山に魅せられて[19]
「田上さん、今回は早かったし正確だったし、良かったよ」
型紙を当て、その寸法や形から布を切っていく工程は、磐田さんの担当。
でもその前に、デザインはもちろん型紙についても夏川さんと村崎さんのチェックが入る。
もちろんその後の工程だってそう。
例えば、型紙に不具合があったとしても、夏川さんが気付かずに村崎さんに渡したとしたら、夏川さんが叱られる事になる。
だから夏川さんは、いつもピリピリしてるんだと思う。
今日はその厳しいチェックを一発で難なく通り抜けた。
めちゃめちゃ気分が良い!
仕事終わり、地下鉄の駅。
今日もまた東西線に乗らず、烏丸線を終点まで乗り通す。
そこから歩いて5分。
「いらっしゃいませ」
え?
何で男性の声?
「あぁ、田上さん。仕事終わりですか?」
藤野朋彦さん。
おそらく20代半ばぐらいだと思う。
ここベルグの店員であり、山岳会のメンバーでもあるそうだ。
背は高く、ちょっとポッチャリさん。
最近では、山行の時に体の重さを感じるようになってきた…なんて言ってよく笑う。
若いのに何言ってんだか。
人の良さが全身から溢れ出ている感じ…かな。
ところで、朝比奈さんはどうしたんだろう?
きっと居ないんだろうと思いながらも、店内の見える範囲を隈なく見渡してみる。
何故かあの声が…、アニメチック・ヴォイスが聞こえないというだけで、どこか落ち着かない私。
「良かったら、奥へどうぞ」
藤野さんが、右手を振って着席を促す。
私は藤野さんの声に従いながらも、心ここに在らず。そしてまた、声に出さずに呟く。
「朝比奈さんはどうしたんだろう?」
「どうぞ」
藤野さんの案内に少し遠い目で頷いて、今日もあの高級アウトドアチェアーに座った。
「今度ね、山岳会のウェルカムイベントって題して、田上さんを招待して何かやろうって企画してるんです。例えばハイキングなら、田上さんのレベルに……」
―朝比奈さんはどうしたんだろう?
「………ね! いかがですか?」
―あ! 何か訊かれてる?
「あの、すみません。私…」
兎に角場を繕わなければ失礼だ。言葉の意味がよく分からなかった事にしよう。
「ああ、そんな大した所じゃないですよ。標高は言った通り1377mだけど、9号目ぐらいまで車で行きますから」
「すみません。ちょっとよく分からなかったんですけどこで何を…?」
「伊吹山ですよ。申し訳ありません。説明が下手ですよね」
「あ、いえ、そんな事…。私がよく聞いてなかったんです」
あっ、伊吹山? そこ、聞いた事あるかも。
「じゃあ、もう一回案を固めてご連絡差し上げますね。是非前向きにご検討いただければ…」
つまり、ウェルカムイベントと題してハイキングに行こうという事ね。山岳会らしいわ。
「ところで藤野さん。朝比奈さんは?」
「もちろん誘いますよ」
「じゃなくて…」
今日は会える。そう思ってた。
というより、ここに来れば会えるはずだった。
「今日はお休みなんですか?」
「え? はい。何か御用でもありました?」
藤野さんの返答に、私は黙り込んでしまった。
その刹那、宮地さんのひと言が脳裏に浮かんだ。
「あんまり深入りすんな」
宮地さんが言った「深入り」とは、何を対象にしているんだろう?
彼女は山岳会の人ではないから、朝比奈さんを知る訳もないだろう。
でも何故? どうしてこの言葉を思い出したの?
それはきっと、会えるはずと思っていた朝比奈さんが、今ここに、目の前に居ないからだと思う。
そしてそう思うという事は、私は既に朝比奈さんに深入りしてしまっているからなんだろう。
アクセスありがとうございます。
次回、「山に魅せられて[20]」
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