012:天正三年 四月上旬:感謝
次郎が畜産について調べ始めたきっかけは、実に単純なものだった。
――肉が食べたい。
正確には、自分が食べたいというよりも、この島で暮らす人々に、もう少し食べるものの選択肢を増やせないかと思ったのである。
米がある。
魚も獲れる。
野菜も少しずつ作られている。
だが、それだけではない。
牛や馬がいる。
鶏もいる。
ならば――。
「……せっかく飼っているんですから、食べることも考えてみませんか?」
次郎がそう口にした瞬間。
その場にいた者たちが、一斉に顔を見合わせた。
「食べる……?」
「牛を、でごわすか?」
「いや、牛馬は働かせるものでしょう」
「鶏なら……卵を取るものじゃが」
次郎は、なるほどと思った。
家畜はいる。
しかし、家畜を食料として積極的に利用するという発想は、少なくともこの場にいる者たちには馴染みが薄いらしい。
「働かせる牛馬を、全部食べようという話ではありませんよ。増やせるものは増やして、食べられるものは食べる。それだけです」
「なるほど……」
織部が腕を組む。
「働かせるものと、食うものを分ける、ということか」
「はい」
次郎は頷いた。
「それに、肉だけじゃありません。卵もあります」
「卵?」
「ええ。鶏をきちんと飼えば、卵は毎日のように得られます」
その言葉に、今度は女たちが反応した。
「毎日のように……?」
「鶏の数を増やせば、それだけ卵も増えます」
次郎は、頭の中で簡単な循環を描いていた。
家畜。
餌。
卵。
肉。
糞。
肥料。
畑。
そして、また餌。
「家畜を飼うというのは、肉を得るだけではありません。糞も肥料になります。畑で作物を育て、その作物の一部を家畜の餌に回すこともできます」
「……」
川上が黙り込んだ。
いつもの顔だ。
商いの匂いを嗅ぎつけたときの顔である。
「人が働けば、物が動く。物が動けば、金も動く……」
「川上さん?」
「いえ、なんでもごわはん」
目が完全に商人の目になっていた。
まずは鶏から始めることになった。
卵を産む鶏を増やし、餌を与え、水を清潔に保つ。
次郎は鶏舎の様子を見ながら、飼育環境についていくつか改善案を出した。
雨が入り込まないようにする。
風通しを良くする。
糞を溜めすぎない。
水入れを清潔にする。
餌を安定して与える。
どれも、特別な技術ではない。
だが、毎日続けることが重要だった。
「こういうものは、一度作って終わりじゃありません」
次郎は鶏を眺めながら言った。
「毎日、少しずつ世話をする。そうすれば、少しずつ結果が返ってきます」
「人と同じじゃな」
綾が、しゃがみ込みながら鶏を眺めていた。
「毎日ちゃんと食べて、ちゃんと寝る」
「そうですね」
「じゃあ、山田様もちゃんと寝ないといけませんね」
「……」
次郎の動きが止まった。
「……善処します」
「善処じゃなくて、ちゃんとです」
「はい……」
横で見ていた織部が、吹き出した。
「綾には敵わんのう」
数日後。
鶏から取れた卵が、籠いっぱいに集められた。
「これだけあれば、いろいろ作れますね」
次郎は卵を手に取った。
そして、もう一つ必要なものを思い出す。
「油はありますか?」
「油でごわすか?」
「ええ。植物油です」
川上に尋ねると、いくつか種類があるという。
「それなら大丈夫です」
次郎は卵を割った。
黄身と白身を分ける。
そして黄身に酢と塩を加える。
「これを混ぜます」
器の中で、ゆっくりと攪拌する。
そこへ、油を少しずつ垂らしていく。
最初はさらさらだったものが、少しずつ白く濃くなっていく。
「……なんじゃ、こいは」
「まだ途中です」
油を少し。
また混ぜる。
また少し。
やがて、なめらかで濃厚なソースになった。
「これが、マヨネーズです」
「まよ……?」
綾が首を傾げる。
「まあ、名前はどうでもいいです」
「名前を付けたのは山田様じゃろうに」
「……そうでした」
織部が笑った。
次郎は完成したマヨネーズを少し指につけ、味を確かめる。
「うん。これならいけます」
「何に使うんですか?」
綾が尋ねる。
次郎は、近くに置かれていた野菜を見た。
「野菜です」
「生で食べるんですか?」
「はい」
その瞬間。
「生……?」
周囲から、微妙な声が上がった。
次郎は苦笑した。
「大丈夫です。清潔に洗ってあります」
野菜を切る。
そこへマヨネーズを添える。
「食べてみてください」
綾が恐る恐る箸を伸ばした。
一口。
「……!」
目が大きく開く。
「おいしい!」
「本当か?」
織部も食べてみる。
「……これは、なかなか」
「野菜なのに、食べやすいです」
女たちも次々と口にする。
「これなら、生の野菜も食べられますね」
「酢の味もするが、まろやかじゃ」
次郎は頷いた。
「野菜を食べるきっかけになればいいんです」
肉だけではない。
卵もある。
野菜もある。
それぞれを組み合わせれば、食べられるものはもっと増える。
だが――。
「……これだけじゃ、少し寂しいですね」
次郎は、肉の方へ視線を向けた。
肉の準備には、近くにいた漁師たちが手を貸してくれた。
「解体なら、おいらたちに任せてくだせえ」
そう言って、漁師の一人が刃物を手に取る。
次郎は少し離れたところに立った。
刃が入る。
すっ。
続いて、骨に当たる硬い音。
ごりっ。
漁師は手を止めない。
皮を剥ぎ、肉を切り分け、食べる部分を次々と分けていく。
赤い肉。
白い脂。
滴る血。
さっきまで生きていたものが、少しずつ『食べ物』へ姿を変えていく。
次郎は黙って見ていた。
魚を捌くところなら何度も見てきた漁師たちにとって、この作業も特別なものではないらしい。
「この辺は焼くとうまかですよ」
「こっちは煮たほうがよか」
漁師は手際よく肉を分けていく。
次郎は、ふと目を伏せた。
現代の店では、肉は綺麗に切られ、包装されていた。
その前にあったものを、自分はほとんど意識していなかった。
けれど今は違う。
目の前に、命がある。
そして、その命をいただくために、人の手が動いている。
「……ありがとうございます」
思わず、次郎の口から言葉が漏れた。
漁師が顔を上げる。
「なんの礼でごわす?」
「……いえ」
次郎は、切り分けられた肉へ目を向けた。
「食べるために、手を汚してくれたことに」
漁師は少しだけ不思議そうな顔をした。
だが、すぐに小さく笑う。
「食うなら、捌かにゃならんですからな」
そう言って、また刃を入れた。
次郎は、その音を静かに聞いていた。
戦国の世において、四つ足の獣を食べることには、根強い忌避があった。
仏教の殺生戒や、古くからの食習慣などが重なり、牛や馬、鹿、猪などの肉を日常的に口にすることは、少なくとも公然とは好まれない風潮があったのである。
とはいえ、肉食そのものが完全に禁じられていたわけではない。
鳥や魚は比較的食べられており、地域や身分、時代によっても事情は異なる。
それでも――。
「四つ足は食わぬ」
そんな感覚は、人々の暮らしの中に長く根付いていた。
次郎が「牛や馬を食べる」という話を持ち出したとき、周囲の者たちが戸惑ったのも無理はない。
彼らにとって家畜とは、食卓へ運ぶものではなく、田畑を耕し、荷を運び、人の暮らしを支える存在だった。
だからこそ次郎は、まず一つずつ考え方を変えていく必要があった。
――家畜は、働かせるだけのものではない。
肉も。
乳も。
卵も。
糞も。
命から得られるものを無駄なく活かす。
それもまた、暮らしを豊かにするための知恵なのだと。
その日の夕刻。
屋敷の庭先には、炭火が熾されていた。
次郎は、集められた材料を一つずつ確認していく。
肉。
塩。
醤油。
甘味。
酢。
そして、香りづけに使えそうな薬味。
ただ――。
集まった者たちの表情には、どこか戸惑いが残っていた。
目の前にあるのは、魚でも鶏でもない。
四つ足の肉。
それを食べるということ自体が、彼らにとって馴染みのあるものではなかった。
「……本当に、これを食うので?」
誰かが、恐る恐る肉へ目を向ける。
「ええ」
次郎は、あっさりと頷いた。
「せっかくですから。まずは、食べてみましょう」
「しかし……牛や馬は、人が働かせるものでしょう?」
「そうですね」
次郎は頷いた。
「田畑を耕したり、荷を運んだりするのに使います」
「ならば、なぜ食うので?」
その問いに、次郎は少し考えた。
「働かせるものと、食べるものを、全部同じにする必要はありません」
周囲の者たちが、顔を見合わせる。
「増やせるものは増やす。働いてもらうものには働いてもらう。そして、食べられるものは食べる」
次郎は、目の前の肉を見る。
「家畜を飼うというのは、肉を得るだけではありません。卵も取れます。糞は肥料になります。餌を育て、その一部をまた家畜へ回すこともできる」
「……」
誰も、すぐには答えなかった。
これまで家畜とは、働かせるためのものだった。
食べるものとは、魚や鳥、野菜や穀物だった。
その二つを結びつける考え方が、彼らにはなかったのである。
「無理に食べろとは言いません」
次郎はそう言った。
「ただ、知らないものだからといって、最初から選択肢から外してしまうのは、少しもったいないと思うんです」
炭火が、ぱちりと音を立てた。
その火の向こうで、誰かが小さく息を呑む。
「……食べてみるだけなら」
やがて、一人がぽつりと言った。
「そうですね。それで十分です」
次郎は微笑んだ。
「肉は、これで十分かな」
次郎がそう言うと、何人かが肉を見つめた。
「……本当に、これを食うので?」
「ええ」
次郎は、あっさりと頷いた。
「せっかくですから。まずは、食べてみましょう」
炭火の上に網を置き、肉を並べる。
じゅううう……。
肉から脂が滲み出し、炭へ落ちる。
ジュッ!
白い煙とともに、香ばしい匂いが立ち上った。
「うわ……」
綾が思わず身を乗り出す。
戸惑っていた者たちも、思わず肉へ視線を向けた。
次郎は肉を裏返す。
ジュウッ!
さらに香ばしい匂いが広がった。
「焼けたら、これをつけて食べてください」
小さな器には、醤油をベースに甘味を加え、少量の酢と薬味を合わせたタレが入っている。
「まずは、これだけで」
焼き上がった肉を取り、タレにつける。
「……どうぞ」
綾が恐る恐る箸を伸ばした。
ぱくっ。
「……!」
目が輝いた。
「おいしい!」
その声に、周囲の者たちが顔を見合わせる。
「本当に……?」
「うまいのか?」
「はい!」
綾が大きく頷いた。
それを見て、一人の男が恐る恐る肉を口へ運ぶ。
「……」
咀嚼する。
しばらく黙っていたが――。
「……うまか」
その一言をきっかけに、別の者も箸を伸ばした。
「……これは」
「タレがよか」
「塩もよかよ」
「肉も、思ったより……」
一人。
また一人。
少しずつ、肉へ手が伸びていく。
次郎は、その様子を眺めながら、ほっと息を吐いた。
そして、肉の隣に置かれた皿へ目を向ける。
そこには、切った野菜とマヨネーズが並んでいる。
「肉だけだと脂が重くなるので、こちらも食べてください」
「また生の野菜ですか?」
綾が少しだけ警戒する。
「はい。でも、今度はマヨネーズがあります」
綾は野菜にマヨネーズをつけ、一口食べた。
「……こっちも、おいしい!」
「肉と一緒に食べてもいいですよ」
綾が肉を一切れ、野菜を一切れ。
交互に口へ運ぶ。
「……こっちのほうが、もっとおいしい!」
次郎は頷いた。
「それなら成功ですね」
「何が成功なんですか?」
「肉も野菜も、ちゃんと食べてもらえたので」
「……山田様、やっぱり台所衆じゃありませんね」
「そうですか?」
「もっと喜んでください」
「では……大成功です」
「そういうことじゃないです」
周囲から笑い声が起こった。
いつの間にか、先ほどまで漂っていた戸惑いも、少しずつ薄れていた。
炭火の上では、次の肉がまた焼け始めている。
じゅううう……。
食事が一段落したころ。
次郎は、焼けた肉を前にして、ふと箸を止めた。
「……ちょっと、いいですか」
皆が次郎を見る。
次郎は、皿の上の肉へ目を落とした。
「さっき、四つ足の肉を食べることに、戸惑った人もいたと思います」
何人かが、静かに頷いた。
「それは、無理もありません」
次郎は続けた。
「牛や馬は、昔から人の暮らしを支えてきた大切な家畜です。だから、食べるものではないと思うのも、当然です」
誰も口を挟まない。
「でも、家畜には、働いてもらうだけじゃなく、肉や卵をもらうという使い方もあります。糞は肥料になる。餌を与えて育てれば、また人の食べ物になる」
次郎は、ゆっくりと周囲を見渡した。
「どれが正しいとか、間違っているとかではありません。ただ、せっかく命をいただくなら、その命から得られるものを無駄にしたくないんです」
その言葉に、皆が肉を見る。
次郎も、皿へ目を戻した。
「この肉を得るためには、動物を育てる人がいて、餌を用意する人がいて、水を与える人がいる。そして最後には、その命をいただいて、私たちが生きるための食べ物にする」
静かな声だった。
「だから……食べるときは、ちゃんと感謝して食べましょう」
綾が、肉を見る。
織部も、黙って皿を見る。
川上も、箸を置いた。
次郎は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。いただきます」
その言葉を聞いて、しばし沈黙が落ちた。
やがて――。
「……なるほど」
織部が小さく頷いた。
「命をいただく、ということか」
「はい」
「では……」
織部も、肉へ向かって軽く頭を下げた。
「ありがたく、いただこう」
「おいも、そうするでごわす」
権兵衛も続いた。
「おいも……」
弥助が慌てて頭を下げる。
「……ありがたく、いただきます!」
その様子を見た綾も、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
次郎は、その光景を静かに眺めていた。
ほんの一言。
ただ、それだけのことだった。
けれど、食べ物を前にした人々の表情が、ほんの少し変わっていた。
四つ足だから食べない。
家畜だから食べない。
そうした古くからの感覚を、無理に捨てる必要はない。
けれど――。
知らなかったものを知る。
食べたことのなかったものを、実際に食べてみる。
そして、その命に感謝する。
それだけでも、人の考え方は少しずつ変わっていくのかもしれない。
肉を食べる。
卵を食べる。
野菜を食べる。
それだけではない。
命をいただいて、自分たちは生きている。
そのことを、皆が少しだけ意識した。
そして――。
「……ところで山田様」
弥助が顔を上げた。
「この肉、もう一枚よかですか?」
「もちろんです」
「マヨもつけてよか?」
「ええ」
「タレとマヨ、両方つけても?」
次郎は一瞬考えた。
「……それは、私も試してみたいですね」
「山田様まで!」
また笑い声が起こった。
炭火はぱちぱちと音を立てて燃えている。
肉の香ばしい匂い。
酢の酸味。
卵のまろやかさ。
野菜の青々しい香り。
そして、人々の笑い声。
その夜、屋敷の庭には、いつもより少しだけ賑やかな食卓が広がっていた。
畜産とは、ただ肉を増やすことではない。
卵も。
肥料も。
餌も。
そして、人が生きるための食卓も。
一つの命から生まれるものは、思っていた以上に多かった。
次郎は、空になりつつある皿を見つめながら思う。
――食べることも、科学の一部なのかもしれない。
そんなことを考えながら、次郎はもう一枚、焼けた肉へ箸を伸ばした。




