020 樽支え人
ーーいやお兄さん、ほんとうに申し訳なかったねえ。
まだ微かに息を切らした私にそう言いながら、同じく肩を小さく上下させた店主はにこにこと笑っている。
「いえ、お怪我がなくてなによりでした」
「ああ、ありがとうね。替え時だとは言われてたんだけど、まあもうちょっと使えるだろうと思っててね。今朝来る途中に溝に嵌った時に力尽くで引いたのが悪かったのか…… まさか車輪が軸から抜け掛けてるとはねえ」
彼女は少し笑顔を崩して眉根を寄せたが、不機嫌と言うよりは何か考え込んでいるといった表情に見えた。そのアクシデントの時のことを思い出しているのかもしれない。
腕を組んで、細身の体を揺らしている。
六十代後半くらいだろうか。老女という程の年齢ではない。
光の加減で違った色を見せるショートボブの髪は、ころっとしたシルエットを作っている。
肩からショルダーバッグのように斜めに提げているのは、口紐の長い巾着のような革袋。石畳につきそうなほど長い、シンプルな形の麻色のスカートには、膝下辺りから裾にかけて黄や黄緑の複雑な色合いの、繊細な刺繍が施されている。きらきらと控えめに煌めく糸で彩られた布地が、はたはたと風に揺れて優し気だ。
「軸が外れきらなくて良かったですが……」
「そう、そうだね。修理代で頭が痛いと思っちゃいたが、確かにそこまでいってちゃあ全部滅茶苦茶だったろうよ。まあ売り物は殆ど売っちまった後だったから荷も空樽が多かった。その上、動かしてる時でもなかったからね。そう考えればまあ、助かった」
ぱっと腕を解くと、そこで唐突に彼女は私に向き直った。
「お兄さんにも随分時間を取らせたね。朝っぱらから余計な仕事をさせて悪かったよ」
「いいえ、全く。ある意味仕事に飢えていたので寧ろ気持ちが落ち着きました。それより他にお手伝い出来ることはありますか?」
下唇を親指の腹でなぞりながら申し訳なさそうに頭を下げる妖精にきっぱりとそう返すと、彼女は少し不思議そうな表情を作ってみせた。次いで「仕事に飢える…… いやまあ、そう言ってもらえるなら……」と小さく零して、懐っこく破顔する。
半透明の羽が小さく震えて、その向こうがホログラムをかけたみたいに輝いている。
ーー先程私の目の前で起こった派手な荷崩れは、しばし小さな広場の時を止めた。
原因は車輪まわりのトラブルにより、静止していたはずの人力車体が一時的にバランスを失ったことであったが…… 「どんがらがっしゃん」という古典的な擬音を背景に車上の樽や木箱が次から次へと崩れ落ち、反射的にその場から数歩後退した私と店主の眼前で、即席のレジ台やその周辺に置かれていた小樽、木箱、桶の上にバウンドして飛び散らかったのだ。
私もしばし、以前自宅のランドリーラックが洗濯機を回した瞬間に突如大破して崩れ去った事件を脳裏にフラッシュバックさせ、後ずさった姿勢のまま固まっていた。
ぐわんぐわんと円を描いて安定を喪失してゆく大振りな樽に駄目押しで最後の木箱が落ちかかり、当然の如く横倒しになった大樽がごろごろと転がり始める。
そしてその瞬間、一番最初に言動の自由を取り戻したのは、やはりと言うべきか流石と言うべきか小柄な移動店舗責任者であった。
「わっ、あっ、すみませんね! おっとっとっとっ……」
不特定多数の観客たちに騒動の発生を謝罪しつつ、あらぬ方向に出発し始めた樽に慌てて取り付き、その拍子によろけた彼女を見て、私の凍り付いた手足も急速に体温を回復する。
「おっとっとっとっ」
つられて普段は口にしないような台詞を飛び出させながら駆け寄り、私も樽を支える。
中身は空だったようで、思ったよりも腕にかかった衝撃は少なかった。
その頃には周囲のもうあと二人が私と同様の行動に出ており、我々は店主一人でも抱えられるであろう重量しか持たないはずの樽ひとつを、大の大人数人が次々に必死で抑え込むという、振り返れば多少滑稽な一幕を演じてしまうことになったのである。
最も注目を集めた動きをしたこの大樽の停止を受けて、広場は安堵の静寂に包まれた。
豊富な人生経験を持っているのであろう店主はまず、彼女の真横で樽に手を掛けたまま所在なく突っ立っている我々に丁寧に礼を述べ、怪我の有無を確認した。
勿論誰一人怪我などしていない。
頑張れば私一人くらいなら体をおさめられそうな木樽はぴかぴかに磨かれていて、手に棘のひとつも刺さりはしなかった。
次いで「お騒がせしてごめんなさい」と今一度、陽光の中で小雨に濡れる広場全体に、オーロラの髪を揺らす彼女がいたずらっぽく笑顔を見せると、せき止められていた時は流れ始める。
元々人力車が停めてあった場所のまわりにはささやかなバリケードのように彼女の荷物が置かれていた。普段から万一の時に備えてーーそしてその万一が私の眼前に広がった光景であったのだがーー、車上の積荷の落ちかかる可能性のある場所に、客が立ち入らないようにしていたのだろう。
「さて皆さん、本当にありがとうね! さあさあ、お急ぎでしょう、ここはもう大丈夫。一杯飲んでって欲しいんだけどもうすっからかんでね。明日にでもまた寄ってくれればサービスするよ」
大破した木箱の残骸の中、あまり上手くないウインクをして妖精がそう言えば、私を含めた三人の樽支え人は、口々にこの程度のことは何でもないし、そもそも特に何の役にも立っていないと発言する。
ころころ笑う店主に向かって更に一人の男性客が、片付けも手伝おうと申し出たが、それは彼女の「何言ってるんだい、いくらあんたのとこでも遅刻しちまうよ」の台詞でばっさりと却下されてしまった。
常連だろうか、気安いやり取りではあったが、言われた当人はやはりこの惨状を放置し難いらしく微かに唇を尖らせている。
これくらい一人で何とかできる、気持ちだけ受け取っておくよと笑って彼の背中を叩く妖精の羽は美しく張り、成程彼女だけでも事態を収拾することは可能だろうと思わせる雰囲気であった。
しかし、まあそこは。
「私がお手伝いしますよ。特に急ぎの用事もありませんから」
こうなるだろう。
流石に「はいそうですか」とここを離れようとは思わない。
そして。
ーー結局、当初の目的地へ早急に足を進めざるを得なかった二人に「どうかよろしく頼む」と頭を下げられた私は、そこから体感約十五分、ひたすら全壊した木箱の木片を拾い、半壊した桶をそろりそろりと持ち上げ、無事だった樽にそれらを差し入れ続けた。
店主には、私の方が体力があるのだしーー言い切りはしたが実際のところ自信はなかったーー軽そうな破片から片付けて欲しいと頼みはしたが、要員が二人しかいない以上、完璧な分担は難しい。
僅かな時間ながらなんだかんだと各々の体格に合った重労働とあいなった私たちは、「そもそもお兄さん、最初あたしに何か聞こうとしてなかったかい? ほんとに用事はないのかい? 何かあるなら遠慮せずに自分のことをおしよ」「いえ、大したことではありませんでしたから」などと合間に息切れを挟んだ会話を繰り広げつつ、眼前の仕事に取り組んだのであった。




