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夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


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8/12

第8話 敵の敵は味方、味方の敵は

ヨーゼフという老人は、紅茶を淹れるのが異常に上手かった。


ブラント邸の客間。隠し書庫ではなく、正規の部屋だ。クラウスが「計画の打ち合わせに必要だから」と、日中の訪問を許可した。表向きは「借金の交渉」。犬猿の仲の延長線上にある、もっともらしい理由。


ヨーゼフが運んできたティーカップからは、見たことのない花の香りがした。


「ラベンダーとミントの調合でございます。お嬢様」


七十歳の老執事。白髪を整え、背筋がまっすぐに伸びている。声は穏やかだが、目には鋭いものがある。


「ヨーゼフ。私のことは名前で構わないわ。お嬢様なんて、もう」


「失礼ですが。お嬢様はお嬢様でございます」


反論を許さない穏やかさ。


クラウスが、執務机の向こうから口を挟んだ。


「ヨーゼフ。王妃の筆頭侍女、ルシア殿への橋渡しは可能か」


「先代のお骨折りで、ルシア殿とは長年の信頼関係がございます。非公式の面会であれば、三日以内に」


「早いわね」


「信頼とは、そういうものでございます」


ヨーゼフの目が、私を真っ直ぐに見た。


「先代様は、レーマン子爵を信頼しておりました。お嬢様のお父上を」


膝の裏が冷えた。


「先代が、父を?」


「はい。宮廷の浄化を志す同志として。詳しくは、若様からお聞きください」


クラウスの方を見た。クラウスは視線をそらした。右手が左の袖口を掴んでいる。動揺の癖。


「……それについては、いずれ話す」


「いずれ?」


「今は計画を詰めるのが先だ」


話を逸らされた。追及は後にする。今は確かに、計画が先だ。


◇◇◇


新しい計画の骨子はこうだ。


一、ヨーゼフが王妃の筆頭侍女ルシアに接触し、非公式の情報提供ルートを確立する。

二、証拠は二系統に分けて届ける。クラウスの手元にある財務資料の矛盾をヨーゼフ経由で。暗号日誌の解読結果は、社交界経由で間接的に。

三、「犬猿の仲」のカモフラージュを最大限活用する。クラウス側から届いた証拠と、テレーゼが社交界で蒔いた疑念が、別々の情報源から王妃の耳に入るように設計する。


「二つの独立した情報源が同じ結論に達すれば、王妃も無視できない」


「そうだ。一つなら握り潰せるが、二つ同時は難しい」


合理的な計画。だがリスクもある。


「ギュンターの探りは?」


「俺を含む三人の候補を洗っている段階だ。まだ確定はしていない。この数日で決定的な証拠を掴まれなければ、候補のまま停滞する」


「停滞している間に、王妃ルートを確立する」


「そういうことだ」


時間との勝負。だが、前回のように焦って失敗するわけにはいかない。


「今回は、慎重にやりましょう」


クラウスが頷いた。ヨーゼフも静かに頷いた。


三人。共犯者が三人になった。


前回よりリスクは増えている。でも、前回よりも心強い。


……そんなことを思うのは、弱さだろうか。


◇◇◇


ヨーゼフが席を外した後、来客があった。


侍女が告げた名前に、私もクラウスも固まった。


シャルロッテ・クレール。


「通すな」とクラウスが言いかけたのを、私が止めた。


「通して」


「正気か」


「あの女が自分からここに来る理由を知りたい」


クラウスは眉をひそめたが、反論しなかった。


シャルロッテが客間に入ってきた。蜂蜜色の巻き毛が乱れている。化粧も薄い。社交界で見るシャルロッテとは別人のように消耗している。


「レーマンさん。お願いがあるの」


「私に?」


「……助けてほしい」


誰も何も言わなかった。


クラウスが壁際に立ち、腕を組んでいる。私は椅子に座ったまま、シャルロッテを見つめた。


「叔父が、ギュンター叔父が、最近おかしいの。部下を使って、あちこちの貴族家に探りを入れている。財務記録を書き換えている。私に証拠の隠滅を手伝えと」


声の輪郭がぼやけている。


「私は、叔父が好きよ。家族だもの。でも、やっていることが正しくないことくらい、わかる。最初は家族を守るためだと思っていた。でも、もう……」


涙が頬を伝った。


「お願い。あなたなら、あなたのお父様のことを調べていたでしょう? 証拠を持っているでしょう? 叔父を止めて。もうこれ以上」


私はシャルロッテの顔を見た。


涙。震え。乱れた髪。消耗した顔。


本物だろうか。


ギュンターの差し金ではないか。涙で同情を引き、私から情報を引き出す罠ではないか。


この女は社交界の情報操作のプロだ。涙すら武器にできる人間。


でも、もし本物だとしたら。


「シャルロッテ」


「……なに」


「あなたが持っている情報を、全て教えて」


シャルロッテの目が広がった。


「証拠の隠滅を手伝えと言われた、ということは、あなたは具体的に何を隠したか知っているのね」


「……ええ。帳簿の。原本の写し」


「それはどこにあるの」


「叔父の私邸の金庫。でも」


「写しは取れる?」


シャルロッテは黙った。長い間。そして、小さく頷いた。


「三日で用意する。でも、あなたは私を信じるの? 今まで私はあなたを」


「信じない」


シャルロッテの目が揺れた。


「信じないけれど、情報は受け取る。信頼と取引は別物よ。あなたが嘘をついていたら、それはあなた自身に返ってくるだけ」


冷たい言葉だと思った。自分でも。


シャルロッテは涙を拭い、立ち上がった。


「三日後に。同じ場所で」


部屋を出ていくシャルロッテの背中を見送りながら、胸の奥がざらついた。


正しかったのだろうか。


手を差し伸べるべきだったのだろうか。「大丈夫、一緒にやろう」と言うべきだったのだろうか。


わからない。


「……厳しいな」


クラウスの声。壁際から。


「あの女を信じる理由がない」


「だが、嘘と決めつける理由もない」


「だから情報だけ受け取った。感情は挟まない」


クラウスは何も言わなかった。


◇◇◇


シャルロッテが去った後、クラウスが危険な任務に出ると告げた。


ギュンターの候補リストから自分を外すため、わざとギュンターの前で「財務に関心がない」演技をする必要がある。財務卿補佐官の会議で、あえて的外れな発言をして「こいつは無害だ」と思わせる。


「自分を無能に見せるのは得意じゃないが」


「あなたにしかできない仕事ね」


「皮肉か」


「褒めてるの」


クラウスが立ち上がった。書庫の扉に手をかける。


「明後日には戻る。結果は」


「気をつけて」


言おうとした。でも、口をついて出たのは別の言葉だった。


「……勝手にしなさい」


喉の奥で音が割れた。


クラウスが振り返った。蝋燭の灯りの中で、私の顔を見た。


少しの間があった。


微かに、本当に微かに、口の端が上がった。


「勝手にする」


扉が閉まった。


一人になった書庫で、ヨーゼフが淹れてくれたラベンダーティーの残りを飲んだ。


冷めていた。クラウスが淹れるカモミール茶とは、全然違う味がする。


……比較するな。意味がない。


窓のない書庫の中、蝋燭の炎が天井に長い影を落としている。


シャルロッテの涙。クラウスの背中。ヨーゼフの穏やかな目。


一人じゃない。


いや、そうじゃなくて。一人じゃないと思いたいだけかもしれない。


でも。


炎を見つめながら、もう一度だけ呟いた。


「気をつけて」


誰にも聞こえない声で。


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