第8話 敵の敵は味方、味方の敵は
ヨーゼフという老人は、紅茶を淹れるのが異常に上手かった。
ブラント邸の客間。隠し書庫ではなく、正規の部屋だ。クラウスが「計画の打ち合わせに必要だから」と、日中の訪問を許可した。表向きは「借金の交渉」。犬猿の仲の延長線上にある、もっともらしい理由。
ヨーゼフが運んできたティーカップからは、見たことのない花の香りがした。
「ラベンダーとミントの調合でございます。お嬢様」
七十歳の老執事。白髪を整え、背筋がまっすぐに伸びている。声は穏やかだが、目には鋭いものがある。
「ヨーゼフ。私のことは名前で構わないわ。お嬢様なんて、もう」
「失礼ですが。お嬢様はお嬢様でございます」
反論を許さない穏やかさ。
クラウスが、執務机の向こうから口を挟んだ。
「ヨーゼフ。王妃の筆頭侍女、ルシア殿への橋渡しは可能か」
「先代のお骨折りで、ルシア殿とは長年の信頼関係がございます。非公式の面会であれば、三日以内に」
「早いわね」
「信頼とは、そういうものでございます」
ヨーゼフの目が、私を真っ直ぐに見た。
「先代様は、レーマン子爵を信頼しておりました。お嬢様のお父上を」
膝の裏が冷えた。
「先代が、父を?」
「はい。宮廷の浄化を志す同志として。詳しくは、若様からお聞きください」
クラウスの方を見た。クラウスは視線をそらした。右手が左の袖口を掴んでいる。動揺の癖。
「……それについては、いずれ話す」
「いずれ?」
「今は計画を詰めるのが先だ」
話を逸らされた。追及は後にする。今は確かに、計画が先だ。
◇◇◇
新しい計画の骨子はこうだ。
一、ヨーゼフが王妃の筆頭侍女ルシアに接触し、非公式の情報提供ルートを確立する。
二、証拠は二系統に分けて届ける。クラウスの手元にある財務資料の矛盾をヨーゼフ経由で。暗号日誌の解読結果は、社交界経由で間接的に。
三、「犬猿の仲」のカモフラージュを最大限活用する。クラウス側から届いた証拠と、テレーゼが社交界で蒔いた疑念が、別々の情報源から王妃の耳に入るように設計する。
「二つの独立した情報源が同じ結論に達すれば、王妃も無視できない」
「そうだ。一つなら握り潰せるが、二つ同時は難しい」
合理的な計画。だがリスクもある。
「ギュンターの探りは?」
「俺を含む三人の候補を洗っている段階だ。まだ確定はしていない。この数日で決定的な証拠を掴まれなければ、候補のまま停滞する」
「停滞している間に、王妃ルートを確立する」
「そういうことだ」
時間との勝負。だが、前回のように焦って失敗するわけにはいかない。
「今回は、慎重にやりましょう」
クラウスが頷いた。ヨーゼフも静かに頷いた。
三人。共犯者が三人になった。
前回よりリスクは増えている。でも、前回よりも心強い。
……そんなことを思うのは、弱さだろうか。
◇◇◇
ヨーゼフが席を外した後、来客があった。
侍女が告げた名前に、私もクラウスも固まった。
シャルロッテ・クレール。
「通すな」とクラウスが言いかけたのを、私が止めた。
「通して」
「正気か」
「あの女が自分からここに来る理由を知りたい」
クラウスは眉をひそめたが、反論しなかった。
シャルロッテが客間に入ってきた。蜂蜜色の巻き毛が乱れている。化粧も薄い。社交界で見るシャルロッテとは別人のように消耗している。
「レーマンさん。お願いがあるの」
「私に?」
「……助けてほしい」
誰も何も言わなかった。
クラウスが壁際に立ち、腕を組んでいる。私は椅子に座ったまま、シャルロッテを見つめた。
「叔父が、ギュンター叔父が、最近おかしいの。部下を使って、あちこちの貴族家に探りを入れている。財務記録を書き換えている。私に証拠の隠滅を手伝えと」
声の輪郭がぼやけている。
「私は、叔父が好きよ。家族だもの。でも、やっていることが正しくないことくらい、わかる。最初は家族を守るためだと思っていた。でも、もう……」
涙が頬を伝った。
「お願い。あなたなら、あなたのお父様のことを調べていたでしょう? 証拠を持っているでしょう? 叔父を止めて。もうこれ以上」
私はシャルロッテの顔を見た。
涙。震え。乱れた髪。消耗した顔。
本物だろうか。
ギュンターの差し金ではないか。涙で同情を引き、私から情報を引き出す罠ではないか。
この女は社交界の情報操作のプロだ。涙すら武器にできる人間。
でも、もし本物だとしたら。
「シャルロッテ」
「……なに」
「あなたが持っている情報を、全て教えて」
シャルロッテの目が広がった。
「証拠の隠滅を手伝えと言われた、ということは、あなたは具体的に何を隠したか知っているのね」
「……ええ。帳簿の。原本の写し」
「それはどこにあるの」
「叔父の私邸の金庫。でも」
「写しは取れる?」
シャルロッテは黙った。長い間。そして、小さく頷いた。
「三日で用意する。でも、あなたは私を信じるの? 今まで私はあなたを」
「信じない」
シャルロッテの目が揺れた。
「信じないけれど、情報は受け取る。信頼と取引は別物よ。あなたが嘘をついていたら、それはあなた自身に返ってくるだけ」
冷たい言葉だと思った。自分でも。
シャルロッテは涙を拭い、立ち上がった。
「三日後に。同じ場所で」
部屋を出ていくシャルロッテの背中を見送りながら、胸の奥がざらついた。
正しかったのだろうか。
手を差し伸べるべきだったのだろうか。「大丈夫、一緒にやろう」と言うべきだったのだろうか。
わからない。
「……厳しいな」
クラウスの声。壁際から。
「あの女を信じる理由がない」
「だが、嘘と決めつける理由もない」
「だから情報だけ受け取った。感情は挟まない」
クラウスは何も言わなかった。
◇◇◇
シャルロッテが去った後、クラウスが危険な任務に出ると告げた。
ギュンターの候補リストから自分を外すため、わざとギュンターの前で「財務に関心がない」演技をする必要がある。財務卿補佐官の会議で、あえて的外れな発言をして「こいつは無害だ」と思わせる。
「自分を無能に見せるのは得意じゃないが」
「あなたにしかできない仕事ね」
「皮肉か」
「褒めてるの」
クラウスが立ち上がった。書庫の扉に手をかける。
「明後日には戻る。結果は」
「気をつけて」
言おうとした。でも、口をついて出たのは別の言葉だった。
「……勝手にしなさい」
喉の奥で音が割れた。
クラウスが振り返った。蝋燭の灯りの中で、私の顔を見た。
少しの間があった。
微かに、本当に微かに、口の端が上がった。
「勝手にする」
扉が閉まった。
一人になった書庫で、ヨーゼフが淹れてくれたラベンダーティーの残りを飲んだ。
冷めていた。クラウスが淹れるカモミール茶とは、全然違う味がする。
……比較するな。意味がない。
窓のない書庫の中、蝋燭の炎が天井に長い影を落としている。
シャルロッテの涙。クラウスの背中。ヨーゼフの穏やかな目。
一人じゃない。
いや、そうじゃなくて。一人じゃないと思いたいだけかもしれない。
でも。
炎を見つめながら、もう一度だけ呟いた。
「気をつけて」
誰にも聞こえない声で。




