023 旅人問答
「それでお兄さんは。昨日ここへ来たってことは旅人かい?」
旅人。
旅人か……
ちょっと面食らう響きだ。
今まで近しい人の中に、その言葉が相応しいような生活、或いは生き方をしている人間はいなかった。
「旅人」は漫画や映画、フィクションの中にしか存在しない…… とまでは言わないが、それでも私の人生と彼らの人生が交差した瞬間には思い当たらない。
今、私は旅人なのか?
わからない……
「……わかりません」
結局いつも通り気の利かない回答になってしまった。
でも、なんか良いですね、旅人なのかって質問。……心の中でだけ、そう付け加える。
「へえ…… じゃあ、どうして"煉瓦敷"に?」
「えーと、特に用事があった訳では……」
「他の街への道中かい?」
「……そういう訳でもありません。たまたまというか……」
彼女は小さく笑って頷く。
くりくりとした瞳が、私を捉えて瞬く。
「まあ何にせよ、あたしは助かった」
がたがたと規則正しく揺れる荷台。
ジューススタンドを引く熊耳の車夫は、立ち並ぶ軒の店先でガラス窓を磨く少年に威勢よく挨拶をされ、片手を上げて応えている。
雨のレースカーテンの向こうから、バニラに似た甘さと柑橘類の爽やかさが混ざり合ったような、食欲を刺激する香り。
旅か。
ーー旅。
しばらく呼吸を置いて、ふと思い出したように彼女が続けた。
「仕事に飢えてるってのは?」
え? 私、そんなこと言ったかな?
……あ、そういえば言ったかもしれない。
「それは、ええと、仕事を探しているところで、つい……」
あの安アパートの一室では、あれ程動き始めることに対して消極的であったはずで、それは決しておかしなことではなかったと今も感じているのに、今日、私は流れるように求職している。
こんなに切羽詰まったら誰でも…… とか、そういうことではない気がしている。なんというか、状況がそういう風に整ったからなのだ。
面白いなあと、他人事のように思う。
「おや、じゃあしばらくはこの街に滞在するのかい?」
「……そう決めている訳でもなくて…… いえ、そうしたくないということではありませんが」
来た時と同じように帰れるならば、自分はいきなりこの世界から消えることになる。
それを考えると、長期の仕事には就けない。当面の衣食住を確保するためのお金を、短期間、というより寧ろ短時間で稼ぐのが望ましい。
今朝から一向にリジィ入手の活路が見い出せない一因が、このわがままな条件設定にあることは自覚している。
……駄目だ、会話が禅問答に陥っている。
横を歩く妖精が、私の眉間に寄ったシワに気付いて苦笑している。
「どうするにしろ、手持ちが、まあ、なくて…… リジィが幾らかあればもう少し状況が楽になると思って、どうにかできないものかと街を歩いていたんです」
強引に話を纏めると、彼女はなるほどと頷いて見せた。
「どうにかできないものかと街を歩く」というのは、流石に自分でも全くもって冴えない台詞だと思うが、それ以外に言い様もないのでそう言わざるを得ない。
好意的な返事は、一重にこの女性の度量の深さによるものだろう。
「まあ何をするにも先立つものは必要さねえ」
引き続き、うんうんと小ぶりな頭を上下に揺らす彼女は、確実に愛店の修理費のことを考えている。
客観的に見れば、完璧な無一文であり、おまけに腹を空かせている私の方が危機的な状況にあると言えるだろう。
相手が大変そうだからと言って変に遠慮などしていては、自分の問題が一ミリも解決しない場合があるということは、29年も生きていれば知っている。
それでも、今の私には彼女に比べて圧倒的に現実感が欠けていた。
多分、心の奥底で未だこの場所が夢の中かもしれないと疑っているせいだ。
要するに、どうにも私はこの地に足が着いていない。
彼女は今、恐らく私に対して「最低限のお金はあっても自由にできるお金が少ない男」程度の認識を持ったことだろう。
ふわふわした足場におっかなびっくり立っているだけの私は、敢えて彼女の誤解を解きたいとは思わない。
あの時、荷崩れが起こったのが、憲兵の詰所への道を聞く前だったのはーー今も彼女は、結局私が何を聞こうとしていたのか気にはなっているのだろうが、蒸し返しはしないだろうーー不幸中の幸いだった。
彼女が私の現状を察してしまっていたら、例え店舗が崩壊し、商売道具が木屑と化していようとも、「手伝いのお礼に」と無理を押して何か手助けしてくれようとでもしそうなのだ。
あまりにも恐縮なそういうことを、彼女はし兼ねない雰囲気がある。
「本当に、そうですよねえ……」
万感の思いを込めて、当たり障りのない相槌を打つ。
人力車の先が、もう大通りへの角を左に折れようとしている。
短い間に三度通ったジグザグの、小さな商店街に似た小道の終わりだ。あっという間だったな。
煉瓦の色の明るさが、ほんの僅かに変化する。
もう慣れてしまった、大通りのオレンジ色。そう言えばまだこの道の名前を知らないけれど、案外住人も「大通り」としか呼んでいないかもしれないな。
「でも、だからと言うのもおかしいですが、少し落ち着いたんです。お手伝いができて…… 何かできることがあって」
声を出さずに、妖精がまた小さく笑った気配がした。
私の髪やTシャツは細かな雨が染み込んで、ぺたりと張りをなくしている。それなのに彼女の髪や服は、歩くごとに雨粒の瑞々しさを振りまいているようだ。
この差は一体なんだろうと、考えるともなしに考えながら、言葉を続ける。
「なんというか多分、焦っていたのも良くなかった。まあ、もうちょっと探してみます」
パーツ店が見えてきた。
私の歩いている側だ。まだ少し距離があるが、店先の巨大な樽が目印になっている。洗車は終わっているようだ。
「もう着きますね」と零せば、店主は反対側から首を伸ばして行く先を確認し、次にがたがたと振動する車輪をじっと見つめて「そうだね、無事着きそうだ」とゆっくりした返事をくれた。
通常よりかなり遅い速度。二人の後方確認者を連れた人力店舗は、些細な注目を浴びながら進む。
連なる石造りの店々。入口扉のベルの音。魔法使い風の嗜好の服飾店。菓子店の、カラフルに彩られた鉄看板。左手遠くに、プルシャン・フローが見えている。
やがてギギッと金属の軋む鈍い音を鳴らしながら「オーロラ色のジューススタンド」が減速を始めた。
到着だ。
ガレージのような店構え。中から、従業員が顔を出す。
がたんと一際大きく荷台が揺れて、ささやかに踊る雨の中、熊耳の車夫が移動店舗の停止動作に入る。
「……もう一つ、頼みたいことがあるよ。ちょっとした、街の外の仕事さね。後払いになっちまうけど、リジィを出せる、はずだ」
そして車輪が完全に停止した時、私の顔を覗き込んだ妖精が、目を細めてそんなことを言った。




