう一回!」
「順番ですよ」
「次、俺!」
「押すのはゆっくりです。急にやると、うまく飛びません」
子供たちが次々と試していく。
少し離れたところでは、綾も楽しそうに眺めていた。
「山田様、私も!」
「綾殿はさっきやったでしょう」
「もう一回です」
「……仕方ないですね」
綾が竹筒を受け取る。
ぎゅっ。
空気を押し込む。
ぽんっ!
木片が飛んだ。
「やった!」
「上手です」
その光景を――。
少し離れた屋敷の陰から、ひとりの男が見ていた。
頭には笠。
衣服も質素なものに変えている。
顔立ちを隠すようにして、男はじっと庭を見つめていた。
――時尭である。
「……」
本当なら、自分も混ざりたい。
子供たちが楽しそうにしている。
綾も笑っている。
次郎も、いつものように妙な道具を作って遊んでいる。
時尭は、ほんの少し身体を乗り出した。
「……面白そうじゃのう」
だが、すぐに姿勢を戻す。
遊びに行くわけにはいかない。
今は、見るために来たのだ。
竹筒。
木片。
空気。
それだけを見れば、ただの遊びだ。
だが――。
時尭は、次郎を知っている。
この男が作るものは、時として遊びの形をしていても、別の使い道を持ってしまう。
だからこそ、目を離せなかった。
子供の一人が竹筒を構える。
ぽんっ!
木片が飛ぶ。
時尭の目が細くなる。
飛ぶ。
確かに飛んでいる。
しかも、火も火薬も使っていない。
「……」
時尭は腕を組んだ。
そして、少しだけ眉間に皺を寄せる。
これは危険なのか。
それとも、本当にただの遊びなのか。
次郎自身に悪意がないことは分かっている。
それでも――。
「……わしが、外へ出すわけにはいかん」
小さく呟く。
種子島の中なら、自分の目が届く。
何かあれば止められる。
だが、島津へ行けば違う。
次郎の知識を面白がる者。
利用しようとする者。
そして――恐れる者。
そのすべてから、時尭が守れるとは限らない。
時尭は、しばらく庭を眺めていた。
本当なら、あの中へ入って一緒に遊びたい。
だが――。
今日は我慢する。
「……」
時尭は踵を返した。
朝。
織部が次郎のもとを訪れた。
「山田。今日は登城してもらう」
「登城ですか?」
「うむ。時尭様がお呼びじゃ」
「分かりました」
次郎は織部とともに屋敷を出た。
城へ着くと、そのまま時尭の私室へ通された。
「失礼します」
部屋には、時尭が待っていた。
「……」
「……」
「……」
静かな時間が流れる。
時尭は何かを考えているらしい。
その身体が、ふわりと沈んだ。
ぽすん。
次郎がちらりと見る。
時尭の下には、以前次郎が作ったクッションがある。
座布団として使えるよう、再び仕立て直したものだった。
時尭は腕を組んだまま、ほんの少し身体を揺らす。
ふわ。
ふわ。
「……」
また少し沈む。
ぽすん。
どうやら座り心地を確かめているらしい。
織部が横目で見る。
「殿」
「なんじゃ」
「何をされちょるので?」
「考えておる」
「……考えながら跳ねる必要が?」
「ない」
時尭は即答した。
そして、また少し揺れた。
ふわっ。
「……」
織部は何も言わなくなった。
次郎も、見なかったことにする。
やがて時尭が口を開いた。
「山田」
「はい」
「お前は、もうすぐ島を出ることになる」
次郎は黙った。
「島津へ行く話ですか?」
「うむ」
時尭は頷いた。
「まだ決まったわけではない。だが、お前が島津へ行く可能性は高い」
「……はい」
「そこでじゃ」
時尭の表情が変わる。
「わしは、お前を守れん」
「……」
次郎は息を呑んだ。
「ここ、種子島ならば、わしの目の届くところに置いておける。織部もおる。川上もおる。お前のことを知っている者も増えた」
時尭は一度、言葉を切った。
「じゃが、島津へ行けば、人が多い」
「……そうですね」
「お前の知識を欲しがる者も出るじゃろう」
織部が続ける。
「そして、知識を欲しがる者ばかりとは限らん」
次郎は黙って聞いていた。
「知らぬものを持つ者を、恐れる者もおる」
「……」
「特に、お前は鉄砲のことまで知っておる」
次郎の表情が僅かに曇った。
先日の鍛冶場を思い出す。
「……はい」
時尭は、そんな次郎を見ていた。
「だからこそ、身の上を考えねばならん」
「身の上?」
「お前が未来から来た男だということは、誰にも知られてはならん」
次郎は頷いた。
それは最初から分かっていた。
「では、どうするんです?」
時尭は、織部へ目を向けた。
織部が頷く。
「一つ、話をこしらえる」
「話?」
「山田は、南蛮で育った研究者だった――ということにする」
「……南蛮育ち?」
次郎が聞き返す。
「うむ」
織部は淡々と説明する。
「幼い頃から南蛮人に囲まれて暮らし、異国の学問や技術を学んだ。それゆえ、この日ノ本の者には珍しい知識を持っている」
「なるほど……」
「その後、学んだ知識を広めるために日ノ本へ渡ってきた――そういうことにする」
「はい」
「お前の知識をすべて説明できるわけではない」
織部は肩をすくめる。
「じゃが、何も説明がつかんよりはましじゃ」
次郎は少し考えた。
「研究者、というのは?」
「学問をする者、とでも言えばよい」
「……それなら、まあ」
次郎は苦笑した。
「実際、大学で研究していましたからね」
「大学?」
「……南蛮の学問所、ということにしておきましょう」
「うむ」
時尭が頷いた。
「重要なのは、細かい辻褄ではない」
時尭は、次郎をまっすぐ見た。
「お前が何者なのかを、余計な者に探らせぬことじゃ」
その言葉には、領主としての強い意志があった。
「わしは、お前を島津へ送り出すことになるかもしれん」
「はい」
「じゃが――」
時尭の声が低くなる。
「送り出した後まで、わしが守ってやれるとは限らん」
次郎は、しばらく黙っていた。
これまで、種子島では何かあれば時尭がいた。
織部がいた。
川上もいた。
自分の身近にいる者たちが、いつの間にか増えていた。
だが、島津へ行けば違う。
自分は、完全な異邦人になる。
「……分かりました」
次郎は頷いた。
「その設定でいきましょう」
時尭の表情が少しだけ緩んだ。
「うむ」
「ただ……」
「何じゃ?」
「南蛮育ちの研究者って、かなり怪しくないですか?」
「「「……」」」
織部が黙った。
時尭も黙った。
次郎も黙った。
三人の間に、妙な沈黙が落ちる。
やがて織部が、
「……細かいことは気にするな」
と呟いた。
「いや、そこは気にした方がいいでしょう」
「山田」
「はい」
「世の中、細かいことを気にしていたら生きていけんぞ」
「殿が言うと説得力がありますね」
「そうじゃろう」
織部が吹き出した。
次郎も笑う。
だが、笑いが収まると、時尭は再び真剣な顔になった。
「山田」
「はい」
「島津へ行っても――無茶はするな」
「……善処します」
「善処では困る」
どこかで聞いたことのある台詞だった。
次郎は苦笑する。
「……分かりました」
「よし」
時尭は満足そうに頷いた。
そしてまた、クッションの上で少しだけ身体を揺らす。
ふわ。
「……」
織部が見た。
次郎も見た。
時尭は二人の視線に気づくと、何事もなかったように腕を組んだ。
「――よし。今日はもうよい。戻れ」
「分かりました」
次郎が立ち上がりかけた、そのときだった。
「あ!」
時尭が、何かを思い出したように声を上げる。
「次郎、あの竹の鉄砲を献上せよ」
「……空気鉄砲ですか?」
「うむ。それじゃ」
時尭は、妙に嬉しそうだった。
「城に置いておく」
「……」
次郎は、時尭の顔を見つめた。
どう考えても――。
遊びたいだけである。
「……分かりました」
次郎は苦笑しながら頷いた。
その背中を見送りながら、時尭は小さく息を吐いた。
守る。
自分にできる限り。
だが――。
その手が届かなくなる場所へ、次郎は進もうとしている。
だからこそ、今できることをしておかなければならなかった。
その頃――。
歳久は、再び種子島から届いた報告に目を通していた。
新しい井戸。
長屋。
農地。
家畜。
商い。
そして――山田次郎。
歳久は紙を指先で軽く叩く。
「……妙だ」
ただ技術を持っているだけの男なら、ここまで島全体を動かすことはない。
ただの学者でもない。
商人でもない。
武士でもない。
それなのに、農民も職人も商人も、次郎の周囲で動いている。
「人を動かしている……のか?」
歳久は考える。
だが、報告書だけでは分からない。
ならば――。
「……自分の目で見るしかないな」
歳久は立ち上がった。
「種子島へ行く」
周囲の者が驚く。
「歳久様、自らでございますか?」
「ああ」
歳久は微笑んだ。
「少し、気になる男がいる」
その言葉に、控えていた目付けが一礼した。
「では、もう一つだけご報告がございます」
「まだ何かあるのか?」
「はい。山田次郎が、子供たちと妙な遊びをしているそうにございます」
「妙な遊び?」
歳久が振り返る。
「竹筒のようなものを使っているとのことです」
「竹筒……?」
「はい。何やら、物を飛ばして遊んでいるとか」
歳久は首を傾げた。
「……吹き矢のようなものか?」
「いえ、それが……」
目付けは困ったように言葉を濁した。
「どうやら、鉄砲のようなものだそうにございます」
「鉄砲?」
歳久の眉が僅かに動く。
「火薬は?」
「使っておらぬようです」
「……では、どうやって飛ばす?」
「それが、分からぬのです」
目付け自身も首を捻っている。
「子供たちは『くうきてっぽう』と呼んでいるそうでございます」
「…………」
歳久の思考が、一瞬止まった。
「くうきてっぽう?」
「はい」
「鉄砲なのか?」
「分かりませぬ」
「火薬は?」
「使わぬようです」
「では、なぜ鉄砲と呼ぶ?」
「それも……」
目付けは答えられなかった。
歳久は黙った。
報告書へ目を落とす。
井戸。
長屋。
農地。
家畜。
商い。
そして――くうきてっぽう。
「……妙な男だ」
先ほどまでの言葉とは、少し違う声音だった。
歳久の目に、明らかな好奇心が宿っている。
「ますます、気になる」
「では、種子島へ?」
「ああ」
歳久は頷いた。
「この目で確かめる」
種子島から遠く離れた場所で、一隻の船が南へ向かっていた。
その船上に、男の姿がある。
風を受け、帆が膨らむ。
ざあっ……。
波が船腹を叩く。
男は、静かに水平線を見つめていた。
――山田次郎。
いったい、どのような人物なのか。
報告だけでは分からない。
だからこそ、自分で確かめる。
そして――。
種子島へ着いたなら。
まずは遠くから見る。
話すのは、それからでいい。
男は、そう考えていた。
だが、その慎重な判断が――。
後に、自分自身を大いに困らせることになるとは。
このときの男は、まだ知らなかった。




