019 煉瓦敷
夜のまどろみが拭い去られてゆく街は、如何にも早朝といった様子だ。まるで「始まり」のお手本である。
やはりここは昨日探索していない道にすべきだろう、カロリー生花店や安宿街とは反対に位置するブロックを開拓することにする。
なるべく店が多くあり、様々な種族たちの動きが見られそうな通りを選んだ。
雨には波があった。
少し強くなってきて、まずいかなと思った瞬間、潮が引くように弱まる。
気まぐれな天候にいちいち翻弄されながら、次々に開店してゆく軒先を、私も次々に覗いた。
朝一番にも関わらず、胸元の装飾を完璧に編み上げたドレスをひらりと揺らし、露を弾く食材を買ってゆく若い女性。友人らしき数人で手を繋ぎ、重そうな革の鞄を抱えて走ってゆく子供たち。
揺れる長い焦げ茶のしっぽ、青いサイドテール。口を抑えてあくびを隠す、長い鉤爪の手。
平和だ。
昨日も感じたことではあったが、やはり中心部から遠ざかるに従って、街の風景は古めかしく、格調高くなってゆくように見えた。
人波の中に、いくつも響くステッキの音。上等な革靴の足音。
これらが"煉瓦敷"に通底するイメージの源泉なのだろう。この空気が大通りで、恐らく別の街から流れ込んで来た様々な、私を含めた沢山の人たちを柔らかく包んでいた。
きっと異なる街はまたその街特有の色を持っていて、雰囲気もかなり異なる。あの服装のバリエーションから、そんな風に思う。
だからここは、こういう石畳の雰囲気が好きな人たちが集まって作っている街なのだ。
多分。
……名物とかもそういう感じなんだろうか。
この街にはどういう料理が似合うだろう。パン。グラタンとか。ミートパイ。煮込みハンバーグとかも良いかもしれない。野菜ならシンプルなグラッセ。薄い塩味のスープ。お菓子は焼き菓子かな、マドレーヌやマフィン、バターの香り……
ここでうっかりそんなことを考えた私は、さて、とうとう重大な問題に目を向けざるを得なくなってしまった。
失敗したな。
もう少し、目を逸らしていたかった。
考えないようにしてたのに。
いや違う、実際のところはきっと考えまくっていた。しかし、答えが出なさすぎて、意識の奥に沈めこもうと努力しまくっていた。
しかし駄目だ。
くそう。
ーー腹が減った。
……ほんとうに、これは、これだけは、どうしたらいい。
昨夜、よっこらしょっとあの家具店の石階段に座り込んだ時点で、空腹感はあった。
あの時は気のせいということにしたが、これ以上この問題を棚上げにすることは不可能な気がする。
かれこれ何時間、食べたり飲んだりしていない? 昨日の昼前の前の夜中の数時間前の夕飯の袋麺が最後だから…… ややこしいな…… ええと…… 二十時間くらいか。
やばいな。
そりゃあ、腹も、減る……
そもそもコンビニに向かっていた時点でケーキを買って食べようとしていた訳で、そこから延々お預けをくらっているのである。
風邪を引いた時の熱と同じで、状況を完全に把握、自覚した瞬間に脱力感に打ちのめされてしまった。これはきついぞ……
どうにかしなければ。
よし。
とにかく、今日は食べ物だ。
食べ物を入手だ。というかお金か。
そうだ、どちらかと言えば考えるまでもなくお金だ。
しかしこの場所でお金を手に入れる難易度を思うと……
いやいや、諦めては駄目だ。何か方法があるはずだ。
なにも、完璧なフルコースや巨額の富を我がものにしろというのではない。
食事付きの日雇いとか、何かあるはず。
それにしても…… 例えば自他ともに認める特技でもあればーー歌とかダンスとか似顔絵とかーー今ここでパフォーマンスなりしてお金を稼いだりできるものなのだろうか。
……違うな。足りないのは能力だけじゃない。私に足りないもの、きっとそれには「思い切り」や「度胸」といった類の名前がついている。
仕事、食べ物、お金…… と口内で呟きながら、私は街を更に徘徊した。
メインストリート以外の場所を歩いているにも関わらず街並みを飾るように人通りは増え、日は頭上高くを目指し始め、雨は止まず、片手に軽食らしきものを携える人々とすれ違いさえする。揚げ物の香りに腹が鳴る。
何となく、ちょっとした裏道に入ってみる。
相変わらずの石造りではあるが、住居が増えて店舗は減った。年季の入った木製のベンチを利用したオープンカフェや、個人規模の露天、鉄のフレームの人力車の上に設えられた移動店舗がちらほらする中を、きょろきょろ歩く。
あまりにも収穫がない。
そんなことを考えていれば、ささやかな円形の広場に差し掛かった。
足下の煉瓦がこれまでとは違い、放射線状に配置されている、その端に立ち止まる。
……もう! 仕事にありつくための施設はどこにあるんだよ!
ネットで検索できないというのがこんなに不便だったなんて、知らなかった。
そんなものが手の中に存在しなかった子供時代は、そもそもこんなことに頭を悩ます必要がなかった。
ここまで、何人かの道行くご婦人や話し掛けやすそうな店主に、簡単な仕事を斡旋してもらえる場所か、今日の食事を賄ってもらえる日雇いはないかと尋ねてみたが、どうにも上手くいかない。
「あるにはあるはずだが利用したことがないので良く分からない」とか「ある程度身元がしっかりしていないと紹介し難い」とか言われるのだ。
私の聞き方というか、聞く相手の選定方法が悪いのだとも思うが、埒が明かない。
この街で生きている人たちは皆、どこで最初の一リジィを手に入れたんだろう。
ーー少し路線を変えようか。
憲兵。憲兵はどうだ。
交番、もとい憲兵の詰所のようなところに押し掛けるのはどうだろう?
日本だったら、どうしても困っている時にはお巡りさんに電車賃を貸してもらえる。同じようなシステムの存在を信じてみるか。
昨夜とは違い、初対面の少女という名の懸念事項は無い。でもあれこれ事情を聞かれた時に、違う世界から来たらしいと言って大丈夫だろうか? 駄目そうなら嘘をつかないといけないのか…… いいや、それは……
本当のことを、できるだけ柔らかく説明するのだ。同じような境遇の人間が存在しないと決まっているわけではない。
ゆっくりと辺りを見回しながら新たな方針を決めた私は、とある一軒、あるいは一台の人力車兼、移動店舗の脇に立つ、人の良さそうな年嵩の女性の元へ、ふらふらと近付いて行った。
一体何を売っていたのか不明だが、早速仕事終わりを迎えているらしい。石畳に並んだ樽や木箱を次々と人力車上に押し上げ積み重ね、後片付けに精を出す彼女と目が合った気がしたのだ。
距離があと十歩のところまで縮まった時、その肩の向こうに薄い羽根があるのが知れた。
髪は光の当たり方によって、揺らめくようにその色を変えている。背丈は小柄な、人間の成人女性と同程度。さて、この人は妖精なのか?
兎にも角にも、もうそれくらいでは二の足を踏んだりはしない。
目を細めてこちらを見やるシワの寄った小さな顔に、気持ち大きめの声で、問いかける。
「すみません、お忙しいところ申し訳ないんですが、」
憲兵の詰所のようなところへの道を教えていただけませんか。
そう続けようとした声はしかしーー
予想外の大音量に遮られたのであった。
雪崩。
そんな言葉が脳裏に浮かんでしまう程の、彼女の愛店の荷の大崩れによって。