第三話
しばらく考えてみても、早耶は何をどうすれば幸いなのかわからなかった。
そもそも、最初にそういう人間を作り上げてしまった自分が悪いのだから、とことん壱夜に付き合うべきではと考えもしたが、壱夜にはもうそれが早耶ではないという事を伝えてしまったし、早耶自身、それは演じる苦痛以外にも、本当の自分を好いてもらえないという苦痛がともなう行為だ。いくら自分に責任があるとはいえ、早耶はそれを出来るほど図太くはないと思った。
この奇妙な一連の流れは、さすがに込み入っていたからか、人気を忍んだからか、漏れる事はなかったようだ。かわりに、秋谷と早耶が交際しているという誤解がとけ、しかし今度は早耶と壱夜が付き合い出したのではないかという噂話を呼んだ。早耶は訊かれれば否定していたが、自分から積極的に誤解をとこうとはしなかった。壱夜の方が都合が悪くなれば、しっかりと否定するだろうと考えたのだ。
その壱夜の事を、早耶は失恋して以降こんなにも考えるのは久しぶりだと思った。
早耶にとって、壱夜は今もある意味で特別な存在だが、かといって恋愛としての好きかと問われれば微妙だった。そばにいてときめく事もなければ、見かけて胸躍る事もない。とにかく心配で仕方がなく、恐らく弟を心配する姉のような心境がいちばん腑に落ちる表現だった。
早耶は、壱夜の事が心配だった。けれどどうする事も出来ない。焦れた想いは募ったまま、やがて今度は春休みを迎える事となった。
久野家のチャイムが鳴ったのは、何てことない春休みのある日であった。
する事もなく、リビングで録画していた映画を鑑賞していた早耶は、寝転がっていったソファから起き上がると、テーブルに置いたリモコンを操作して一時停止をかけると、ぱたぱたとリビング扉の近くにあるパネルへと駆け寄った。
液晶画面をのぞきこんで早耶は一瞬かたまった。しかし出ないわけにはいかないと、恐る恐るボタンを押して「はい」と声を上げる。普通の調子でたった二文字が言えただろうかと気になった。
画面からは『入れてくれないか』と声が聞こえる。早耶は一瞬言葉に詰まりながらも、やがて「わかった」と呟いて、廊下に出ると玄関扉へと歩いた。
ごくり、と喉が鳴る。あの騒動以降、早耶は一度も壱夜と言葉を交わしてはいない。あの亡霊のような姿を最後に、壱夜の顔をまともに見てすらいない。彼はまだ、あのビー玉のような瞳をしているのだろうか。早耶は心臓の音がやけにうるさいと感じながら、震える手で玄関の扉を開けた。
「ぅわ」
てっきり門のところで待っていると思った早耶は、扉を開けてすぐに壱夜が現れて驚いた。中に入る許可をもらったところで、壱夜は待ちきれずに移動していたらしい。早耶のどこか間抜けな声に少し笑って、壱夜は「驚かせてごめん」と呟いた。早耶は、壱夜の瞳にきちんと生気が宿っている事に安心すると、同じように微笑んで「どうぞ」と壱夜を招き入れるために一歩下がった。
玄関の扉が閉まり、早耶と壱夜は無言で廊下を歩く。リビングにたどり着いたところで、早耶はつけっぱなしのテレビを消した。壱夜がうしろで「あの映画好きなんだ」と呟いた。早耶は「まだ途中だけど面白いね」とうなずく。壱夜はどこか意外であったのか、目を丸くして、やがて微笑んだ。
「俺と趣味同じかも」
「へえ、ああいうの好きなの?」
「――うん、好きだよ」
お茶を淹れようとキッチンに立っていた早耶は、手元から顔を上げて驚いた。なんという顔で早耶を見ているのだろう。思わず顔を赤くしながら、早耶は何か見てはいけないものを見てしまったかのように視線をあちこちにさまよわせる。
「あー、と。コーヒーでいい? インスタントで悪いけど」
「なんでもいい」
壱夜の言葉を受けて、早耶は沸かしたお湯をマグカップに注ぐ。壱夜は甘党なので、砂糖もミルクもそこそこの量をいれる。早耶はスプーンでくるくると中身をかきまぜてから、キッチンカウンターへと置いた。
「早耶は相変わらずブラック?」
「甘すぎるのが苦手なんだよね。ミルクはたまに入れる」
早耶の言葉に、壱夜は何がおかしかったのか笑った。
「前は意外だと思ってたけど、今の早耶はブラックで飲みそう」
「それはあれか、可愛げがないとかそういう意味か」
「違うって」
ダイニングテーブルに隣り合って腰掛けたふたりは、久しぶりに会話らしい会話を交わす。早耶はこの時間を疑問に思いながらも、案外普通に成立している事が嬉しかった。ひょっとしたら、壱夜は改めて決別の言葉を口にするのかもしれないが、早耶はきちんとそういう場を設けてくれた壱夜に心の中で感謝していた。宙ぶらりんのまま終わっていては、きっとずっと心の奥にたとえ小さくとも傷として残っていただろう。
「俺さ、あれからずっと早耶を見てたよ」
あれから、という言葉に、早耶はあの日以降の事を言っているのだろうと察しがついた。しかし壱夜がなぜ早耶をずっと見ていたのかはわからない。むしろ、目を逸らしたくて仕方がなかったのではなかろうか。
「最初は――つらかった」
苦笑してコーヒーをすすった壱夜の言葉に、早耶は鈍く胸が痛む。きっと、自分が壱夜であっても、同じような感情を抱いたに違いない。
「でも俺、気付いちゃったんだよ」
「……何に?」
「普通に好きなんだなって」
「え?」
一瞬、その意味は良く分からなかった。壱夜はどこか照れくさそうにコーヒーを飲みながら、ちらりと早耶の顔を見る。早耶は驚きに目を見開いたまま、壱夜を見つめていた。そんな表情を向ける早耶に、壱夜は微笑む。
「何かさ、俺にとって、早耶が傍にいてくれる事自体が重要なんだって気付いたというか。前に早耶は、俺に甘えてたって言ったけど、本当は逆だったんじゃないのかな。早耶の家より俺の家のが両親忙しいじゃん。でもこの年齢だし、寂しいって口にはしないし、実際にそんなに思ってるつもりもなかったんだよね。でも、早耶が居なくなって、静まり返った家に帰るのは辛いことだったんだなって思った。早耶はいつもそれを察してくれて、良いタイミングで俺の家を訪ねてくれてた」
「それは――別に意識してたわけじゃないし」
「そうだったとしても、俺はいつも早耶に助けられてたよ。飯だってそうだし。何だかんだ、面倒見てもらってたの俺だよなあ。受験の時だってさ、俺の弱い部分ばっか質問してきたの気付いてた? 俺は苦手な部分が何度も復習できてめちゃくちゃ助かった」
「……そうだっけ」
壱夜の言葉は、早耶には妙にくすぐったく感じられた。そこまで感謝されるような事をしていたつもりはないし、やりたくてやっていた事だ。今でも、壱夜に迷惑をかけてばかりだったという気持ちはぬぐえない。
「ねえ、早耶」
「――、なあに」
壱夜の手がゆっくりとのびて、早耶の髪をさらりと撫でる。驚いて肩を揺らしてしまったが、そんな早耶の様子を見ても、手は止まる事無く静かにゆっくりと行き来して、早耶の髪を揺らす。そんな手を、早耶は嫌だと感じなかった。むしろ心地よいとすら感じる。
隣並んで座っているから、本来であればテーブルに向って座るふたりの視線は合わない。現に早耶は真正面を向いている。しかし壱夜は、正面が早耶の位置になるように椅子をずらして座っていた。話している途中でがたがたと音が聞こえたのはそのせいだったのかと今さら早耶は気が付いた。
壱夜は早耶の横髪を撫で続けながら、微笑んでいる。先ほど早耶が盗み見た壱夜は、確かに笑っていた。早耶の頬が赤いのに気付いているかはわからないが、まるで愛おしくて仕方がないとでもいうような、とろけるような笑顔で早耶を真っ直ぐに見ていた。キッチンで見た時とまったく同じ表情をしている。早耶はその様子を思い出しては、また頬を赤く染めていく。
うつむいていく早耶の様子を見たくなったのか、壱夜は早耶の髪を耳にかけると、今度はその耳をそっと撫でる。それにはさすがにびっくりしたのか、早耶が「う」と短く声を上げた。壱夜はそんな早耶の様子にくすくすと笑って「かわいい」と呟く。
――誰だ、こいつ。
早耶は思わず胸中で呟いて、壱夜の手をゆっくりと自分の耳から遠ざけた。横を向いて早耶が視線を合わせた先にいる壱夜は、名残惜しそうな顔をしてゆっくりと手を引っ込めている。早耶は無言のまま壱夜を睨むように見つめると、壱夜は早耶に「ごめん、調子に乗り過ぎた」と言って苦笑した。
「さみしいよ」
「!」
「早耶がいないと、さみしいよ」
「――矢崎」
「そばにいて」
「…………」
まさか、こんな展開になろうとは。早耶は想像だにしなかった壱夜の言葉についていけずに、困惑を顔に浮かべた。
早耶は、考える。
今でも壱夜の事は大切であるし、特別な存在である事も変わりはない。しかしそれが、恋とか愛に繋がる話になるのかがわからないのだ。弟を心配する気持ちに似ているのではないかと考えた時、早耶はそれがしっくりくると感じた。けれど先ほど壱夜に髪を撫でられた時、あんな事をする弟などいないと思ったのもまた事実だ。
壱夜は、弟などではない。それは早耶にもわかった。しかし、それがわかったとして、どうすればいいのか。早耶は、今の自分が彼に何を感じているのかがまったくもってわからない。
「矢崎、あの」
「それ」
「え?」
「今までみたいに、呼んで欲しい。それは、出来ない?」
「――ええと」
「俺の事を好きじゃなくてもいい。でも、距離を取ろうとするのは出来ればやめてほしい」
「…………」
「さみしくて、しんじゃう」
「――っ、誰だおまえ!」
がたん、と椅子がぶつかって揺れる音がしたが、倒れはしなかった。
早耶が突然立ち上がって放った言葉に、壱夜は目を丸くする。しかし次には笑って「壱夜だよ」と言ってのけた。早耶はぐらりと視界が揺れて、次には「かんべんしてくれ」という言葉が漏れる。顔の半分を右手で縦に覆いながら、早耶は左半分になった視界で、壱夜を見る。
「そんなに孤独に弱い人間だとは……」
「早耶がそうしたんじゃないか」
ため息交じりに呟いた早耶の言葉に、反射のようにかえってきた壱夜の言葉は、早耶をますます困らせた。それを言われると、早耶はどうしたらいいかわからない。
とりあえず、現時点をもって早耶の中に「壱夜と他人になる」という選択肢はなくなった。元々が面倒見の良い性格である早耶は、こんなに弱って甘える男を捨て置けるほど冷えた頭を持ち合わせていない。ひょっとすると壱夜は、それをわかっていてこのような姿を見せているのだろうか。
「壱夜って、なんていうか、もっとこう、しっかりしてなかった?」
深いため息と共に椅子へ座り直した早耶に、壱夜は破顔する。早耶の言葉は、決別という選択肢を排除したという答えだ。壱夜は笑わずにはいられない。
「多分、本来はどっちかというと甘えたい方なんだよ。早耶がいたからしっかりしないとなって思っていたけど」
「何それ……」
「あ、でも別に早耶みたいに演じてたとかじゃないし、他の人間相手にはこんな風になんないよ。俺は早耶以外に甘えたいわけじゃないから」
「そうかい……」
もうなんでもいい。
どこか「好きにしてくれ」という思いがふつふつと沸いてくる。投げやりになりたいわけではないが、自分の気持ちがまったくもってわからない早耶にとって、これ以上なにをどうしたらいいのか答えが出せない。ため息をもう一度吐いてから、早耶は壱夜に正直に伝えた。
「壱夜の事を好きかどうかわからないから、今ここで何も言えない。それが嫌ならすっぱり私の事はあきらめてほしい」
「無理」
「いや、早いし!」
「俺を男として好きかわかんないけど、俺の事は放っておけないくらいには思ってくれてるんじゃない?」
にこにこと笑みを浮かべる壱夜に、早耶は「まあ」とあいまいな返事をする。壱夜はそれで満足なのか、ますます笑みを深めた。
「なら今はそれでいいよ。とりあえず、これから覚悟してくれれば」
「――覚悟?」
壱夜の言葉に早耶が首をかしげれば、壱夜は残っていたコーヒーを一気に飲み干した。マグカップをテーブルに置き、口元をぬぐうと、早耶の腕をつかんで引っ張った。
早耶は「ぅわ」と短く声を上げながらも、突然の壱夜の行動に抵抗も出来ない。戸惑う早耶を気にする事なく壱夜はそのまま膝の上に早耶を乗せたような状態で、ぎゅっと抱きしめた。
「あの、壱夜」
もぞもぞと中途半端な抗議行動をするも、壱夜はそれを更なる強い力で抱き込んで封じた。早耶の耳元へ、そっと唇を寄せる。
「近所でも、学校でも――纏わりつくから」
「え?」
「周囲からかためる気まんまんだからね。昔の早耶がそうしたように、俺は早耶のまわりをうろちょろして、周囲を味方につけて、早耶がほだされるのを待つ」
「え!?」
何だその怖い計画は!
早耶が本格的に抵抗しようと手を動かした時に「そろそろかな」と壱夜が呟いた。早耶はその言葉の意味を理解出来なくて、動きを止める。しかしそれが良くなかった。
「ただいまー」
玄関扉を開いて、聞き覚えのある声が早耶の耳に届く。壱夜の呟きの意味を、早耶が理解した頃にはもう遅かった。
「あら!? いっちゃん!?」
「おかえりなさい」
かたまる早耶の耳に、驚いた様子の母の声が届く。早耶は壱夜の言葉の意味、あまりにも華麗なその手際に間抜けにも一瞬、感心してしまった。
しかし今はそんな場合ではない。
我に返った早耶は、めいっぱい腕をつっぱって壱夜の体を遠ざけようと力を入れる。そんな早耶の様子に笑いながら、壱夜がやっと手を離した。早耶は立ち上がって壱夜から距離を取りながら、真っ赤な顔をして叫ぶ。
「あんたなあ! そんな卑怯な真似をするなら矢崎って呼ぶぞ!」
「それはだめ」
真顔で言い放つ壱夜の様子に更なる苛立ちをおぼえながらも「いつの間にこうなったの?」と弾んだ声を上げる母に「どうにもこうにもなってない!」と早耶はまたも叫び声をあげる。
「いっちゃん、久しぶりにお夕飯食べていって。今日は夏美さん遅いんでしょう?」
「ありがとう、春子さん」
実は、壱夜の母と早耶の母が仲良くなったのは、この名前にも関係している。お互いに季節の名が入っているという事で、それにも「運命」とやらを感じたらしいのだ。
「私が作るから、ふたりは部屋でゆっくりしてなさいな」
浮かれる母の様子に早耶は嫌とも言えず、二階の自室へと壱夜を連れて移動する。早耶は先ほど抱き合っていた――早耶は了承したわけではないが――のを見ていたくせに、よく若い男女をふたりきりに出来るものだと自分の親ながら呆れてしまう。ひょっとすると、早く結婚してしまえばいいのにとすら思っていそうで、早耶は春子が少し怖く思った。
クッションを敷いてラグの上に直接並んで座り、しかし会話をしようにもどこか気まずく早耶が黙り込んでいると、壱夜は早耶へと声をかけた。
「早耶、明日いっしょに出かけよう」
「え? なんで」
「買いそびれた誕生日プレゼント、せっかくだからいっしょに選ぼう」
「い、いいよそんなの、私はあげるつもりないし」
首を振って壱夜の言葉に拒否を示す早耶に、壱夜は微笑んだ。
「俺がしたくてするんだし、別に早耶から何ももらわなくたっていいよ」
「そういうわけにも」
「なら早耶に三十分好きなだけ触っていい権利をくれるとかどう? それがプレゼ」
「壱夜の分もいっしょに何か選ぼうね」
いかがわしい彼の言葉を遮って早耶が言うと、しかし壱夜はそれに笑みを深めて「うれしい」と答えた。
早耶は気付かない。プレゼント云々よりも、壱夜と早耶がふたりで出かけるという事実そのものが重要だという事に。出かけるのは、ここら辺の学生がよく行く場所だと壱夜は決めていた。たくさんの目撃者を作るためだ。
早耶は気付かない。早耶が思っている以上に、壱夜はしたたかであるという事に。
「早く俺のこと好きになってね」
「知らん」
早耶は気付かない。
――頬を染める早耶の横顔に、壱夜はとっくに早耶の気持ちを確信しているという事に。
「まあ、しばらくはこれを楽しんでもいいかなあ」
「……何か言った?」
「いや別に」
昔の早耶がどういう心境であったかを想像するのも悪くない。そう思いながら、壱夜はふつふつと沸きあがる早耶への想いの異常さに気が付いていた。
とうてい離せるようになるとは思えない、その、気持ちに。
「壱夜」
「ん?」
「もう軽々しく死ぬとか言わないでよ?」
やさしい早耶の言葉に、壱夜は「ごめんね」と微笑んだ。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。