021 妖精のお遣い
「本当に申し訳ないんだけどね、このまま修理を呼びに行かなきゃならない。ちょっとの間、留守番しててもらえはするかい?」
当然だ。
そう言われるだろうと思いつつ、他に手伝えることがないかと聞いたのだから。
彼女の危機は去っていない。
この愛店の運搬スタイルから見た大まかな括りは人力車と言えたが、座面に相当する部分はかなり改造され、荷物の運搬に特化した作りになっている。
工事現場で使われる手押し車ーー進む方向は真逆ではあるがーーと、観光地で見かけるようなレトロな人力車を足して二で割ったような見た目をしている車体は、線が細く、力任せの運用には弱そうな印象を受ける。
そして今、この車にとっての要の軸、二つの大きな車輪を繋ぐ鉄の棒が大きく歪み、片側は車輪から抜けかかっていた。
今は全ての荷物をその体から降ろし、華奢な骨格を晒して佇むこの人力車を、応急処置もなしに動かすことはできない。
彼女の言い分は当然だと思えた。
しかし、その頼みをそのまま聞く訳にもいかない。
私は少し考える素振りをしてから、こう返した。
「いえ…… 私が行ってきます。呼びに行くのは大通りのパーツ店ですよね? 昨日軒先で修理をしている所を見たのでわかります」
「まあそうだがね…… いやここはあたしに行かせておくれよ。これ以上なんやかや大変なことさせるのは悪いさね。お兄さん体力自慢って訳じゃないだろう」
からからと笑いながらも、少し困ったような表情を見せる店主。
「このお店はここで随分繁盛されているでしょう? 留守番中にお客さんから話し掛けられても上手く答えられるか分かりませんし、私としてもお遣いの方が気が楽です」
お客さんを引き合いに出すのは少し卑怯な物言いかとも思いつつ、私は流れでそう言い切ってしまった。売り物はすっからかんとは言え、初対面の人物の店を一時的にでも預かるのにちょっとした臆病心が働いた…… というのも薄らと伝わったのかもしれない。
「これで断られたらしつこく食い下がるのはやめよう」と思いながら返答を待てば、彼女は「そこまで言うなら」とでも言いたげに大きな目を細めた。
「じゃあお言葉に甘えようかね。売上の確認でもして待ってるよ。無理して急がなくていいからね」
ほっと息をついて、私は肩の力を抜いた。
「はい。ええと…… 道は、こっちから回って、大通りの…… 家具店の方に出たら良いんですよね」
「そっちは遠回りだ。あっちからなら殆ど一本道だよ。曲がりくねった細い道だけど、何にも考えずに歩いてさっさと大通りに出られる」
なるほど。
私はいわゆる方向音痴ではないが、取り立てて鋭い感覚を持っている訳でもない。
慣れない場所で、自分の通るべき道と通った道の様子を確認し、暗記し続けている私にとって、彼女の提示する道順は大層魅力的なものであった。
「わかりました。では呼んできます」
「頼んだよ。オーロラ色のジューススタンドって言えばわかると思うからね」
オーロラ色のジューススタンド。
彼女の売り物とは、ジュースであったのか。
そう言えば先程、常連客に「一杯飲んでって欲し」かったと言っていたな。そんなことを思いながら、私は頷いてみせた。
ーー昨日ぶりに小さな目的を得た私は、早歩きで妖精の指し示した先を進んだ。
空腹は一旦忘れることにした。
実際のところ、この大きな欲求を無視することは至難の業ではあるのだが、私のお遣いが確実に一人の街人にとって有益であるのだという喜ばしい事実が、それをある程度可能にしていると言えるだろう。
店主の言うところの曲がりくねった一本道は、予想より高い両壁に挟まれてはいたが、単純な通路道と呼ぶのがはばかられる程度の広さを持った通りであった。
有機的に湾曲するテラコッタ色は、この小川のような道が何らかの計画に沿って作られたのであろう目抜き通りと異なり、生活の必要に迫られて自然発生的に整備されたものであることを示している。
無理矢理に敷き詰められたせいで秩序を持てず、所々浮き上がってさえいる煉瓦たちを踏み鳴らす足取りは軽い。
「何も考えずに」歩けるなどとあの愛嬌に満ちた妖精は言ったが、見るもの全てが新しい情報である私には、それは必ずしも当て嵌るものじゃない。
美容院、惣菜店、楽器店ーーだと思いはしたが、もしかしたら玩具か、全く未知の何かを売る店かもしれない。なんとか自分の現在の目的を思い出し、私は笛の高音やボンゴのような重低音が店先まで賑やかしく溢れ出るその店先から足を引き剥がしたーーなどのこじんまりとした店々と、その隙間に立ち並ぶアパートメント。
余計な目線の動きは最低限に留めつつも、私は大通りとはまたひと味違う趣の一本道を、興味深く突き進む。
自然光の入射角度は次第に広がってゆく。
「朝」はもう、この街から立ち去ってしまったようだった。
ーーさて、人力車のパーツ店には、思ったよりも早く到着した。
目につく人々に職の斡旋に関する質問を投げ掛けて徘徊した先程に比べれば、しばし小走りにさえなった私の歩みの速度は雲泥の差だったからだ。
ガレージのような造りの店の前には、たっぷりと水を湛えた巨大な樽が置かれている。その横で、男二人がかりで大振りな四人乗りの人力車の洗車が行われていた。
小雨の下、それを遥かに上回る水を浴びせられ磨かれ、艶々と輝く鉄の塊は、この街に来る直前、コンビニの駐車場で見た黒い自動車のボンネットのきらめきを思い起こさせる。
声を掛ければ二人のうち一方、がっしりとした壮年の、いわゆる人間の男が、目の前の巨体を撫でる古布の手を止めた。
思いの外落ち着いた声で用件を尋ねられる。
がやがやとした通りの話し声と、時折響くステッキの音を背景に、妖精の店主の言葉を思い出しながらゆっくりと希望を伝えた。
「オーロラ色のジューススタンドの使いのものです。広場で、車の…… 曲がった軸が外れかかって、動かせなくなってしまいました。店主によると、その前に溝に嵌っているようです。見に来て頂けますか?」
一息にそう言えば、心得たという風に彼は頷き、店の奥に向かって何やら声を掛ける。
奥から出てきたのは、性別不詳の、中性的な顔立ちをした若い店員だった。
チョコレート色の髪に獣耳、大きめの手にはきちんと切り揃えられた厚い爪。筋骨隆々とは言わないが、私より遥かに力がありそうな雰囲気をしている。
「すぐに参りましょう」
余計なやりとりはなかった。
私が先の壮年の男に目礼をするやいなや、特に大きく表情を動かすこともなく熊めいた店員ーー職人、技術者、或いは修理工ーーは、太い肩紐を通した大きな工具箱をひょいと肩に引っかける。
そしてそのまま私を先導するかのように迅速に、頼もしく歩き出したのであった。




