第1話:未探索エリアにて【短編ver.】
チッ、とはんだごてが錫を溶かす小さな音が、静かな部屋に響く。焦げた松脂の匂いが鼻の奥をくすぐるけれど、手元は一ミリもぶれない。
十五歳で大学を飛び級卒業した私の頭脳は、今、人生で最も高度で、そして、最もくだらないプロジェクトに全振りされていた。
「……よし。基板の収まり、完璧」
ピンセットの先で最後の微小チップを据え、プラスチックのカバーをカチリと閉じる。手のひらに載せると、拳ひとつ分の丸っこい塊は、ただの出来の悪い玩具に見えた。
ただ、中身は違う。最新のセンサーと自作の超小型モーター、それから私のこだわりが、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
『自分のデスクの消しゴムのカスと、キーボードの隙間のホコリを完璧に吸い取る超小型お掃除ロボ(試作一号)』。
誰に頼まれたわけでもない。売る気もない。市販のハンディクリーナーで三秒で済む話を、三週間かけて解決しようとしているだけだ。でも、三秒で済む方法より、三週間かけた方法のほうが、私は圧倒的に楽しい。
床に下ろしてスイッチを入れる。ロボは一拍おいて、ウィィ、と蚊の羽音みたいな声を出し、消しゴムのカスめがけて走り出した。
「走った。走ってる」
自分以外に誰もいない部屋で、私はひとり頷いた。
その平和を、背後のドアが蹴破った。
「リヴィ! 聞いて! 僕の肩、今、岩! 岩が二個乗ってる!」
入ってきたのは兄のリアムだった。
日本名は蓮。北欧の血が濃く出た長身に、くしゃくしゃの金髪。見た目だけなら映画の主役でも張れそうなのに、目の下には、徹夜した人間だけが持つ種類のクマがある。首をぐりぐり回すたび、骨が鳴ってはいけない音で鳴った。
「自称ホワイトハッカーが、自称じゃなくなる案件でも入った?」
「入った。入りすぎた。あと半月分の納期が三日に縮んだ」
「それ、ホワイトじゃなくて真っ黒だよ」
「上手いこと言わなくていいから、肩を揉んで」
「嫌。私の手は繊細なの」
リアムは崩れ落ちるように床に座り込んだ。その背後から、さらに騒がしいのが飛び込んでくる。
「ピアスが、ない! ワタシの、ダイヤの、ピアスが!」
姉のロティだ。本名はシャーロットで、日本名は葵。蜂蜜色の長い髪を振り乱している。歌えば人を泣かせ、声をあてれば画面の中のお姫様が生き返る。そして焦ると、日本語が一気に片言に退行する。
「昨日つけてた。ぜったい、あった。なのに、今朝、ない!」
「ロティ、落ち着いて。お出かけは何時?」
「あと、四十分!」
「じゃあ、あと四十分は探せるね」
「リヴィ、冷たい!」
冷たくはない。事実を述べただけだ。ただ、この兄と姉が揃うと、私の部屋の酸素濃度は確実に下がる。二人とも私のことが大好きで、その分、声が大きくて、距離が近い。
私は椅子を回して、床を走るお掃除ロボに視線を戻した。ロボはゴミの小山を前にして、ウィィ、と健気に唸っている。
「……ちょっと、出てくる」
「え、どこへ?」
「散歩」
ハンカチ、スマホ、吸入器、財布代わりの一万円札を数枚と、ブラックカード。パーカーのポケットに順番に押し込む。吸入器はお守りだ。ここ数年、出番はほとんどない。でも、ないと落ち着かない。
「一人で? 大丈夫? 僕、ついていこうか。肩は岩だけど」
「大丈夫。夕飯までには帰る」
「リヴィ、人、多いとこ、だめ!」
「人のいないほうに行くから」
二人はまだ何か言っていたが、私はするりと部屋を抜けた。家族は私を甘やかす。それはありがたいし、否定する気もない。でも、ときどき一人になりたいだけだ。
玄関の姿見の前で、足が止まった。
プラチナブロンドの髪は、窓からの光に透けると、ほとんど白に近い。色の薄い瞳に、陶器みたいに白い肌。どこからどう見ても、日本人の要素が一ミリも見当たらない外国人の顔が、無表情にこちらを見返している。
(パパの血は、どこへ行ったんだろう)
毎回、同じことを思う。そして毎回、答えは出ない。
私はパーカーのフードを深くかぶった。目立たないための、ささやかな抵抗だ。たいてい、無駄に終わるのだけれど。
日本に引っ越してきて、まだ半年に満たない。
父は外交官で、去年から日本勤務になり、先に単身で来ていた。私が大学を卒業するのを待って、家族みんなで引っ越してきたのが春。だから私は、自分の家の周辺のことを、ほとんど知らない。
住宅街の午後は静かだった。アスファルトに秋の陽が落ちていて、どこかの家の金木犀が、頼まれてもいないのに強く香っている。
向かいから、犬を連れた人が歩いてきた。柴犬だ。丸い背中をぷりぷり揺らして、飼い主を引っ張っている。
飼い主のおばさんが、私を見て、わずかに目を見開いた。
ほんの一瞬。悪意はない。ただの、珍しいものを見たときの反射だ。この国に来て半年、その反射にはもう慣れた。慣れたけれど、そのあとに続く「ハ、ハロー?」か「どちらから?」のどれかを思うと、胃のあたりが少し重くなる。
私は、ふいっと視線を電柱に逃がした。
嫌いなわけじゃない。犬は好きだし、おばさんにも悪意はない。ただ、目が合えば会釈になり、会釈になれば「かわいいですね」になり、その先に「何歳?」「どこの国から」が待っている。話を振られれば普通に答えられる。問題は、自分から振る手札が一枚もないことだ。
だから、電柱の貼り紙を読むふりをする。『町内会 秋の清掃活動のお知らせ』。内容は完璧に頭に入った。おばさんが通り過ぎる。背中に視線を感じたけれど、振り向かなかった。柴犬だけが、すれ違いざまに私の足首を一度嗅いでいった。
(君は許す)
心の中でそう言って、私は歩き出した。
目的地は、地図アプリに出ていた小さな神社だった。徒歩十二分。アプリの青い矢印に従って進んでいたのだが、五分ほどで矢印が突然ぐるぐる回り始めた。
「……あ」
スマホの電波表示が、一本から零本になった。
顔を上げると、そこはもう、さっきまでの住宅街ではなかった。
細い。道が、とにかく細い。両側から迫る板壁は黒ずんで、軒先には錆びたトタンの庇が張り出している。どの家の前にも鉢植えが並んでいて、その配置がまた妙に整っていた。人がいない。猫がいる。猫は私を一瞥して、塀の上で大きなあくびをした。猫だけは、私の髪の色を気にしない。
私は、立ち止まって深く息を吸った。
「へえ」
声が出た。
迷子、という言葉は、私の辞書には載っていない。ここは「迷い込んだ場所」ではない。「未探索エリア」だ。
足元の舗装が、ところどころで石畳に変わっている。路地の幅は一間ちょっと。たぶん二メートル弱。そして、家の並びがおかしい。通りに対して、家が少しずつ斜めに建っている。これは昭和初期の区画整理で、元の畦道や水路の線を無視できないまま、無理やり整地した名残だろう。つまりこの路地は、もっと昔の地形をそのまま残している。
「面白い……」
私はポケットからスマホを取り出して、写真を撮りはじめた。電波がなくても、カメラは動く。軒の出、雨樋の継ぎ手、電柱から家へ引き込まれている古い碍子。通りの先に、どこにも通じていなさそうな階段を見つけて、上がってみる。どこにも通じていなく、上がった先には、猫の昼寝場所があるだけだった。
途中、縁側で犬と日向ぼっこをしていたおばあさんと目が合った。おばあさんは、手を止めて、ぽかんと口を開けた。
「あらまあ、お人形さんみたい」
「……こんにちは」
「あら、日本語」
「はい」
「まあまあ、どちらから」
「……家は、すぐ近くです」
嘘ではない。方角はわからないけれど、距離的には、たぶんすぐ近くだ。おばあさんは嬉しそうに何度も頷いて、「気をつけてね」と手を振った。私は小さく頭を下げて、足を速めた。悪い人ではない。ただ、会話の続きを私が持っていないだけだ。
そのうち、袋小路があった。左に折れる細い道があった。板塀の隙間から、誰かの家の台所の湯気が見えた。味噌汁の匂いがした。そういえば、お腹が空いている。
三十分ほど経っただろうか。ふと、スマホの画面が暗くなった。電池残量、五パーセント。
(ああ、これは)
見上げると、空の色が橙に寄りはじめている。足は重い。喘息の気配はないが、体力的にはそろそろ限界だ。人混みが苦手で毎日は出歩かない人間が、慣れない道を延々歩けば、そうなる。
私は路地の隅に立ち止まって、しばらく考えた。
帰り道は、わからない。スマホは、もうすぐ死ぬ。来た道を戻れる自信はない。
「……もう帰れない」
口に出して、そこで悩むのをやめた。
ここからは、現実の解決の時間だ。私は路地を抜けて、少し広い道に出た。車の通れる幅の道。ほどなく、空車の表示をつけたタクシーが、ゆっくりと向こうから走ってくる。
手を挙げると、止まり、後部ドアが開く。
乗り込んで、ポケットから一万円札を一枚出して膝の上に置く。これがいちばん確実な保険だ。
「……港区まで」
そう言ってから、そうだった、住所を言わなきゃ意味がない、と気づいて、あらためて住所を告げた。
運転手さんが、バックミラーの中で目を丸くした。
「おや。外国の方かと思ったら、日本語、上手だねえ」
「……父が、日本人なので」
「へえ、そりゃあ。お嬢さん、この辺の人じゃないでしょ。あんなとこから出てくるなんて、珍しい」
「迷ってないです。探索してました」
「ほう」
運転手さんは笑った。私はそれ以上、何も言わなかった。見た目で話しかけられることには慣れている。慣れているからこそ、会話は、ここまでで充分だ。
窓の外を、街の灯が流れていく。電池が切れたスマホをポケットの上から握りしめ、私は、いい散歩だった、と静かに思った。
玄関を開けたとたん、廊下の奥から、家じゅうの足音が一斉にこちらへ向かってきた。
「リヴィ!」
先頭は母だった。仕事帰りのスーツのまま、スウェーデン人らしい長身と淡い金髪で、私の肩を両手でがしっと掴んだ。
「一人で外に行って、喘息は大丈夫だった!? 電話も通じなかったじゃない!」
「電池切れ」
「吸入器は持っていった!?」
「持ってた。使ってない」
「どこを歩いてたんだ」
次に現れたのは父で、こちらも帰宅したばかりらしく、ネクタイを緩めている途中だった。黒髪に、彫りの深い整った顔立ち。この家で唯一の黒髪が、これ以上ないほど眉を寄せている。母と兄と姉と私が並ぶと、誰が見ても北欧の家族だ。日本人らしいのは、父と、私たちの日本の名前くらいのものだった。
「地図を見ながら歩いてた。途中で、未探索エリアに入って」
「迷子じゃないか」
「違う。探索」
「リヴィ、リヴィ、生きてる? 生きてる?」
兄が後ろからぬっと出てきて、私の頭をわしゃわしゃ撫でた。続いてロティが、英語と片言の日本語を混ぜながら、私に抱きつく。
「よかった、よかった、リヴィ、かえってきた!」
「ロティ、ピアスは?」
「まだ、ない!」
「そう」
玄関先で、私は四人に囲まれたまま、靴を脱いだ。大げさだなと思う。でも、この大げさが嫌いではないのも、事実だった。ここでは誰も、私の髪の色を振り返らない。
「ちょっと待ってて」
私は階段を上がり、自室の机の上から、小さな箱をふたつ持って降りた。
「これ、リアムとロティに」
「え?」
「何?」
まず兄の前に、片方の箱を置く。蓋を開けると、中から、手のひらよりも少し小さい、八本脚の機械が現れた。蜘蛛だ。ただし、見た目はどこか愛嬌がある。
「うわ、蜘蛛」
「蜘蛛。嫌い?」
「嫌いじゃないけど、肩に載せるのは勇気が要る」
「肩に載せて、スイッチ入れて」
兄は恐る恐る、蜘蛛を左肩に載せた。私は背伸びして、背面の小さなスイッチを押す。
カチ、と音がして、八本の脚が静かに動き出した。肩甲骨の上をてくてくと歩き、僧帽筋のある一点で止まる。脚の先が、ぐっ、と沈んだ。
「……あ」
兄の声が裏返った。
「あ、あ、あ、そこ、そこそこそこ」
「低周波パルスと微細な圧力の組み合わせ。ツボは、事前にリアムの姿勢データから推定してある」
「うわあああ! 軽い! 肩が軽い! 待って、首、首も回る!」
蜘蛛は次に首の付け根を渡り、後頭部を通って、最後に兄の目の周りへ、脚を折りたたんで寄り添った。ほのかな温かさが、まぶたの上に広がっているらしい。兄は、ソファに崩れ落ちたまま、動かなくなった。
「……視界が、ハイビジョンになった」
「元からそうでしょ」
「違う、今のが本物のハイビジョン。リヴィ、天才、天使、女神」
「うるさい」
「ロティのはこっち」
もうひとつの箱を、ロティの前に置く。中から出てきたのは、手のひらサイズの丸いロボットだった。底に小さな車輪があって、頭の部分に、カメラのレンズがひとつ。
「かわいい!」
「スイッチを入れると、金属に反応する。今朝、ピアスをなくしたって言ってたから」
ロボットは姉の部屋の床に下ろされると、ピ、ピ、と短く鳴きながら、ベッドの下に潜り込んで、ピーッと長く鳴いた。
「え? え?」
ロティが這いつくばって、ベッドの下に手を突っ込む。しばらくごそごそやったあと、彼女の手のひらの中に、小さな光がひとつ載っていた。
「あったーっ! ダイヤの、ピアス!」
「ベッドの足の影になってたみたい。金属探知の精度は、まだ改良の余地がある」
「リヴィ、リヴィ、これだけじゃないの?」
「出かける前に、カメラの前に立ってみて」
ロティが半信半疑で、ロボットの前でくるりと回った。ロボットは、ピロリ、と明るい音を鳴らして、小さな画面に文字を出した。
『ほんじつの コーデ:ごうかく ピアスとの そうせい:とても よい』
「ほめられた! コーデ、ほめられた!」
ロティは叫んで、私に飛びついた。避ける暇はなかった。
「リヴィ大好き! 世界でいちばん大好き!」
「苦しい。苦しい、ロティ」
「いいなあ」
その声に振り向くと、父と母が、並んで私たちを眺めていた。髪の色こそ違うのに、同じ顔で、同じ種類の羨ましさを滲ませている。
「パパとママの分は?」
「……今作ってる最中」
「本当に?」
「本当。ただ、その前に、あれの改良が先」
私は顎で、階段の上を示した。二階の私の部屋では、いまもきっと、あのお掃除ロボが消しゴムカスを追いかけている。
「リヴィ、これ、特許取ろう! 絶対取ろう!」
兄は、まぶたに蜘蛛を載せたまま、そう叫んだ。
「世紀の大発明だよ。ねえロティ」
「うん! 世界が、ひっくりかえる!」
「そんな大げさな」
私は、思わず苦笑した。
「ただの自己満足だよ」
夕食の準備が始まると、家の中は、さらに賑やかになった。
母が冷蔵庫を開けて、スウェーデン式のミートボールを作ると言い出す。父は付け合わせのジャムを探して戸棚をひっくり返し、「リンゴンベリーがない」と呻いている。兄は蜘蛛に目を温められたまま、台所の椅子に座って「僕は味見係」と宣言した。ロティは、ベッドの下で見つかったピアスを耳につけて、鼻歌を歌っている。その歌声が、またずるいほど綺麗なのだ。
私は、そっとその輪から抜けて、二階へ上がった。
自室の机の上では、お掃除ロボが、最後の消しゴムカスを前にして、ウィィ、と唸っていた。
私は椅子に座って、頬杖をついた。
ロボは一度、小山の手前で止まった。それから勢いをつけて、ぐい、と突っ込む。カスは見事に吸い込まれて、あとには何も残らなかった。続けて、キーボードの縁へと向かう。隙間に潜り込んで、ホコリを一粒ずつ、健気に拾っていく。
ほんの少しだけ、口元が緩んだのが、自分でもわかった。
窓ガラスに、うっすらと自分の顔が映っている。白に近い髪と、色の薄い瞳。外の世界では、いつも少しだけ浮いてしまう顔。でもこの部屋の中では、ただの、ロボットを眺めている十六歳の顔だった。
階下から、母の声が聞こえる。
「リヴィ、ごはんよー!」
「はーい。……あと五分」
「それ、さっきも言ったでしょ!」
私は、返事をせずに、もう少しだけロボを眺めた。
「……うん。完璧」
小さくそう呟いてから、私は椅子を引いて、立ち上がった。
なお、次の試作の設計メモには、すでに『パパ用:出張前の持ち物自動確認ロボ』と『ママ用:会議前の水分補給催促ロボ』の二行が、乱雑な文字で書き込まれている。
お読みいただきありがとうございました。
もし良ければブックマークと評価ポイントをつけていただけると、とても励みになります。
変更しましたが、週1、余裕ある時は週2の更新になります。




